再起
仕事中に個人的な話をするんじゃない、とレナスはずいぶん支配人から怒られてしまった。支配人は50台の働き盛りで結婚もしている。従業員からはよく煙たがられているが、彼のいうことはだいたいが正論だ。暇な日なら良かったが、思ったとおり行商人の大口の客が泊まることになっていて、部屋を整えるのに大慌てになってしまったため、そのおかげで逆に怒られるのもほどほどでとどまったのがせめてもの救いだっただろうか。
夜になって自分の仕事時間は終わり、職場を出てヘクトルが来ているかどうか探したが、正門にはいないようだった。ところがなにか予感のようなものがあって、ならばと裏に回ると白い軽装の彼が壁にもたれかかって空を見上げていた。
「あっ、レナスさん」
と彼は大きな体のくせにレナスを見るなり飼い主を見つけた子犬のような笑顔を見せた。もしかしたら、心細かったのかもしれない。表が賑わっているのに比べてこちらは極端に人通りが少なくて、それがかえって普通より寂しかっただろう。目立つなと言ったのは自分だけど少し悪かったかな、と彼女は思った。
「本当に待っていたんですね。こんなところで、でも、せっかくだから、知り合いのところに行きましょう。あなたもご存知でしたっけ、ニスバさんの家ですよ」
ちなみに、レナスに与えられた部屋もこの三階建ての旅館一階の隅っこにあるのはあるのだが、かえって人の目が多くなってしまうのだ。つい先程も、ここを出る前にこの男とのことを根掘り葉掘り聞かれたものだった。うまい言い訳もできず、これまで会ったこともないとか、ホットケーキがおいしかったと言っていたとか強弁してなんとか抜け出していた。
ニスバの住む家まで来た。灯りがついているので、誰かいるには違いない。ノックをすると、幸いその彼が出てきた。
「おや、レナスさん、どうされたんですか? あ、ヘクトルさんも……おふたりでどうされましたか。いえ、いつでも歓迎しますよ。ただお食事の用意はできていませんが……」
とちょっと困った様子だったが、レナスとしては彼が私のことを教えたというのだから、私も彼に多少の迷惑をかける権利だってあるはずだと思った。……悪いとも思いつつ。
「食べてきたから大丈夫だよ、ヘクトルももう夕食は済んだよな?」
と後ろを振り向いて念押しし、まったくぶしつけながらあがらせてもらった。ヘクトルも後に続いて狭そうに入ってくる。
椅子はなんとか足りて、奥さんのメニーさんが紅茶を3つ用意してくれた。
「今日、こいつが俺を訪ねてきたんだが、職場だったからあまり長くは話せなかったんだ。ここなら誰も知らないから、大丈夫だと思ってね」
「へえ、そうですか。確かにレナスさんのことが知られたら、まだ昨日の今日で大騒ぎになるかもしれませんね」
と、眠いのだろうか顔をこすりながらニスバが答えた。
ヘクトルは少し驚いた様子で言った。
「レナスさん……ですよね? ずいぶん、さっきとの印象が違いますね。口調とか……雰囲気も、どういったらいいか、変わりましたね……」
「男らしくなった、だろう? 素が出てるだけだよ、気にするな」
とレナスがいったが、そうとも納得しづらい感じではあった。
「レナスさんは外見と中身がちぐはぐすぎるんですが……そもそも、それでも外見の女性らしさを隠しきれてないんですよ」
とニスバが口を挟んだ。そこから彼らは話し始めた。レナスが神であることとか、その能力とか。そしてヘクトル自身について。
「私は、貴族の家の八男に生まれました。夫婦仲が良かったんですよね。子沢山で。そして、その中で私が一番力が強いんです。だけどそんなものよりも、長男だったり、上の方の兄弟が後を継ぐから、私なんて別に力が強くても弱くてもどうだっていいんですよ。だから命を賭けてでもコロシアムで名を挙げたかった……その結果があれです。恥を、かいてしまいましたね」
「本名で出場したのか?」
ひどく落ち込んでいるヘクトルに、レナスは疑問を口にした。
「本名ですが、ただのヘクトルで、家の名前は出してません。まあ、わからないでしょう。有名になれば別でしょうが、初参戦ですから。ちなみに、言っておきましょう、我が家系はプラズム家といいます」
「プラズム家……名前はかっこいいなぁ。だけど、お前、相手(レナス本人のことだが)が悪かっただけで強かったよ。もう一回出場したらいいじゃないか。今度はきっと勝てるよ」
「だけど……怖いです。あの舞台にまた立つのは。無様に負けてしまった人間がまた挑戦していいものでしょうか?」
「あんなもんは勝ち負けがすべてなんだから、勝っていけば悪評なんて全部プラスになるもんだろう。そうじゃないか? 怪我だってしてないし、問題ないよな、ニスバ?」
「ええ、普通は負けたら怪我をして良くてもだんだん弱くなっていくし、悪くて即引退ですよ。あなたは運がいい。私も運が良かったんですが……私には才能がなかった……」
今度はニスバが思いっきり沈み込んでしまった。面倒くさいと言わんばかりにレナスは首を振った。
「だけど、お前はいいじゃないか、私の賞金も全部くれてやったんだから、あれで、美人の奥さんと仲良く真面目に暮らしていけよ!」
ニスバは顔を上げてレナスを見て、ため息混じりにその通りですね……と言ってまた視線を落とした。
「あんたねえ、今どこに不満を持ったの!」
と話を聞いていたメニーが隣の部屋から出てきて、取っ組み合いというか、一方的にニスバが言われっぱなしである。あれは犬も食わない。ほっとこう。それよりも……。
「なあヘクトル。お前、もう一度と言わず出てみてくれよ。俺の代わりにスターになってくれ。怪我なんて俺が治すし、練習相手にもなってやる。お前はどん底になったかもしれないけど、ここから這い上がる力はあると思うぜ。不死鳥伝説ってやつを作ってみようじゃないか」
ヘクトルはそれを見て笑みがこぼれた。レナスの容姿なのにまるでべらんめえ口調みたいに言われると、なにか滑稽というか微笑ましさが先行してしまう。彼はすでにレナスを好きになってしまっていたかもしれない。
「わかりました、やりましょう。あなたが力を貸してくれるなら、きっと私はこの名前をこの街に響かせてみせますよ」
ヘクトルはそう言ってレナスの手をギュッと握った。さすがのレナスも、ちょっとそれは痛かったらしい。
「まあ、この馬鹿力なら期待できるだろう」
そうしてまたすぐに、次の試合の日がやってきたのだった。が、簡単に書いてしまうと、ヘクトルは勝った。それも連戦連勝、常に余裕の勝利である。彼は数ヶ月もしないうちにヒーローになった。レナスが彼について特に調べなくてもいくらでも情報が入ってくるようになった。お客さんが新聞を喜々として見せてくれるのだ。
「不死鳥の男、一度の敗戦から圧倒的勝利を続ける。紳士的で、相手に過剰な負傷を負わせない。彼こそまさに現代のナイト、英雄と言っても過言ではないだろう」
と、そういう記事が踊っていて、彼の家名もしっかり知られるようになった。彼はまさに自らの面目を取り戻し、それ以上のものを得たのだ。
「それにしても彼の第一戦目、唯一土をつけた剣闘士、それも女、レナスというのは何者なのか? 彼女はあれから姿を見せず、謎のままであり、本当に、あの女神レナスであったのではないかとも言われ始めていて……」
云々、という記事もついてくる。
「このレナスだけど、お嬢ちゃんも同じ名前よなぁ。こんな珍しい名前なんてないのに、不思議なもんだな、神様の名前がついた人間がふたりもいるなんて。でも、レナスちゃんを見てたらそういう名前が違和感も反感もないから不思議だよ」
と客が自らその記事を音読してから、そう言った。
そして記事には小さくヘクトル個人について紹介する部分もあり、そこにはこう書いてある。
「彼は今までの賞金の殆どを恵まれない子供に寄付しており、人格者としても偉大であることを示している。次の対戦相手はバートン、といえば皆さんご存知だろうが、彼の相手は不自然な怪我や病気が多く……」
少しレナスは不安を感じた。
「ヘクトル! あなた、怪我をしたの?」
レナスはヘクトルが昼からベッドに横たわっているのを見て驚いた。彼の家は貴族の豪邸に与えられた二階の一室であるが、そこで彼は横になっていた。彼が使うためのものだからベッドも非常に大きい。
「レナス様、よくここまで入ってこられましたね?」
驚いたのも無理はなく、彼女は仕事着のままだった。ちなみにこの仕事着も動きやすさを追求しつつ可愛さを上品にアピールしているもので、ヘクトルはこの格好を見られただけで体温が少し上がったぐらいだった。
「ええ、休憩時間にちょっと様子を見に、ね。でも抜け出すのが大変でした。あ、この館もちょっと外壁を飛び越えて入りましたけど、大したことはないですよね? そんなことよりも、重症ですか?」
「ええ、いや、大したことはありません、こんなもの。少し……その……足の指が折れていますが」
「なぜそんなことに?」
「なぜでしょう、道を通っていた馬車馬が急に暴れだして、こっちに向かってきました。私はそれを避けていなしたのですが……とっさのことで足を踏まれました。ここに来た警察の話だと事故だったということですが」
「見せてみなさい」
包帯を解いてみると確かに無残なもので、思いっきり踏まれたせいで骨が一部露出している。これでは戦うどころではあるまいが、不戦敗は罰金になってしまう。これが賞金よりも高いのだ。コロシアムとしても、もはやメインの、トリを務める剣闘士が不参加では痛いだろう(そんなことは知ったことではないが)。だが、ヘクトルは運の良いことだ、レナスがその足に触れるとその傷はみるみる治った。感激のあまり彼は立ち上がり、レナスを抱きしめて感謝しようとしたが、彼女はそっけなくかわしてすでに帰るために窓を開けていた。
「ヘクトル、これがバートンの仕業なら、思い切り復讐してやるといい。だけど絶対に殺してはだめよ。足が治ったことは隠しておくことね。何があるかわからないから、私も今回は、控室まで観に行くわ」
「それはもう、百人力です。絶対に勝利をあなたに捧げてみせますよ」
と彼は胸を叩いた。彼女は飛び降りた。
そして試合になり、バートンと相対した時、彼はすでになめきっていた。ヘクトルの足は確かに使い物にならなくなっていると報告を受けている。観客からブーイングが聞こえるようではあるが知ったことではない。勝てばよかろうというものだ。そもそも、こいつらはいつのまにこんなに行儀の良い戦いを望むようになったんだ。彼は客席に向かって吠えてみせた。
「今日こそ、お前たちにあいつの血を見せてやるぞ!」
ブーイングが返ってきた。いいだろう、これこそ俺がずっと受けていた反応だ。
戦いが始まり、お互いが突進する。剣の大きさは同じだが体格はヘクトルの方がやや大きい。正面からでは負けるだろう。だからこその手、だった。しかし、向こうが突進するのを見てやや焦った。彼は一度下がり、今回の試合場の障害物として植えられていた木を折り取り、簡単な投槍として使った。ヘクトルはそれを剣でいちいち払いのける。その姿に負傷の影は見えない。いかん、こうなれば、まともに当たると不利だ。彼は負けを覚悟した。自分もずいぶんと儲けてきたし、ここが潮時かと、そこまで思った。
最後に彼がとったのは乾坤一擲の策、要するに全力疾走でぶち当たる激しい一撃と、続く連撃を加え、それで勝てばそれでよし、だめなら反撃を受け、すぐさま降参するというものである。しかし、ヘクトルは彼の動きをことごとく見切り、すべてを打ち破り、その剣で反撃の一撃を加えた。それだけで彼の胸の骨は折れてしまった。
「降参だ、降参だよ。許してくれ」
とバートンは言った。その声はか細く観客には聞こえなかったが、すでに戦意がなくなったのは見て取られた。観客達は彼らを煽る。
「バートン、お前は今まで降参した相手をどれだけ痛めつけてきたか覚えてないのか。ヘクトル! 構わねえから、やっちまえ!」
と言った。ヘクトルはこれを毅然として拒否した。
「彼はすでに降参した。そして見ろ、もう兜を取った。だから完全に私の勝利だよ。兜を取るというのは首を切ったのと同じだ。だけど、剣闘士にはこれからの人生もあるんだ。一度負けても私のように再起できるものもいるし、普通の仕事を始めるものもいる。奴隷じゃないんだ。今、戦いが終わったが、彼と私の次の戦いに拍手をしてくれ、観客諸君!」
市民たちは熱にうたれ、闘技場にヘクトルを呼ぶ声が鳴り響いた。
さて、その後ろでひっそり控室に担ぎ込まれたバートンだが、彼を見ていたのはレナスだった。救護室には彼のため特別についていた本物の医者がいたが、半ば力づくでむりやりに彼と二人きりになった。
「さて、バートン、お前は怪我人だが、その前にヘクトルに卑怯な手を使ったな?」
重症のバートンは言いしれぬ恐怖を覚えて素直に答えた。
「はい、使いました、ですが、結局それは失敗したんです。私は負けました……」
「いや、策は成功したよ。その結果お前は実力で負けただけだ。さて、その理由だが、私は人間を治癒する能力がある」
レナスは彼についていた大小の傷をいくつか治してやった。彼は驚きの表情になり、そして一番苦しいだろう胸の骨折を指し示して、ここも治してもらえるだろうか?と息も絶え絶えだが図々しく言った。
「ああ、もちろん治そう。だが、俺はお前に怒りも感じている。そこで治療費として情報を要求する。質問に答えてもらおう。お前はずっと汚い戦いで勝ってきたな? それをお目溢ししてきたのは誰だ? お前をサポートしていた人間は」
「そんなの知るもんかよ、俺がやったことだ」
レナスは彼の指をきつく締めた。指と胸の二重の痛みで悲鳴をあげることもできない。呻くように彼はやっと言葉を出した。
「それを言ったら俺は殺されてしまう」
「他の街に逃げればいいだろう、そのくらいの金ならあるはずだ。なければヘクトルに出させるよ。とにかく遠くへ行って、そこで真っ当に暮らせ。で、どうなんだ?」
「わかったよ、コロシアムの組織のお偉いさんで、マイケル・プルトというんだ。俺はやつに作られたダークヒーローだったわけさ、そんな器でもないがな」
「マイケル・プルト、というのか。確かなんだろうな」
それを確認したレナスが胸の傷を癒やしてやると、彼は別人のようにおとなしく静かな眠りについた。女神の前だからとはいえ、確かにこんな赤子のように安心して眠るような男が、ダークヒーローなんて柄じゃないだろう。そして彼はその晩にはすぐに逐電して、どうなったかはもはや誰も知らない。




