リベンジ
次の日にはレナスはいつもどおり、日々生きていくためにやっている旅館の仕事に戻った。早朝、たまたますれ違った今日の宿泊客がちょっと愉快げに新聞を彼女に見せた。レナス、という新人で異色の女剣闘士、初勝利を飾る、と。また、その戦いがあまりに鮮やかで、観客はどうして決着がついたのかもわからないほどだった、そのためにむしろ相手役の不甲斐なさを批判する声の方が大きくなったのだと。
「自分も見に行きたかったよ、一日早くこの街に来ていれば……」と彼は言った。
「見ない方が良かったと思いますよ、とてもひどい騒ぎになったみたいですから」
「おや、君は見たのかい?」
「いいえ、話に聞いただけなんですが……」
レナスというのはそのままの名前であって、はっきりいってかなり珍しいというより、その名をつけること自体がありえないほどのものだが、そういう共通点があったとしても、その剣闘士とこのおとなしい女を結びつけるのは誰にも不可能だったようだ。
レナスは考えていた。あの場の人間のあまりの心の荒廃について。あれほどにもひどく、神をも受け付けない場所とは思わなかったし、それを改善するのは自分の仕事だと感じた。そうしなければ、それこそ自分の信仰に関わると。
コロシアムそのものをぶっ潰してやりたいぐらいだったが、それではただの犯罪行為、テロ行為でしかないし、それで生活してる人はどうなるのだとは思った。彼らとその行いすべてが悪ではないことを思えば……。
まだ仕事中なのにひそひそと同僚たちが話してるのが見える。旅館内ではカフェ、夜になるとバーになるお店も経営していて、レナスは今朝はそちらの仕事をしていた。朝食の客もほぼ帰っていって、ひそひそ話をする余裕もできてきたというわけだが……と、その同僚の女性たちがひとり、レナスを引き寄せて輪の中に入れてきた。
「あのさ、ずっとあなたのこと見てる男の人がいるんだけど、知り合い?」「なんかかっこいいよね。顔は。でもどういう人なんだろう……」
と言っている彼女たちの話もわからず、その男のことなどまったく全然気にもとめていなかったレナスだったが、ふとそういう彼女たちが視線をちらちらと向ける先をうっかり追ってしまった。すると、確かにそこには体格のいい男性がいて、しかもこっちがあっちを見ると同時に不自然に目をそらし、あらぬ方向を見つめているのだ。
「確かに怪しいですね……」とレナスはつぶやいた。
「ねっ、今、あなたが見たから避けたけど、それまでずっとあなたのこと見てたのよ」
とはいうものの、レナスからしたら見覚えがあるようなないような、よくわからない人間だった。自分の知り合いだとしても、この街に来て個人的な付き合いがあるとしたら、ニスバ夫婦でなければアレクシスさん一家であって、もうそれでおしまいである。仕事上ということなら、こういう仕事なものだから当然接した人間は多いだろうが、はたしてあんなのと話したことがあっただろうか? 同僚の誰も見当もつかないようでますます不思議だった。
レナスは考えるのはやめ、ズカズカと近づいていくことに決めた。同僚たちがちょっと慌てるのを感じたが、これが一番早いだろう。
「お客様、なにか、私に御用でしょうか?」
というと努めて横を向いていた彼は慌ててこちらに向き直ったものの、戸惑ってとっさにしゃべることも思いつかず、逆に気の毒にすら感じられた。
「あ、いえ、何も……」
「そうですか? ずっとこちらを見られていたようでしたから、もしかしたら、ご注文でしたか?」
「あっ、ハイ。えっと、じゃああの、この、ホットケーキを……ひとつ」
かしこまりました。とレナスは注文を預かり、戻ってきた。
「ホットケーキが欲しかったみたいですよ、なんでしょう、男の人だから照れくさかったのでしょうか?」
影に隠れて覗き込みながらレナスを待っていた同僚たちは、それを聞いて顔を見合わせた。
「そんなことなのかしら?」
「いいえ、あの方の目つきはただ事じゃなかったですよ。すぐそういうことを言う、なんて思われるかもしれないけど、あれは絶対に恋する人の目だったと思います」
「私も同意見ですね。本当にお会いしたこともない方なのですか?」
彼女たちに次々とまくしたてられてレナスは困惑してしまう。確かにレナスは外見上こそ20歳くらいの女、それもいかにも女性を強調したような丸みをもった体で、その顔つき、表情も柔和で優しげな愛されるために生まれたようにすら見える人間なのだが、その本当の姿は、すでに人間の男としての生を終え、死後にもっと高い存在によって持ち上げられて神になった存在なのである。ただ、神としては元の存在と似ても似つかぬ女神だったところが、誤算だった。
そして、その神様が自らの自意識を分割させ、肉体を持たせて現界に顕現した姿が今の状態となるのだが、それがまた難しいことで、その女性としての、女神を模した外面と同時に、精神の本質は荒々しい男という、両面を併せ持っている。外面と内面、どちらも彼であり彼女でありつつ、本人はあくまで男を主張しているのである。
そんなレナスにとって、こういう話は厄介きわまることだった。はっきりとどうでもいいと言ってしまいたいほどだ。それでも周囲に流されるままにレナスはその怪しげな男にできたてのホットケーキを持っていってしまう。
「お待たせしました」
と4人用のテーブルに一人で座っているその男の前に置いて、下がろうとする。男はそれを決心したような表情で呼び止めた。
「ちょっと、待ってください。よかったら、少しお話をさせていただきたいのですが」
「お、お客様? 当店は個人的なお話をするというようなサービスは行って……おりませんが……」
と言いつつも、中腰で目を真っ直ぐ合わせてくる男の顔に、彼女は既視感にとらわれていた。もはや他の客はいない。とても大事な話というのなら、聞かないといけないような気がして、彼女は観念して、男の正面に座った。その様子を見つめて同僚たちが息を呑んだが、そこに、この旅館の支配人がやってきて、仕事をしろ、と追い散らした。さらにレナスをも見つけたが、客が正面にいるのを見て、差し当たって注意するのは諦めた。後が怖いなと彼女は思った。
「それで、どういったお話でしょうか。大事なお話なんでしょうか。私は、仕事中なのですが」
「すみません、後から私からも謝らせてください。だけど、あなたは私のことを憶えていらっしゃいませんか? 私です、昨日のコロシアムで、あなたの相手として戦ったヘクトルと申すものです」
言われて、初めてレナスは目の間にいる背の高い、おそらく男性の平均と比べても頭一つ高いであろう男の正体に思い至った。何しろ昨日は白目を向いた後の姿しか見たことがなかったからわからなかったが、改めて見るとその面構えは雄々しくも涼しげで、コロシアムで勝ち進められるなら女性から人気が出ることだろう。
「それで、そのヘクトルさんが私に会いに来たのはどういう理由ですか? 私への復讐ですか? 戦うというのなら、場所を選んでいただきたいですが」
と、レナスは思い切り突き放した。ヘクトルは慌てて否定した。
「いいえ、違うんです。むしろお礼をしに来たんです、私は。ニスバさんからも聞きました、あっさり気絶した私は観客達にひどく煽られて、あなたに殺されててもおかしくなかったのに、その観客を否定してまで救ってくれたのだと」
若い女性の前で若くたくましい男性が顔を真っ赤にして慌てる姿は、滑稽だった。3人いた同僚たちの2人は別の仕事へ散ってしまったが、残った1人はそれを目撃し、誤解の確信を深めていった。だが、今はそれはどうでもいい。
「私は別にあなたを助けるためにやったことじゃないよ。私自身の、信念みたいなもののためにやっただけのことだ」
「それでも救われたのは事実です。どうかお礼をさせてください。それに、個人的に不思議でもあるんです。あなたはどう見ても……その……か弱い女性です。とても美しくて……戦いをするような方には見えません。本当にあなたがコロシアムに出たのか? 話を伺っても、今お話をさせてもらってもまったくわかりません」
ドタバタとにわかに奥の方が忙しくなり、ちらとそちらを見る。そういえばこれから団体客が入ってくる予定になっていたはずだ。
「悪いんですけど、話はここで終わりです。もしもまだ話したいことがあるなら、夜にまた来ればいいでしょう。ただし、今度は怪しまれないようにしてくださいね」
「私そんなに怪しかったですか?」
「ええ、まあ、ちょっとね」
「反省します……それと……」
まだなにか?とレナスは傍目にもとても可愛らしく小首をかしげる。
「私、甘いものはあまり得意じゃないんですよね……どうしましょう、これ」
と彼はその大きな指で小さなホットケーキを指した。
「残さないでくださいね」
レナスはおかしそうに小さく笑って、彼を残し小鳥のように立ち去った。




