せっかくだから俺はテンプレを擁護するぜ!というエッセイ
突然ですが、世の中の読書する人々の話をしましょう。
文化庁の2014年調べのデータによります。参考資料は産経新聞です。
「一ヶ月間で何冊の読書をするのか」
これに対し、驚くべき数字が出ています。
0冊 :47.5%
1~2冊:34.5%
3~4冊:10.9%
5~6冊: 3.4%
7冊以上: 3.6%
つまり、半数近い方が月に一冊も本を読みません。
平成21年の調査と比較すると、一冊も読まない方は1.4%も増加したのだそうで。
平成14年と比較すると10%もの増加……!
無視できる変化ではありません。
次に、読まない年齢層。
これは、高齢者であるほど読まなくなってきているそうです。
70歳代で59.6%が本を読まない。
60歳代で47.8%。
20歳代が40.5%。
10代以下で42.7%。
どうして読まなくなったのかの理由は、
「仕事や勉強が忙しくて、読む時間がなくなった」が51.3%。
「視力など健康上の理由」が34.4%
「携帯やPCなどの情報機器で時間を取られる、が」26.3%……。
このように、なかなか文章を書く我々にとって、恐怖を抱く数字が並んでいます。
これは2014年時点ですので、2017年時点ではよりスマートフォンなどの普及が進んでいると思われますので、より一層恐ろしい事になっているのではないでしょうか。
読書のライバルとは、それ以外の娯楽全て、になってきています。
これは、書店で購入する本のみならず、我々アマチュアが執筆する無料のネット小説も同様です。
さて、筆者としましては、この本を読まなくなった方々に読んでもらえるチャンスはあるものと考えています。
読書をしなくなった理由の第一位である、「読む時間がなくなった」と三位の「情報端末で時間を取られる」
この二つは、前者であれば休憩時間や移動時間などの隙間時間、後者であれば、情報端末で読ませてしまえばい、などなど。
ネット小説は、そのための大きな強みになると考えています。
では、どんな小説が、隙間時間には読みやすいでしょうか。
このエッセイでは、とりあえず分かり易さ、筆者の主張を明確にするため、偏った見かたでの主張をさせていただきます。
筆者が思う、隙間時間に読みやすい小説。
それはテンプレです。
俺tueee、現代知識無双、婚約破棄、モンスター転生、などなど。
一話一話がスマートフォンで読むことに適した長さに区切られ、その上で一話読むだけで、それなりに盛り上がりがあり、インスタントにそこそこの満足度を得られる。
これに次話への引きなどがあれば最高でしょう。
隙間隙間に、「さて、今日の更新は……」などと読むことが出来るようになります。
テンプレとは、言うなれば物語における、快楽的な要素をデフォルメしたものです。
分かり易さ、端的に物語的快楽を得られる、そういう要素を抽出し、システム化されたものであると考えます。
まさに、テンプレートですね。
普段読書をする方には、これは実に短絡的で、段取りを踏まない、伝統に対してリスペクトを感じない作品になっていると見えるかと思います。
では、普段読書をしない、物語のセオリーや王道、基本構造を知らない人々にとってはどうでしょう?
一時期、ケータイ小説が大流行しました。
現在もそれらは一定ファン層を抱えており、展開されています。
かつてのケータイ小説も、テンプレートを抱えていました。
簡素な文章で、インスタントに物語的カタルシスを得られる小説群。
これは、テンプレに似ていないでしょうか。
いや、そのものではないでしょうか。
ここで重要なのは「普段、本を読まないタイプの人々に読ませる、読まれる、読み進んでもらえる物語」であるということです。
暴論を申し上げますが、読書を愛するものは少数派です。
書籍の発行部数、販売部数は落ち、爆発的に売れる書籍は「君の名は。」「君の膵臓が食べたい」など、メディアミックスや出版社の大々的プッシュによって話題になったものばかり。
つい最近では、ノーベル文学賞のカズオ・イシグロ先生の作品などでしょうか。
これらが売れた、読まれた理由。
それは「普段読書をしない層に働きかけ、彼らに買ってもらえたから」に他ならないのではないでしょうか。
読書を愛する層を絶対的基準とし、彼らが満足して読めるものを、一定の技量、王道のセオリーを守って書く。
これでは、本が売れず、読まれない時代がやって来たのです。
愛書家だけを相手にしていては、やっていけないのです。
無論、考えもなしにテンプレをだらだらと書け、などと申してはおりません。
ですが、一見して矛盾に満ち、考えも無く口をポカーンと開けて作者が白昼夢のままに書き綴ったように見える文章が、果たして全くその通りに描かれていると誰が言えるでしょうか?
それが計算でないとは、誰が見抜けるでしょうか。
そして、そんな文章がここ、小説家になろうで支持を得て、大きなポイントを得て、やがて書籍化していく。
これは、不正でしょうか?
あってはならないことでしょうか?
一見して単純で、従来の物語のセオリーから逸脱、あるいは滑稽なほどそれをデフォルメしたり、無視した作品。
これらの中で、ランキングに上がって一定の評価を得ている作品には、そういうニーズが存在しています。
これらは偶然書かれたのではなく、そういうニーズに応じるべくして書かれ、支持されたのです。
では、ここで、大きく支持されているランキング作品のブックマークと感想数を対比してみましょう。
例えば、ブックマークが1万ある作品に、感想が1万ついているでしょうか。
大抵は、その1~3%なのではないかなと思います。
長期連載の場合は、このパーセンテージも増えていくでしょうが、とりあえずはランキングに載っている、ホットな作品を対象とします。
物申す読者、積極的に感想を口にする読者が1~2%。
彼らは繰り返し感想を書かれるでしょうから、それを踏まえると1%未満ということもありえるでしょう。
物言わぬ読者が99%。
彼らは無言で、しかしその物語をブックマークし、読みます。
圧倒的マジョリティです。
愛読家であり、物語に一言申す人々。
彼らは圧倒的にマイノリティなのです。
あるいは、物申す物書き。
さらにマイノリティであることは間違いないでしょう。
では、テンプレにおもねる事でこのマジョリティの支持を得られるでしょうか?
否です。
流行とは常に移り変わります。
一見して変化していないように見えても、その流行の中にある者にとっては大きく変化をしているのです。
この、流行のマイナーチェンジとでも言うべきものを感じ取り、あるいは研究して書かねば、継続して大きな評価は得られません。
テンプレを書く者は、常に流行を知っていなければならないのです。
これは極論でもあります。たまに天然で書いてそのままドバーッとランキングを駆け上がっていく凄い人もいます。
ですが、テンプレ=何も考えずに書かれている作品、流行におもねった作品と言う訳では無いのです。
読まれるために、評価を得るために、見えぬ努力が成され、それが結実した姿がランキングなのです。
現在、ランキングには書籍化作者様や、逆お気に入りの多い方が多くランクインしています。
彼らは時代を掴み取り、ファンを増やし、機会を逃さず、モノにした人々です。
そんな彼らが、テンプレをなぞる作品を書き、評価される。
これは正当な評価だと考えます。
さらに、こういったテンプレ作品を読み、自分もこのような物語を書きたいと志した方々。
彼らがテンプレから入ってくるのは、ごく自然な事です。
そして、彼らが書き上げる物語が、色々と足りない事。これも自然です。
足りないなら、後から経験なり知識を入れるなりして継ぎ足せばいい。
誰もが、最初からしっかりとした物語を書けたわけではありません。
ですが、何かをきっかけに、彼らが「執筆する側」になろうとした事。
これは大変素晴らしい事ではないでしょうか。
彼らに必要なのは、上から目線で先達から教えられ、導かれる事ではありません。
ひたすらたくさんの物語を描き、未完でもいいので、どんどんと思いついたものを描き続けることです。
テンプレは、彼らがこの執筆の世界に漕ぎ出すための、大いなる助けとなるでしょう。
なろうは、彼らが物語を世界に向けて発表するための、大事な場となるでしょう。
そのような理由から、筆者はテンプレを擁護する次第です。
テンプレ批判をなさる方の論調は、おおむね一致しています。
いわゆる王道に則り、テンプレによる物語構造、これの作者、これの読者をこれこれこのようなタイプだと断じ、批判するスタイルです。
これは別にこれで間違いないと思うのですが、ちょっとこれだけはいただけないなというのがあります。
それは、彼らの多くが批判の土台とするテンプレの知識が大変古いことです。
なろうテンプレは流行の一環ですので、移り変わり、常に有機的な変化を遂げています。
テンプレ作者はそれらを見ながら、新しい作品を生み出していきます。
これに対し、数年前の周回遅れの知識で批判をされても、批判者の知見の狭さ、浅さの方があらわとなり、批判者の方々の仰りたいことが伝わりません。
互いに現状を把握し、有意義な議論を行なって参りましょう。