11 「夏の引越」
それは、例の洒落にならない「恐怖新聞事件」からしばらく後。
ようやく待望の夏休みが始まり、夏休みの特権であるダラダラ感を全身で満喫していた私に、一本の電話が掛かります。
「あ、渡辺くん? 岡部だけど」
なんと、電話の相手は我らの担任様からでした。何でも、「夏休み早々悪いけれど、学校の雑用が色々あって人出が欲しいの。お昼はご馳走するから、今からお願いできない?」との事。
「先生、安く見て貰っちゃ困りますよ。昼飯ぐらいで転ぶ様な俺じゃないですよ?」
「でも、吉月先生も困ってるのよ」
「はい! 今すぐに支度します! 」
ちなみに、この吉月先生という方は、私達の音楽担当の先生で、まるで芸能人のように綺麗な人でした。実際のところ、私は音楽の類・・・特に楽器類・・・が大の苦手で、だいっ嫌いだったのですが、この先生目当てで音楽に熱を入れる男子は、恐らく私だけでは無かったはずです。
早速、私は身支度を調え、炎天下の中、必死でチャリンコをこぎ・・・・チャリンコをこぎ・・・・チャリンコをこぎ・・・・、学校に到着する頃には、脱水症寸前の状態でした・・・。
(どんだけ必死なんだ、自分・・・。)
とりあえず校門の蛇口で水分補給をして、集合場所の我が教室に入ってみると・・・・・
当然の様に、ヤツが居た訳です・・・・。
「何でお前が居るんだよ? 今日は力仕事のはずだろう? 鷲尾は兎も角、お前じゃ役立たずだろうがよ。」
このセリフが言い終わるよりも早く、横から鷲尾の上履きが凄い勢いでコメカミにヒットしたのは置いておいて・・・、
「私も先生に呼ばれたのよ。 文句あるの?」
(チッ・・・、今日はせっかく、吉月先生を眺めてのんびり出来ると思ったのに・・・。)
もっとも、この考えが甘かった事は、すぐに分かるのですが・・・。
ところで、どういう訳か、前回の新聞委員会のメンバーは全員揃っていました。
どうやら先生の中では、このメンバーは「便利クラブ」の会員として、しっかりと登録されてしまったようです・・・。
早速、私達に仕事が割り当てられていきました。
「男子は全員、まず職員室の引越を行います。」
「えっ!? 職員室の引越!?」
と、驚く私達に先生曰く、どうも校舎改装に伴って、新しく完成した特別教室に荷物を運搬するのが私達の仕事のようで、大道具を男子組が、その他の雑用を女子組が行うとの事でした・・・。
この引越作業というのは、何の冷房器具の無い校内では相当キツイ労働でして、実際のところ夏休みなんてのは、暑くて能率が上がらないから休む訳でして、そんな環境の労働が楽な訳が無く・・・、昼飯ぐらいでは実際に割に合わないものでした・・・。
しかも、引越は我々の職員室と別働隊の理科室、・・・こちらは他のクラスの犠牲者が行っている様でしたが・・・、そして午後から行う事になった音楽室と、とにかく荷物が机からして重量級の所ばかりで、午前が終わる事には、相当な状態になってしまい・・・、この時ほど自分のスケベ根性を憎んだ事はありませんでした・・・。
そんなこんなで、ようやく昼飯の時間になり、先生から差し出されたメニューは日本蕎麦屋のものでした。
ちなみに、この蕎麦屋は、本日女子組に呼ばれている菊本キョウコの家で営んでいる店で、自家製の蕎麦を打つ美味い店として評判でした。
しかし、いくら評判とはいえ、この力仕事の後に蕎麦って・・・。
ですが考えてみると、このバテバテ状態では軽くてサッパリした炭水化物の方が良いのかもしれません。逆の発想で少しでもサッパリしたものを食べようと、私は「わかめそば」を注文します。蕎麦の中にワカメが入っただけの、アレです。
それにしても、教室というのはどうしてこう、窓を空けはなっても涼しくならないのでしょう。「構造上の欠陥があるんじゃないだろうか?」などと考えて、「ああ、だから夏休みがあるんだなあ」と、いつもの連中とアホな話をしていると、ようやく注文の蕎麦が届きます。
(菊本、お前のお父さんも災難だな・・・。 店の働き手を取られた上に、この嫌がらせの様な量の出前を注文をされて・・・・。)
ところで、この時、私の手元に届いた蕎麦は、「わかめそば」では無く「おかめそば」でした・・・。
そこにやってきた先生曰く、「わかめそば」が無かったので、名前が似ているから「おかめそば」にしたのだとか・・・。先生、最高のセンスですよ・・・・。
この「おかめそば」は菊本庵オリジナルの蕎麦で、伊達巻き玉子やらカマボコやらで、文字通り「おかめ」の顔を作っているという、言ってしまえばそれだけの蕎麦なのですが、「わかめそば」よりも高級だし、まあオメデタイものだし、良しとしようと考えていると・・・・。
「メニューもちゃんと見ないで、てきとーに注文してるからよ!」
と、金丸と二人で余程この「おかめそば」がツボにはまったのか、向こう側でゲラゲラと笑っていたエリが、いつの間にか横にやってきて、憎まれ口を叩きながら、おかめちゃんから大事な口をひょいと奪い、自分の口にぱくりと放り込むのでした。
「このアホ女! 伊達巻きを食うな! せめてカマボコにしろ!」
「あそ! じゃ、かまぼこも!」
そんなこんなで飯を食って三十分ほど休憩をした後、いよいよ吉月先生の待つ音楽室へ・・・・行ったのは良かったのですが、何と作業内容は、このクソ重い「オルガン」を、二つほど上の階に出来た、防音設備バッチリの新しい音楽室に運ぶとの事・・・。先ほどの職員室は、まだ同じフロアーだったのに、これはハードです・・・。
「ごめんね~」と謝る吉月先生の笑顔にエネルギーを補充され、二人一組でえっちらおっちらとオルガンを運んで階段を登ります。
その横を、涼しい顔で女子組がベートーベンの肖像やらトライアングルやらを運んでいきます。リョウコをはじめ大抵の女子は、それこそ申し訳なさそうにしながら横を通る訳ですが、クソいまいましい「ネジ飛び姫」は、それはそれは憎たらしい顔でイチイチニヤリと笑顔を向けていきます・・・。
(くそ、いまいましくて暑苦しい・・・・。)
それから結構な時間を掛けて荷物を運び、夕方になって涼しくなる頃、ようやく作業は終了しました。
最後のピアノを私と他数名で運び終えた時には、既に音楽室にはジュースやらお菓子やらが用意されていました。ふう・・・。
半ば強制労働的な作業から解放され、ようやく涼しくなった(とはいえ、音楽室なので暑いのですが・・・)音楽室で談笑をしていると、先生が真新しいバイオリンを持ってきました。なんでも、新しい教材で購入したのだとか。
早速、先生がお手本を示す様に、即興で曲を演奏します。う~ん、品のある先生には、バイオリンの演奏は実に似合います。
その後、私達も先生に教わりながら、代わりばんこでバイオリンを弾く真似をしますが、当然、まともな音が出る訳もなく、まるで一発芸状態でその引きざまを面白がっていました。それもそろそろ飽きた頃・・・、エリが私の手からバイオリンを無言で奪い取ります。
「リョウコ、お願い。」
そういうと、リョウコはピアノの前に静かに座り、実に器用にピアノを弾き始めます。そして、次の瞬間、私は唖然とします・・・。
エリが奏でるバイオリンは素人の私が聞いて分かる、所謂「上手い演奏」で、リョウコがピアノを弾けるのは教室に通っているという話で知っていましたが、こいつがバイオリンを弾ける事には、正直驚きを隠せませんでした。音楽に疎い私は、その曲が何という題名なのか全く知りませんでしたし、聞いてもすぐに忘れてしまいましたが、流石は姉妹の様にいつも一緒にいるお陰か、二人の演奏は実に息がピッタリで、とても美しいものでした。隣で聞いていた先生も、流石とばかりに頷いています。
これは後でリョウコに聞いた話ですが、エリは楽器ならば大抵は上手に使う事が出来るのだとか。
(本当に訳が分からんヤツだ・・・。そういえば、林間学校で歌った歌も上手かったな。)
私は、本当にこの不思議な存在をぼんやりと眺めていました。
普段は何を考えているのか良く分からない、顔を見れば憎たらしいことしか言わないヤツですが、バイオリンを演奏する姿は実に美しく見えました。私がそんなエリの姿を夢中になって眺めているのに気がついたのか、演奏を終えたその顔は、いつもの憎たらしい顔にもどり、さも得意げに私を見て微笑んでいました。
(くそ、いまいましい・・・。)
しかし間違いなく・・・、その時のバイオリンを演奏するエリの姿は、外からこぼれる赤い夕日に照らされ、黄金色にキラキラと輝いて、まるで本物のお姫様のようでした。