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宝石で彩られた本棚

作者: 川里隼生

 ふと思いついて、旅に出てみた。福岡空港から飛行機に乗って1時間。高知県沖に浮かぶ翠玉島すいぎょくとうという人工的に作られた島に着いた。島は真上から見ればちょうどA4サイズのコピー用紙と同じ形をしており、東側の海岸2000mがまるまる滑走路になっている。暇な人は地図を描きながら、この私の記録を読んでいただきたい。


 空港の到着ロビーを出ると、南国の風が身体中に当たる。これは気持ちが良い。これだけでも旅をした甲斐があったというものだ。実は飛行機に乗っている間、仕事のことが頭から離れなかった。いくら自由に休日をとれる職業の私であっても、せめて相棒くらいには連絡しておくべきだっただろうか。まあ、どうでもいいか。せっかく思い切って来たのだ。楽しもうではないか。


 島は東西に長く、中央には島を横切る大通りがある。自家用車は走っていない。観光客はバスか徒歩で移動するようだ。空港で地図をもらい、まずは島の中心、噴水のある広場を目指す。私はバスに乗った。バスに乗って驚いたのは一律150円という安さ。HOMMAホンマグループが運営する観光用の島で、宿泊客と従業員しか生活していないからか、バスの客もしきりに窓を覗いて、写真を撮っている。客の頭髪はライトグリーンやらショッキングピンクやら、私と同じ黒を探すのが難しい。


 広場に着いた。円形になっており、中々の広さだ。手元の地図によればこの広場からさらに南北に道が伸び、島を4つのエリアに分けているらしい。確かに広場からは4つの道が伸びている。広場に面するビルの時計は既に12時だ。私はそのビルの1階にレストランがあるのを発見した。


 早速入ろうとすると、背後から若い少年の声で呼び止められた。北側の道から野球帽をかぶった少年が走ってくる。

「おおい、そこの人!」

「え、俺?」

「そうそう! 俺は虎眼とらめたけし! バトルしようぜ!」


 見知らぬ少年から何故か決闘を申し込まれた私は狼狽えるしかない。虎眼くんは何も言わない私を察し、補足してくれた。

「『ストーンハント』ってカードゲームだよ。いま流行ってんだ。カード無いなら貸してあげるよ」

 最近はそんなものが流行しているのか。自分が若い流行に取り残されていることを実感しつつ、彼のカードを借りてバトルしてみる。早く終わらせて何か食べたい。


 基本的なルールを教わり、山札とやらからカードを1枚取る。それをフィールドという地面の1区画に投げる。すると、カードに描かれていたモンスターが実体となって出現したではないか。

「よっしゃあ! じゃ次は俺のターン!」

 私の1ターン目は終わったようだ。


 ゲームを始めてから、徐々に広場に人だかりができていた。私と虎眼くんのカードバトルを見にきたようだ。やや恥ずかしい。召喚されたモンスターは火や水を吐いたり雷や地震を起こしたりしているが、都合良く相手のモンスターにしか影響がないらしい。最近のゲームは上手く出来ている。


 結局、戦略を知らない私があっさり虎眼くんの罠にかかってしまい、敗れた。ゲームが終わったとわかれば人だかりは解散していく。

「バトルしてくれてありがとう!」

 こんなに明るい少年を見ると、もう30を過ぎた私も元気が出てくる。

「こちらこそ。ところで君、昼食は食べたかい? 良ければあの店で奢るよ」


 私の提案に、虎眼くんは飛び上がって喜んだ。裏表のない人というのは、彼のような子のことを言うのだろう。ようやく店に入り、氷の入った水を一気に飲み干す。思えば来週はゴールデンウィークか。ここも今の倍ほどは客が来て、レストランにも長蛇の列ができるのだろう。暫くすると、注文したデミグラスハンバーグセットが2つテーブルに運ばれてきた。


 私と同じ1人旅だという虎眼くんと談笑しながら食べるハンバーグは本当に美味い。カランカラン、と音を立てて、親子連れらしい3人の客が来店する。一瞬、その木製のドアの向こうに映画館の看板が見えた。虎眼くんとの食事を終えた後は、あの映画館に行ってみるか。今は何の映画をやっているのだろう。アクションなんかあればいいのだが。


 ガシャン、と皿の割れる音がして、私の視線は店内に戻った。虎眼くんの背後で音がしたようで、彼も振り向いている。先ほど入店した家族が着席している。

「すみません、申し訳ありません」

「いえいえ。怪我もありませんでしたから」

 そう言う男性客のズボンは、メロンソーダで汚れている。


 飲み物をこぼしたウェイターは厨房の奥に連行された。恐らく上司からきつく叱られるのだろう。

「働く人って大変なんだな」

 人参を食べつつ虎眼くんが言った。雰囲気が壊れたと思いかけた私は反省しなければならない。


 デザートのパンケーキに私が練乳をかけ終えた時、厨房から例のウェイターの悲鳴が聞こえた。ズボンの裾が汚れている男と、その子供であろう、虎眼くんより小さな少年が厨房に入っていく。テーブルには姉だろうか、高校生くらいの少女だけが取り残された。彼女はざわつく店内で超然とパスタを食べ続けている。


 10秒もしない内に、男性客が戻ってきた。

歩美あゆみ、警察に電話だ! 店員が殺されてる!」

 歩美と呼ばれた少女は待ち構えていたようにスマートフォンを取り出し、落ち着いた声で警察に連絡する。私だったら慌てて警察の番号を電話帳で調べてしまいそうだが、まさか慣れているのだろうか。


「皆さん! このレストランから暫く出ないで下さい! 私は探偵の玻璃はり光彦みつひこです。まもなく警察が到着しますので、皆さんには捜査に協力して頂きたい」

「ええっ? あの名探偵の?」

 虎眼くんは玻璃さんという探偵を知っているようだが、私は初耳だ。


 店中から『あのウェイターが犯人に決まっている』という声がひそひそと聞こえる。殺された店員が、ウェイターを店の奥に引き込んだ男だったからだ。しかし当のウェイターは『私は殺していない』と言っている。確かに自分が殺したのなら自分で悲鳴は上げないだろう。いや、それを逆手に取ろうとしているのかもしれない。それは探偵の玻璃さんもわかっているはずだ。


 玻璃さんがしらみ潰しに事情聴取をしているが、店内の客は昼時だったので20人ほどいる。とても全員聞いている暇はないだろう。裏方専用の道を通って警察が到着するまで、どれだけかかることやら。まったく、観光地で働く人間も楽じゃない。私は反省を早速活かせた自分に満足しつつ、冷めてしまったテーブルのパンケーキをどうするか思案した。


 犯人は意外にも警察が到着する前に突き止められた。厨房に入った少年がシェフに聞き込みを行い、遺体を丁寧に調べたことで、凶器が冷凍マグロだということがわかった。腕の細いウェイターではとても持ちきれない。最近この仕事を始めたという若いシェフも、明らかに貧弱だ。となると、店で唯一腕の太い料理長しか犯行は成し得ない。


 玻璃さんから、正確に言えばその息子から自供を促された料理長は、後の裁判で執行猶予をもらうためかすぐに犯行を認めた。それから数分で店の奥から制服の警察官がやってきた。これで解放される。レストランを出て、南のビーチでバトルできる相手を探すという虎眼くんと別れ、広場の反対側の映画館に入る。パンケーキはもったいないので完食した。


 映画館に入る直前、1度だけレストランを振り向いた。恐らくこの店はもう終わりだろう。新しいテナントが繁盛することを祈る。さて、映画館に入ったはいいが、期待したアクション映画は上映されていなかった。ならばせめてロビーでポップコーンをつまみながら告知でも見よう。


 来月公開のアクション映画を見る決意を固めた頃、5つのスクリーンに続く通路から多くの客が一斉にやってきた。どうやら映画が終わったようだ。客層は若いカップル。しかし老夫婦も少しだけ混ざっている。2番スクリーンの恋愛ものだろうな、と分析している私の目の前で、女子中学生がつまずいた。


 その後ろから今度は学ランを着た中学生が小走りで近づいてくる。

「勝手にどんどん行くからだ。立てるか? まったく……。どうもすみません」

「いや、大丈夫。映画館って暗いからね。気をつけて」

 私はセオリー通りの返答をしたつもりなのだが、男の子は少し小さな声で言った。


「実はこいつ、目が見えないんです」

「えっ、そうなの?」

「はい。何の略か覚えてないけどCPDっていう病気だそうで、寿命が短くなるそうです」

 今日は映画に行きたいと言っていた幼馴染の彼女の夢を叶えに来たという。音だけでも楽しみたいということなのだろう。

 

 私は医者ではないが、仕事の関係でCPDという単語は知っている。連続身体機能障害(Continuous Physical Dysfunction)の略で、患者は生後すぐから目や耳などの身体機能が次々に異常を来し、いずれストレスで死亡してしまう。末期には快復手術が追いつかないペースで身体機能が奪われていく。治療法は未だ見つかっていない。致死率は100%ではないが、高いことに変わりはない。


 大抵の患者は15歳前後で死に至る。つまり、彼女にはもう時間がない。これは大変なことだと思った。何とかして彼女を楽しませてやりたい。初対面の中学生カップルなのに、今日の私は妙に積極的だ。自分でも不思議なくらいだ。彼氏に金がなくて我慢していることもあるだろう、今日できることなら協力すると申し出た。彼女は黙って頷いた。

「すみません。声帯ももう動かないらしくて」

 彼氏が申し訳なさそうに言う。


 彼女のリクエストは飛行機のファーストクラスだった。右手小指と左手薬指の触覚が残っているので、柔らかいものに座ると気持ち良いらしい。早速空港へ向かう。帰りの便は偶然にも私と同じ明日朝の福岡行きだった。朝早い飛行機はがらがらで、簡単に2席予約できた。20万6400円。さすがに現金一括とはいかず、クレジットカードで支払う。ファーストクラスとはここまで高額なものなのか。それとも会社によって違うのだろうか。


 彼氏は目に涙を浮かべて喜んでくれた。これから2人は島内を1周するモノレールに乗ってくるという。目が見えない彼女だが、何故か目で楽しむもののリクエストが多いらしい。飛行機の座席も窓際が良いと言っていた。もしかすると、うっすらとは見えているのだろうか。CPDの致死率は100%ではない。原因は不明だが、完治した例もある。


 別れ際、彼氏が名前を教えてくれた。天藍てんらんひとしというそうだ。ラピスラズリという宝石の和名が、確か天藍石だ。私は宝石商ではないが、仕事で覚えたことがある。2人の未来が輝かしいものであれば良いが。


 さて、私はバスに乗って西の端までやってきた。島で1番高いタワーがある。早速登ってみよう。エレベーターで30秒。そこは地上100mの世界だ。日没の直後、東を向く私の背後には、オレンジから青、そして黒へと変わりつつある空。島には明かりが灯り始めている。おや、北の海岸沿いに1列の光が動いている。あれはきっとモノレールだ。


 南に視線を移すと、砂浜から引き上げる人の波。そろそろビーチは店じまいの時間だ。南国の海は5月でも気持ちが良いだろう。モノレールの光とビーチのちょうど中間が広場だ。ここから見ても本当に大きい。展望台のポスターによると、夏には花火大会が催されるらしい。楽しい夏になりそうだ。


 この島には様々な明かりがある。このタワーの赤のライトアップ。大通りのオレンジの街灯。建物の黄色い室内灯。滑走路沿いにあるテニスコートの白い照明。近未来感の演出として、北西エリアのビルはサーチライトで夜空を照らす。一方で南西のビオトープは真っ暗な森林に、アクセントのように白い光が点々としている。まるで宝石をこぼしたような、という謳い文句は神戸や横浜でもよく使われる。


 一連の夜景を堪能して、私はホテルに向かった。南北に伸びる大通りの南端にあり、客室はどれも海側を向いている。突然の旅行なのでホテルの予約はとっていないが、果たして空き部屋があるだろうか。それを心配しながら15階建てのビルを目指す。泊まり込みで勤務する従業員の部屋もあるそうだ。


 どうやらロビーには大理石が使われているようで、高級感が溢れる。ネクタイくらい締めて来るべきだったかもしれない。既に20万円を支払っている私はやや財布が心許なくなった。

「516号室でしたらすぐにご案内できますが、よろしいですか?」

 空き部屋を確認したフロントの係員からそう言われ、少し引っかかったが、他の部屋に比べて格安だったので了承した。エレベーターに乗り、5のボタンを押す。このホテルには4階と9階、それに13階がないようだ。縁起を担いでいるのだろう。


 エレベーターホールを出ると、左手にずらっと並ぶ15枚のドア。突き当たりのドアには「STAFF ONLY」とある。516号室のドアを見つけ、カードをかざす。緑のランプが点灯すると、ドアが開く。1泊するには充分な広さだ。恐らく普通のホテルと変わらぬ内装だと思うが、何故安いのだろう。


 とにかく風呂に入って、それから食事をとろう。風呂はやはり備え付けのシャワーより大きい露天風呂に限る。ドアを開けると、ちょうど隣の515号室の客も風呂に向かうところだったようだ。少し気まずい鉢合わせだと私は思ったのだが、その客は違った反応を見せた。何だか変人を見るような目をしている。


「どうかされましたか?」

 その客はこう言った。

「いえ、私は3日ほど泊まっているのですが、昨日まで516号室はスタッフの方が泊まっていたものですから、部屋を変えたのかなあと」

 スタッフと聞いて、昼間のレストランを思い出す。まさかここが殺された店員の部屋だったのか?


 そうと決まったわけではない。それに、彼が殺されたのはレストランの厨房だ。背筋を凍らせる必要はない。そう自分に言い聞かせ、海を望む露天風呂に浸かる。客はそこそこいる。平日だというのに、意外といるものだ。


 露天風呂が寒くなってきたので、室内の風呂に入る。屋外の風呂も開放感があって良いが、壁と天井が湯気を逃さない室内の風呂は顔が冷たくない。ついうとうととしてしまう。顔に湯を掛けて目を覚ます。目を開けると、湯船が真っ赤に染まり、私の目の前に死体があった。


 悲鳴を上げて立ち上がる。瞬きをすると、普通の浴槽だった。客が驚いてこちらを見ている。慌てて足を滑らせたと言ってごまかす。変な奴だと思われただろうか。ただ、どうもあれが見間違いとは思えない。やはり516号室に泊まったのが問題なのかもしれない。


 レストランのある18階に上がる途中、エレベーターのボタンを見て気づいた。このホテルには4階、9階、13階がなく、本来13階であるフロアは16階になっている。部屋の番号も同じだ。つまり私の部屋は実際は5階の16号室ではなく、4階の13号室となる。普段からよく想像力を駆使する職業のためか、嫌な予感がしてきた。今からでも部屋を変えられるなら変えたい。


 最上階のレストランはバイキング形式だった。好物のハンバーグも置かれていたが、取らなかった。魔除けのつもりで塩を大量にかけたサラダと鶏の唐揚げを持ってテーブルを見渡す。残念ながら広く開いている席は無かった。ちょうどカウンターが2席開いたので、その片方に座る。右隣に女子高生がいた。30過ぎのおっさんが座ると嫌がられるかもしれないと思ったが、彼女は案外普通に食事を続行していた。


「また会いましたね」

 彼女から突然言われた。驚いて良く顔を見ると、昼のレストランにいた玻璃さんの娘だった。確か歩美と呼ばれていた。

「もしかして、何かお悩みですか?」

 私の皿に乗る塩まみれのキャベツを見て言った。私は現在の状況を打ち明けた。


 彼女はお札らしき紙の裏面にメモをとりながら私の話を聞いた。その紙はメモ代わりにしても良いのだろうか。

「なるほど。昼間の店員さんが成仏していないようなんですね。うちは家族で探偵業をやっているんですが、僕は事件が解決した後のケアを担当しています。レストランで除霊したつもりだったんですけど、逃げられたみたいですね」


 彼女は大量の柿をかじりながら私の状況を推察してくれた。そして、このホテルにいるであろう店員の霊を祓ってくれると言う。そのため、516号室まで彼女を案内することになった。私が奇妙な体験をしたのは男湯だと言ったのだが、華麗に無視された。


 カードをかざす。しかし、ドアが開かない。

「帰宅しているようですね」

 彼女が一言言った。とすると、店員は自分が殺害されたとまだ気づいていないらしい。私がそう言うと、彼女は否定した。

「死んでいることには気づいていますよ。僕の存在を知ってドアを開けないんですから」


 彼女が先程メモに使ったお札をセロハンテープでドアに貼った。すると部屋の中から獣のような咆哮が聞こえ、ドアが勢いよく開いた。廊下の私を壁まで吹き飛ばすほどの風が部屋から吹く。窓は開けていないはずだし、今日の風はそれほど強くないのだが。彼女は倒されずに何やら呪文を唱えている。


 しばらくすると風が止んだ。

「はい、憑かれが取れました」

 彼女は私の背中を軽くはたきながら言った。まだ何か出るかもしれないという不安は拭えないが、とにかく彼女への感謝は忘れなかった。不思議なことに、あれだけの騒ぎがあったはずのホテルには、もう静寂が訪れていた。


 霊が祓われたおかげで安眠できた私は、朝から空港に向かった。色々あったこの島ともお別れだ。手荷物検査の列に並ぶと、前に見覚えのある顔が見えた。虎目くんだ。偶然にも同じ便らしい。そう言えば中学生カップルも同じ飛行機のはずだ。まさか寝坊していないだろうか。


 虎目くんに声をかけてみる。

「君もこの飛行機?」

「あ、昨日のおじさん!」

 少年は今日も変わらず、元気なようだ。さらに嬉しい偶然が続き、私と虎目くんは隣同士の座席だった。主翼より少し後ろの左2席。10時には福岡空港に到着する。待ち合いロビーからキャビンアテンダントの助けを借りて搭乗する中学生2人も確認できた。


 飛行機が離陸した直後、機体が大きく揺れた。続いて床下からウィーンという音が何度も聞こえる。不審に思っていると、後方から玻璃さんと彼の息子が来て、前の方へ消えていった。彼らも同じ飛行機だったとは。しばらくして機長のアナウンスが聞こえてくる。

「お客様にご連絡致します。当機の機首の車輪が何らかの異常により、降りなくなっております。福岡空港にてしばらく低空飛行を行いますので、ご了承下さい」


 客室を不安が覆う。胴体着陸という言葉が脳裏に浮かぶ。前方から玻璃さんが戻ってきた。座席に戻るのかと思ったが、私の席で立ち止まった。

「機長がお呼びです」

 私が呼ばれているらしい。ナイフなど持っていないし、スマートフォンの電源は切っている。操縦室に呼ばれるようなことをしたつもりはないのだが。


 とにかく操縦室に行くと、まだ名前を聞いていない玻璃さんの息子と機長、そして副操縦士がいた。

「先程の放送通り、当機はノーズギアが降りなくなっています。離陸時に鳥と衝突したのかもしれません」

 副操縦士がこちらを振り返って言った。


「では、胴体着陸ということになるんですか?」

「いえ、福岡空港の管制塔に目視確認してもらい、ノーズギアが降りているようであればそのまま着陸します。でなければ、別の空港に緊急着陸する予定です。ただ……」

 そのあとを言えないようだ。助けを求めるように機長を向く。機長が言った。


「実は、離陸直後の強い振動で我々2人とも突き指をしてしまったのです。これでは正確な操縦ができません」

 何ということだ。既に眼下には大分県の国東半島が広がっている。これから福岡空港の管制塔がノーズギアの目視確認をする高度まで降ろさなければならないのだ。


「じぁあ、どうするんですか?」

 機長はこの私の問いかけに、予想だにしない答えを言い放った。

「探偵の玻璃さんと相談して、あなたに着陸動作を行って頂こうと思います」

 正直、嘘であってほしい。仕事柄、飛行機の操縦方法は知っているが、私はパイロットではないのだ。


 しかしこの飛行機の乗客名簿によれば、飛行機の操縦経験のある者は搭乗していないそうだ。そこで今も操縦室にいる玻璃さんの息子が、レストランで見た私をパイロットに推薦したらしい。何故かは聞いても答えない。私しかこの飛行機を操縦できる者はいない、と強く機長に訴えられ、私は恐る恐る機長席に座る。左には玻璃さんの息子が座った。


「おじさん、小説家でしょ?」

 少年が言う。私は驚いた。

「どうしてわかったんだい?」

「だっておじさん、レストランで仕事をひと段落させるって意味で『脱稿する』って言ってたでしょ? そんな言葉を使うのは小説家くらいかな、って」


「そんなこと言ってたっけ?」

「言ってたよ。僕より少し年上のお兄さんに何気なく。覚えてないくらい普通に使ってるんだね」

 高度計の表示が6000mを切ったのを見ながら聞いていた。どうやらこの少年、玻璃さん譲りの探偵の才能があるようだ。


「君、名前は?」

「僕は玻璃はり元太げんた。小学生だよ。おじさんは?」

 私も名を問われた。これから命がけのフライトを行う相手に、名前くらい言っておいても構わないだろう。あまり気に入っている名ではないのだが。

金剛こんごう岩男いわお。君の言う通り、作家だよ」


 背後の機長の指示に従い、高度を落としていく。雲を抜けると福岡空港の滑走路が見えてきた。現在、離着陸している飛行機はいないようだ。管制塔には既に機長が連絡している。民間人が操縦桿を握っていることも。乗客にも、機長がアナウンスではなく、口頭で私が操縦していることを説明したそうだ。私のことを知っている客が落ち着くよう促してくれたという。


「おじさん人気者だね」

 冷やかすように元太くんが言う。私はいつの間にか期待される人間になっていたようだ。その期待には応えなければならない。操縦桿を持つ手に力が入る。コーヒーを持ってきてくれたキャビンアテンダントによると、この飛行機には39人が乗っているらしい。


 少々難しいフライトだが、福岡空港上空を高度500mで旋回する。すぐ下が地面のような気がする。管制塔から連絡が入る。

「もっと低く旋回してください」

 日本語だ。福岡空港に向かう途中、私が『Who are you?』という管制塔の問いに『アイキャントスピークイングリッシュ』と答えると、半笑いで『今操縦しているのは機長ですか?』と言い直された。それ以降ずっと日本語で応対されている。


 もっと低く飛ばなければいけないと管制塔は言う。額の汗を拭いながら高度計が300mを指すまで降下する。速度は時速300kmとある。新幹線より遅いと考えると、今すぐ失速してしまいそうな気がする。変な想像をするな、と自分に言い聞かせる。やがて管制塔から連絡が入った。


「ノーズギア以外は通常通り降りています。問題のノーズギアは半分だけ出ている状態です。タッチアンドゴーを試みて下さい」

 できれば操縦室のランプが点灯していないだけだった、と言ってもらいたかった。


 ここで愚痴を言っていても始まらない。覚悟を決めて滑走路に視線を向ける。福岡空港の滑走路は長さ2800m。翠玉島の滑走路より800mも長い。翠玉島に着陸するよりましだと思うことにする。飛行機は機首から滑走路に近づいていく。

「胴体のメインギアから接地させます。機首を上げて下さい」


 機長にそう言われたので機首を上げると、高度計が上昇し始めた。一旦近づいた滑走路が離れて行く。失敗だ。もう一度、落ち着いていきましょう、と副操縦士が励ましてくれる。ところで、隣の少年はよくこんな状態で動じないものだ。慣れているのではないだろうな。


 着陸時は主翼に風を当てて速度を落とす。その際の機体の角度は地面からおよそ3度。知識では知っているのだが、いざ操縦してみると3度が非常に急に感じる。鋭角のようだと言っても良い。こんな操縦無理だ、と操縦桿から手を離そうとしたとき、隣の元太くんが言った。

「離しちゃだめだよ。おじさんしか着陸させられないんだ」


 また翠玉島で出会った人々の顔が浮かんだ。彼らもこの飛行機に乗っているのだ。

「もう一度タッチアンドゴーします」

 管制塔に告げる。福岡空港のダイヤグラムはもう滅茶苦茶だろう。この飛行機はかれこれ1時間も滑走路上空を占拠している。


 機体を大きく左に傾かせる。再び飛行機は着陸態勢に入った。羽根に空気を当てるつもりで、3度という大きな傾斜角でアプローチしていく。今度は機首が上がっていても降下している。やがて飛行機が揺れた。胴体の車輪が接地したようだ。ここでスロットルレバーを押し出す。エンジンの音が大きくなる。そして、飛行機はまた飛び立った。タッチアンドゴーは成功だが、果たして前輪は出たのだろうか。


「ノーズギア、動いていません」

 管制塔からだ。タッチアンドゴーは意味がなかったということになる。機長が覚悟した声で言った。

「それでは、ノーズギアは完全に閉めてランディングしましょう」

「わかりました」

 私は前輪をしまうスイッチを押した。もはや別の空港まで飛ぶ余裕は私にはない。


 三たび滑走路に近づく飛行機を見て、管制塔が言った。

「ノーズギアを閉まってください」

 最初は意味がわからなかった。

「ノーズギアは閉めました」

「出たままです」

 管制塔はそう言った。まさかタッチアンドゴーの衝撃は前輪に悪影響を与えてしまったのだろうか。タイヤは出ることも閉まることもせず、中間で止まっているらしい。


「仕方ありません。このまま着陸しましょう。通常の態勢ではノーズギアが滑走路に弾かれて機体がひっくり返る恐れがありますので、より傾斜角をつけてゆっくり着陸させます」

 機長は言い切った。そこまで言い切られるとむしろ自信が湧く。不思議なものだ。


 もう見飽きた福岡空港の滑走路。アプローチだけは先ほどのタッチアンドゴーで練習済みだが、ブレーキをかけて停止するのはぶっつけ本番だ。機首を上げ、滑走路に近づく。視界から地面が消える。横の窓から位置を確認する他ない。元太くんが主にその任務を受け持った。


 胴体の車輪が地面に着いた。機体が揺れる。エンジンの逆噴射を始めた。同時に足元のブレーキもかける。

「もっと左!」

 元太くんが叫ぶ。操縦桿を左に少しだけ動かした。それだけでも大きく揺れる。スピードは100kmを切った。浮力が機首を支えきれなくなってきた。視界の角度が下がる。


 前輪が接地した。これまでにない衝撃。だが目をつぶるわけにはいかない。必死にブレーキを踏み続ける。飛行機が完全に止まってからも、私はブレーキを踏む力を抜けなかった。

「止まった……?」

 私が問うと、機長が無線で宣言するように客室へ言った。

「ただいま、当機は福岡空港に着陸いたしました。客室乗務員は脱出の準備を始めてください」

 ドアの向こうから喝采が聞こえる。


「ナイスランディング」

 元太くんが親指を立ててみせた。何かの映画で見たのだろう。いかにも子供らしい、ワイルドな言葉にすればガキっぽい、とびきり格好つけた仕草。これをサムズアップという。だが今はそれが最高に似合っている。私も同じように親指を立てた。

「ユートゥー」

 You too. と言いたかったのだが、いかんせん英語は苦手だ。


 地上で私を待っていたのは大勢のマスコミではなかった。私の相棒、つまりアシスタントの月長げっちょう来斗らいとだ。相棒は私の身を案じるなどせず、無断で旅に出たことを責めてきた。彼に引っ張られるように仕事場へ戻され、機長などからあるであろう感謝状などは貰い損ねた。


 翠玉島。そこはとてもドラマティックな場所だった。バトル、ミステリー、恋愛、ホラー、そしてアクション。まるで本棚を旅しているような気分にさせてくれる。ただの本棚ではない。そこは人という宝石で彩られた本棚だ。私はそこで私の物語の主人公だった。きっと、あなたもあなたの物語を作れるだろう。


 ところで私には服を着る習慣がなく、ずっと全裸だったのだが、誰も何も言わないのが最も不思議だった。

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