◇嵐の夜に(前編)
どうもお久しぶりです。またもや更新の間隔が酷いことになってますが、その後の話です。
思いついたので書いてみました。また無駄に長くなってしまったので前後編に分けました。
前編はダラダラ悩んでいるだけです。後編はイチャイチャしてるだけの予定です。
陽が沈む頃にポツポツと降りだした雨は夜にはかなり激しさを増していた。
厚く重い雲に覆われた空から地上へ閃光が走り抜け、轟音が鳴り響く。
(煩いな…)
長椅子に腰掛けて読書をしていたエドワードは文字を目で追うのを止めた。
雨風の音だけでも煩かったのにその上雷鳴まで加わるとは。これでは集中できない。普段は周囲の雑音をあまり気にしないエドワードだが、今夜は何故だか雨音さえも鬱陶しく感じていた。本の内容が頭に入ってこない。彼はそっと本を閉じた。
(もう先に一人で休んでしまおう)
彼は今居る部屋と扉で繋がる隣の寝室へ行こうとして長椅子から立ち上がった。
…が少し考えた後すぐに同じ場所に座り直す。
(グレイスが戻ってくるまで待とう。このままではどうせ眠れそうもない)
そう決めて、更に深く腰掛けた。
窓の方に目をやると外の闇を背景に硝子に打ちつけられた水滴が集まって流れ落ちているのが見えた。まるで涙のようだと思う。再び辺りが光り、遅れて雷鳴が聞こえてきた。何かが爆発したような大きな音はエドワードの気持ちを一層滅入らせる。
今夜は妙に心が騒ついている。
(嫌な夜だな…。せっかく昼間は楽しく過ごせたのに一日の終わりがこれでは…)
小さな溜息をつき、エドワードはふと自分の隣の空間を見つめた。
座り心地の良いこの長椅子のその場所は夫婦の部屋でのグレイスの定位置だ。
彼女が今ここに居ない。
改めてそう思ったエドワードの頭の中に「寂しい」という言葉が浮かんだ。彼は思わずそんな自分を笑ってしまった。ほんの二、三時間前には外での充実した食事を共に楽しんだ妻が少し傍に居ないだけでもう寂しがるとは、我ながら情けない。まるで甘えたがりの幼い子供の様だ。
彼女は遠くに居るわけでもなく、ただ屋敷内の別の部屋に居るだけだった。ラザフォードの屋敷がいくら広いと言っても会いに行くのに苦労する程ではない。そこはグレイスが彼の伴侶となった時に彼女個人の部屋として宛がわれたものだった。エドワードが今居る夫婦二人の為の部屋からは離れているが、数ある部屋の中から使い勝手の良さと内装の女性らしさから選ばれた一室だった。
グレイスは今頃自分の部屋で刺繍に勤しんでいるのだろう。確か、彼女は今夜中に仕上げたい物があると言っていた。
(刺繍でもなんでもこの部屋ですればいいのに…)
エドワードは心の中で呟いた。
どうやら自分は余程一人の夜が寂しいようだ。
今まであまり感じたことのない不思議な感覚だった。この広い屋敷で一人で居ることにはもう慣れてしまったはずだし、その方が気楽でいいとも思っていた。グレイスと共に暮らすようになって、自分の心持も随分と変化したようだ。
エドワードがグレイスと結婚して半年程が経っていた。
就寝前のこの時間帯は夫婦の部屋で二人だけで過ごすことがお決まりとなっていた。過ごし方は日によってまちまちで他愛のない話をしたり、読書をしたり、それぞれが別の事をしている時もある。殆ど会話のない時もある。日の終わりに二人でただゆったりとするひとときは何物にも変え難いものだった。
今夜のように彼女が別の部屋にいるのは多少珍しいことではあった。
湯浴みや諸々の用事等で一緒でない時もあるので取り立てて気にすることではないのだが、憂鬱な雨の夜の所為かやけに心に引っ掛かる。
手持無沙汰でただ座っていると頭の中に色々と余計な考えが浮かんできた。
(今夜はグレイスの様子がいつもと違っていたかもしれない…)
外出から帰ってお互い着替えを終えると刺繍をすると言ってすぐ自分の部屋へ行ってしまった彼女の後姿を思い出す。外出で疲れているのだから明日にすればいいとエドワードが言う前にグレイスは消えていた。
刺繍は手先の器用なグレイスの趣味であり特技だ。
二人で居る時に彼女が刺繍をすることもよくあった。
長椅子は夫婦の部屋の中での二人の指定席だった。両端にそれぞれが座る。グレイスが刺繍をしている時エドワードは大抵その横で読書をする。ひと針ひと針をとても丁寧に刺す妻の姿を隣から時折眺めるのが彼の楽しみのひとつだった。グレイスの横顔は輪郭がとても綺麗なので好きだ。それに横からであれば彼女に気付かれることなく思う存分に見ることも出来るので丁度いい。新妻は正面からじっと見つめると未だに恥ずかしがることがあるのだ。
そう考えていると無性に彼女の横顔を覗きに行きたくなったが、理性でその思いをなんとか抑え込む。一人になって誰にも邪魔されずに集中したい時もあるはずだ。まるで自分を避けるようにして部屋へ行ったのだから余程一人になりたかったのだろう。
エドワードの思考が停止した。
(避けられていた…?)
それは考え過ぎだとすぐに否定はするものの、今日一日を振り返ってみると裏付けるような事柄が思い出されてきた。普段より食事中の口数が少なかったような気がする。帰りの馬車内もあまりしゃべっていない。いや、あれは雨音が強くなってきて聞き取り難くなっていたからだと思うが…。
(不機嫌だった…?怒っていた…?)
気に障るような事をしたのだろうか?エドワードは必死に記憶を辿ってみた。
今日は豊かで特別な日を過ごしたと思う。街へ出て、演奏会へ行き素晴らしい曲に耳を傾け、買い物もし、一流の料理人の店で舌鼓を打った。グレイスも始終楽しそうにしていた…はずだ。少なくともエドワードはとても満足した一日だった。けれど、浮かれ過ぎて何か余計なことを為出かしてしまったかもしれない。
良くなかった点を強いてあげるとすれば、天候が急変したことだけだ。
朝は晴れていたのに昼過ぎから雲が増え夕方には雨が降り出した。この様子では夜にはかなり荒れるだろうと周りの者が言うので、予定よりずっと早めの帰宅を余儀なくされた。お陰で食事にたっぷりと時間をかけられなかった。帰る頃には大雨で足元が悪かったし、風も強くなり連れの者達が色々気を付けてはくれたが少し濡れてしまった。
思い返せばグレイスの様子がいつもと違っていたのは雨が降り始めてからのような気もする。
しかし、たかが雨に降られたくらいで温厚なグレイスが気を悪くするとも思えない。
(具合が悪かった…?)
それならばそう言ってくれる筈だ。
記憶を詳細に遡っていたエドワードは出掛ける前の頃まで辿り着き、はっとなった。
今朝屋敷を出る前にグレイスに言われた事を思い出す。
「…やっぱりお義父様にも一緒に来て頂きませんか?」
その優しい提案をエドワードはすぐに退けた。彼女は少し困ったような顔をしたがそれ以上は何も言ってこなかった。いつもの事だと彼女は納得してくれていたのだと思っていた。
……思っていたのだが…
(……あれがまずかったのか…?)
エドワードは後悔した。
でも、あれは自分に非はないと思う。
本を正せば悪いのは全部父の方なのだから。
エドワードの父チャールズは堅実な息子とは違い自由奔放な男だった。父子の考え方は昔から相容れないことが多く対立してしまうこともあった。ただ住居を同じくしているにも関わらず対面する機会が少ない為、実際に口論などをすることはあまり無い。父子は丸一日お互いに顔を合わせないことも度々あった。チャールズは理由も告げずに屋敷を頻繁に留守にするし、父と子の生活態度は全く異なっていたので、起床や就寝、身支度、食事の時間が合うことがないからだ。
ところがグレイスがこの屋敷で暮らすようになって劇的な変化が訪れた。
時間に不規則な父親が規則正しい息子夫婦に合わせて生活するようになったのだ。そのため、三人が顔を合わせることが格段に増えた。
普通に考えれば、当主が不規則な生活を止めたこと、家族が揃うことは喜ばしいことだろう。
だがエドワードにしてみれば、それはとても残念なことに他ならなかった。
自由なチャールズに息子としては困ったこともあったが、慣れてしまったしある程度諦めてもいた。だから父親が居ないも同然だということは、結婚したエドワードにとってはかえって好都合なことだった。グレイスとの新婚生活をより満喫出来るからだ。エドワードはそれをとても楽しみにしていた。
グレイスとこの屋敷で暮らす上での気懸りは離れに住む兄弟のような画家の存在だった。予想通りルイスはそれなりに嫌がらせを仕掛けてきたが、エドワードが危惧していたほどではなかった。人に構っている余裕があまり無いらしい。画家先生は最近創作意欲が泉の如く湧き出でているようで、アトリエに籠もったり、写生の旅に出たりと忙しそうだ。おまけに気になる相手との恋の成就を目指していた。ルイスの腕が上がり、彼の作品が増え、彼が己のことに集中し余計な事をしなくなったのはエドワードにとって願っても無いことだった。ただルイスの想い人が侍女のリラであるということを除けば、であるが。
リラはグレイスと共にこのラザフォード家に来てくれた。当初慣れない屋敷でのグレイスの生活と精神を一番に支えていたのは悔しいかな彼女である。主人思いのリラは、善良で働き者だったのでエドワードも気に入っていた。リラはグレイスが子供の頃から側で仕えていただけあって全幅の信頼を寄せられていた。その大事なリラをあのルイスが狙っていると知った時、エドワードは即座に生半可な気持ちで手を出すなと釘をさしにいった。その忠告も虚しくどうやら二人の仲はそこそこ進展しているらしい。リラも満更でもない様子なので二人の間に水を差すつもりはない。けれどもしルイスがリラを悲しませるような事をして、万が一にでもグレイスが心を痛めるようなことがあれば只では済まさないとエドワードは思っている。
ルイスの存在にばかり気を取られ、新婚生活の邪魔をする伏兵がまだ居たことに気付いていなかった。
自分の父がこれ程までに自分達の生活に合わせる事が出来るとは驚きだった。エドワードが思い描いていた夫婦生活は脆くも崩れ去った。
勿論、チャールズが守護霊のように付き纏ってくるわけでは全くないが、彼は要所要所で若い夫婦の居る所に顔も出すし、おまけに口も出す。
幸か不幸かチャールズはグレイスを気に入っているらしく、彼女に何かとちょっかいを出すようにもなった。グレイスも知り合った当初はチャールズの威圧感に怯んでいたようなのに、結婚後は何かが吹っ切れたようで、これまた幸か不幸かグレイスも「お義父様は面白い」と言って打ち解けるようになった。
理想の夫婦生活ではなくなったが、それをどうこうしようとするのも狭量過ぎる。
ただエドワードが気に入らないのはチャールズの行動が家族の団欒を求めてのことではない点にあった。
新しい物や珍しい物が好きな彼は、突然娘となったグレイスが一緒に暮らし始めたのを面白がっている。そして新婚夫婦を冷やかし、邪魔をすることを何よりも楽しんでいる。そうすることで息子がどれだけ嫌がるかも分かっている。自由気儘で周囲の手を焼かせることも多いチャールズではあったが、実は鈍感な男ではない。逆にどういう訳か人の感情の機微に聡い。
つまり息子の心情を重々承知の上で、それを慮らずにただただ己の欲求のまま暇潰しをしているのだ。かなり質が悪いとエドワードは思う。
ここにきて父親に厄介な一面を新たに見せられたエドワードは今までにはなかった種類の不満を抱えることになっていた。
その不満は特に食事時に現れることが多い。
チャールズは以前は「料理は食べたい時に食べたい物を」という信条の下に好きな時間に食事をし、事細かに注文をつけ、急に外食に出掛けたりしていた。それが今では、ほぼ毎日、息子夫婦と共に規則正しい時間に出されたものを口にするようになった。
そのことはチャールズの気まぐれな行動に振り回されていた料理人や給仕係達を大いに喜ばせたが、エドワードは不服だった。毎日グレイスと食事を楽しむつもりだったところに、男が一人乱入してくるのだから当然だ。しかもこの男はやたらと蘊蓄話と自慢話を披露する。グレイスが上手な相槌を打つのでその勢いは止まらない。「お義父様は話がお上手」とグレイスは感心しているし、実際悔しいことにチャールズの話は面白いことが多いのだが、そんなことはどうでもいい。エドワードが聞きたいのはグレイスの柔らかい唇から出てくる優しい声であって、決して父の優しさの欠片も感じられない低く硬い声ではない。エドワードは周りから父と声がそっくりだとよく言われる事はとても心外だった。
だからといって食卓から父親を締め出すようなことをするわけにもいかない。
せめてもの対抗策としてグレイスを外へ連れ出すことにした。ラザフォード家の料理長には悪いと思ったが、外の店で定期的に二人だけの食事をするようになった。夫婦だけ幸福な晩餐会が数回行われたが、しばらくするとあろうことかチャールズも一緒についてくるようになった。エドワードはこの父親はどれだけ野暮で暇な人なんだと半ば呆れながらも、更に不満を溜めることになった。
積み重なった不満の結果、今朝静かに出掛けようとする息子夫婦を目敏く見つけた父に厳しい態度で臨むことになった。同行しようとした父をはっきりと拒絶したのだ。
チャールズはそれに対して大袈裟に嘆いていたが、顔にはただ息子への嫌がらせが出来なくなって少し残念だと書いてあった。長年父に付き合ってきたエドワードにはお見通しだった。
ラザフォード家の親子関係としてはそのやり取りは大したことの無いものだったが、それを傍で見ていたグレイスは心配をしたのかもしれない。
グレイスの実家であるブラウン家は家族全員が仲睦まじい関係を築いている。
ラザフォード家とは雲泥の差だ。
だから結婚当初はクレイスは実家の家族関係と嫁ぎ先のそれとの違いに戸惑いを隠せずにいた。義父と夫のあまり仲の良くなさそうな姿を見れば、困惑するのも当然だろう。エドワードは彼女に嫌な思いをさせて申し訳なく思ったが、父も自分もお互いへの態度を急に変えることなど出来ない。持って生まれた性分というものもある。親子であれ性分が逆の自分達はこの形しか築けないと思う。特別仲が良いわけではないが、憎み合っているわけでもない。昔は父を無闇に嫌っていた時期もあったが、最近は父なりの思いがあることも少しは理解できるようにもなっていた。
そのことをグレイスに伝えると少し飲み込めないところもあったようだが理解を示してくれた。共に暮らすうちに、家のあり方もそれぞれだと実感してきたらしく、過剰に心配することはなくなっていた。
優しいグレイスにとって、夫のあまり優しくない言動は例え自分に対してではなくても気持ちのいいものではないだろう。エドワードもグレイスの前ではなるべく父への態度を軟化させるよう努力した。だが長年培ってきた父親への厳しい目はすぐには変えられないもので、たまに言動がきつくなる時がある。
特に今朝の父への言葉は酷く冷たいものとしてグレイスの目には映ったのかもしれない。エドワードも鬱憤が溜まっていたものだから、彼女が側で聞いているというのについ強めに口調になってしまった自覚はあった。
グレイスはチャールズが傷ついたと気に病んでいるかもしれない。
結果的に義父を除け者にし傷つけたエドワードを内心ではどう思ったのだろう。
(怒っているのだろうか?)
それがいまいちよく分からなかった。
エドワードとグレイスはこれまで一度も喧嘩をしたことが無い。ちょっとした言い争いさえしたことが無い。だから彼女が不機嫌な状態、ましてや怒っているところなどエドワードは見たことが無かった。
今朝のやり取りは些細な事だったと思う。父は何とも思っていない筈だ。彼は表面上はさも悲しんでいるかのような振りをしていたが、息子がちょっと暴言を吐いたところでびくともしない男だ。
父の面の皮のぶ厚さをグレイスも薄々は分かり始めているはずだ。
彼女が怒っているわけがない。
そう確信したはずなのに、気が付けばエドワードはいつの間にかグレイスの部屋の扉の前まで来てしまっていた。
後編に続きます。
読んで下さってどうも有難うございます!




