◇悋気Ⅱ
休憩時間を貰ったリラは調理場に行ってお茶を淹れ喉を潤していた。
調理場の隅の棚を開けると小さな菓子が皿にいくつも盛られていた。一つ取って食べると甘さが口中に広がってゆく。疲れた時には甘い物が一番だ。リラはこの屋敷に置いてある物はどれもこれも本当に美味しいなと改めて思う。お菓子や、パン、肉、野菜、果物、この屋敷には様々な食料が大量に保存されている。その分余ることも多く使用人達はその美味しいお零れに預かる事が出来ていた。今日はお菓子だったがほぼ毎日何かしら美味しい「おすそわけ」が棚に置かれていて、皆が自由に食べていい事になっていた。
それはリラがここに来て良かったなと思える数少ない利点だった。
菓子をもう一つ取ってお茶を楽しんでいると、調理場の前を見知らぬ男が通って行くのが見えた。誰だろうと思っていると隣にある食料の貯蔵室の扉が開く音が聞こえてきた。
あんな人がこの屋敷に居ただろうか。リラはここではまだまだ新参者だったが使用人達の顔は皆覚えたつもりだった。食材を卸している外部の人かもしれないが、それにしては身なりが変だった気がして隣を覗きに行った。
男は貯蔵室の奥の棚をゴソゴソと漁っていた。
「…な、何をしているんですか?」
「え?」
男はきょとんとした顔で振り向いた。両手いっぱいに食料を抱えている。
「ちょ、ちょっと何勝手に取っているのよ!」
「…君は誰?見慣れない顔だね。新しい人?」
「そ、それはこっちの台詞です。あなたこそ誰なんですかっ!?」
「えっと、画家です」
「?…ガカ?変わった名前ね」
「あ、そうじゃなくて、絵描き。絵を描く人」
「は?絵?…えっ!ええっ…ひょっとして…あなた、…えっと…ル、ルイスさん!?」
「当たり。宜しく」
そういって彼は手を出し握手を求めてきた。手にした食材が今にも落ちそうだ。食べ物を雑に扱わないでほしいと思いながらリラも片手を出して握手をした。よく見ると彼の服も手も絵具で所々汚れている。確かに絵描きなのかもしれない。リラはまだ半信半疑だった。すると丁度通りかかった侍女仲間がその男が本物のこの家の雇われ画家で勝手にここの食材を使って自分で調理して好きな時に食べる変わった人だと説明してくれた。
「私侍女のリラと申します。グレイス奥様と一緒にこちらにやって参りました。まだ不慣れなものでお顔を存知あげず、失礼なことを言ってしまい大変申し訳ありませんでした」
リラは平謝りに謝った。
気にしなくていいと言う彼のお腹から突然ぎゅるるるという大きな音が聞こえてきた。
そんなにお腹がすいているのならとリラはお詫びの意味も兼ねて遅い昼食を用意してあげることにした。調理場は昼の食事の片付けが一段落して誰もおらず自由に使うことが出来た。
ルイスは料理をテーブルに置いた途端食べ始めた。ちゃんと咀嚼は出来ているのかと心配になるくらいの速さで彼は口にものを放り込む。
画家が居るという話は以前ちゃんと聞いていのにリラはすっかり忘れていた。この屋敷にきた時、絵描きが居候しているが今は行方不明で、きっと急に戻ってくるだろうから今後見かけても驚かないようにと忠告されていたのだ。
変わり者だが腕は良く、ラザフォード家の父子にとても気に入られていて、屋敷の離れにあるアトリエでたまに絵を描いて自由に暮らしている。というのが噂話から得た情報だった。誰よりも信頼しているグレイスからいい人だと聞いていたし、グレイスのあの肖像画を描いた人なら信用できるとリラは直感で思っていた。
そして今こうやって実際に噂の絵描きに会えたわけだが、残念ながら彼を信用するまでには至っていない。
「すごく美味しいよ。君料理上手だね」
彼はもぐもぐいいながら褒めてくれたが、それはどう考えても食材が元々美味しいからだ。早く食べたいだろうからと思ってごく簡単な調理しかしていない。リラはただパンと野菜を切り、肉と卵を焼いて皿に乗せただけだ。それに空腹の所為もあるだろう。あれだけお腹を空かせていたらそりゃ何でも美味しいに違いない。適当な事を言うなぁこの人と思ったが悪い気はしなかったので素直にお礼を言っておいた。
聞けば今彼は創作意欲というものが湧きまくっているそうで、大作に取り組み始めたばかりだという。ついさっきまでアトリエで描いていたそうだ。彼は集中すると描く事以外が全て疎かになるらしく、気がついたら何も口にせず一日が経過していたそうだ。お腹が鳴りまくるので自分の空腹に気がついて食料を求めてここにやって来たというわけだった。
一日食事を忘れるほどに夢中になることなどあるのだろうか。リラも絵を描くことは好きだが食事を忘れるなんて有得ないことだ。それはきっとリラが落書きしか描けないせいなのだろう。額縁に入れて飾るような絵を描ける人は違うのだなと思った。
彼の描いた絵は見たことがある。立派な絵だった。けれど、失礼ながら本人はそれほど立派には見えなかった。とてもラザフォード家の中にアトリエを作ってもらった画家とは思えない。リラはこの屋敷に来て初めて、アトリエという絵を描く為だけの場所が世の中に存在することを知った。そんな贅沢な待遇に身を置いているにもかかわらず、彼は髪の毛がぼさぼさで服がよれよれだった。
芸術家というのは皆こういう感じなのだろうか。随分と想像していたのと違っていた。
ただ優しそうな人ではあった。食べっぷりがいいのと偉そうにしていないのには好感が持てる。
だからリラはグレイスの肖像画を見た時からずっと思っていたことを口にする気になった。
「あなたは絵がとても上手いですね」
ルイスが食べる手を止め、顔を上げリラを見据えた。
「私前はブラウン家で働いてましたから奥様の肖像画を見たことがあるんです。とても上手でした。あの絵私大好きです。他の人達もみんな上手だって言ってましたよ」
リラは絵の良し悪しは正直さっぱり分からないがあの肖像画を見た時には感動した。グレイスの綺麗さをちゃんと表現してくれていたからだ。
「…ありがとう。あの絵は自分でも上手に描けたと思ってるんだ」
とても嬉しそうに彼は笑った。リラはほっとした。何か変な間があったので、おかしなことを言ってしまったのかと思ったが勘違いだったようだ。
「あの絵ここに戻ってきたのかな?」
「いいえ。奥様のご実家に、ブラウン家にあります。奥様と一緒にこちらに持ってくる予定だったのですが、ブラウン夫妻がとても気に入られて手元に残して欲しいと仰ったんです」
「ああ、大事な娘さんを獲られちゃったんだもんね。絵くらい傍に置いときたいよね」
「…まぁ、そういうことですね。可愛がってらっしゃいましたから」
今ブラウン夫妻は短期間に娘が皆旅立ってしまいとても寂しがっているらしい。出来ることなら三姉妹の絵をこの画家に描いてもらいそれを贈って慰めてあげたいとさえ思う。
ルイスはリラが少し作り過ぎたと後悔していた量の食事をいつの間にか全部食べ終えていた。
「そうか。グレイスはちゃんとお供を連れて来たのか…」
「はい。エドワード様が奥様が慣れている者を側においた方がいいと仰いましたので」
グレイスが嫁ぐと決まった時、新しい環境で一人なのは心細いだろうからとエドワードが提案してくれたのだった。その名案にリラは流石グレイスの選んだお方であると感心した。そして昔からグレイスの側に仕えていたリラに白羽の矢が立った。実家から少し離れる事になったのは辛かったが、もうグレイスのお世話が出来ないと悲しんでいたところに降って湧いた話だったので迷わず引き受けた。
「この屋敷はどう?もう慣れた?」
「えっと…あの…とても立派なお屋敷ですからここで働けることは大変光栄に思います」
「堅っ苦しいところだろ?」
「あ、やっぱりそう思います?作法がちょっと厳し過ぎるんですよね…。それに…なんか窮屈なんですよ…こんなに広い家なのに…不思議でしょうがないです」
「君正直だね」
「あっ、いえ…あの、仕来たりがしっかりしていて私のような不勉強な者にはなかなか難しいところがございます」
「あははは、無理しなくていいよ。いろいろ大変そうだね」
彼が笑ってそう言ってくれたので、リラは思わず溜まっていた日頃の鬱憤を堰を切ったように吐き出してしまう。
リラも初めてここに来て屋敷を見た時はその荘厳さに感動し本当にここで働けること光栄に思った。が、いざ中で働いてみるとやたら広くて移動も掃除も大変だし、どこもかしこも貴重で高価なものばかりで緊張しっぱなしなのだ。由緒正しい家柄なだけに礼儀や作法もとても厳しい。
ブラウン家ではのんびりとやれていただけにその落差に戸惑ってばかりいる。
「ここでやっていけそう?」
「あ、はい。勿論です。…その…いろいろ文句を言っちゃいましたけど、新しい環境に身を置いたのだから最初の内は慣れなくて苦労するのは当然なんです。それは分かっています。グレイスお嬢様の方がお立場が変わってずっと大変な思いをされていると思います。私がへこたれている場合ではありません。奥様を支えるのが私の役目ですから」
リラは自分でも侍女として良い事を言えたと思った。思いっきり愚痴が言えてとてもすっきりしたからだろう。
「前向きなのがいいね。頑張って。ここの人たちは皆取っつき難いけど慣れると結構いい人ばっかりだから君なら大丈夫。あーなんかお腹いっぱいになったら眠くなってきた。ちょっと寝てくるね。今日はご馳走さま。また話を聞かせてよ。何でも聞くよ。じゃあね」
そう言って彼はアトリエに戻って行った。
どうやらまた愚痴を聞いてくれるつもりらしい。
リラは少し嬉しかった。
◇◇◇
エドワードとグレイスの部屋に入る時はいつも少し緊張する。
リラは部屋の扉の前で立ち止まり、一呼吸おいて強めに二度ノックをした。
以前気軽に入ってしまった時に二人の様子が(特にグレイスの様子が)何だかぎこちなくて、あぁ自分は今邪魔をしてしまったのだ、と気付きとても申し訳ない気持ちになったことがある。
それ以来この部屋に入る前はなるべく音を立てるようにしている。こちらの存在をなるべく早く気付いて貰うためだった。
リラがゆっくり扉を開け中に入ると、エドワードもグレイスもソファに座り本を読んでいた。ほっとしながら持ってきたお茶をテーブルに置く。二人とも分厚い本を手にしていた。エドワードが読んでいる本は難しそうでリラには何の本なのか見当もつかない。グレイスは歴史書を読んでいるようだ。最近彼女はその本を熱心に読んでいる、ラザフォード家の名もよく出てくるので勉強になるのだそうだ。この屋敷の当主に薦められたらしい。リラが読んだら眩暈がしそうな本だった。この家のことをよく知ろうと彼女も頑張っているのだろう。ブラウン家ではグレイスは物語の本や詩集ばかりを好んで読んでいたのをリラは知っている。
グレイスがリラの顔を見て思い出したように言った。
「リラ、頼みたい事があるの」
「はい。何でしょうか?」
「私、来週アトリエに行くのだけれど…」
「アトリエ?…ルイス様のお家ですよね?」
「まぁ、リラもルイス様にお会いしたのね。とても素敵な方でしょう?」
「えっ、まぁ…はい。面白い方ですよね」
「ええ、そうね。で、アトリエに行く時に薄緑のドレスを着て行きたいから用意しておいてほしいの」
「薄緑ですか?久しぶりですね」
「今度私ルイス様に絵を教えて頂くのよ。だから新しいドレスでは駄目なのよ。汚してしまうかもしれないもの」
「あぁ、そういうことですか。分かりました、ご用意しておきますね」
「お願いね」
グレイスは結婚後エドワードからドレスを沢山贈られていた。彼女はそれをとても大事にしながら日々身につけている。薄緑のドレスはブラウン家から持ってきたものだ。新しい物ではないので気兼ねなく着れていいのだろう。
「絵を教えて頂くのってどのような事をなさるのですか?」
「さぁ、詳しい事は分からないけど、ルイス様は静物画を描くと仰っていたわ」
「静物画?」
「ええと、このカップのような器などを描くの」
「そうなんですか。面白そうですね」
「ええ、とても楽しみにしているの」
「奥様は昔から絵を描くのがお好きですものね」
「ええ。ただの落書きだったけれどね。リラも描くのは好きでしょう?子供の頃はよく一緒に描いて遊んでくれていたわよね?」
「はい。奥様と描くのは楽しかったです」
リラは二人で人形や花の絵を描いて遊んだことを懐かしく思い出した。
突然隣で本を読んでいたエドワードが顔を上げた。
「なるほど。リラも絵を描くのが好きなんだね?」
「…え?は、はい。絵と言いましても、私こそ本当にただの落書きなのですが…」
リラは何故エドワードがそんな事を侍女の私に聞くのかと思った。
エドワードは一人頷いて何かを考え込んでいる。
「そうか。よく分かった。有難う」
お礼を言われるような事は何もしていない。一体何なのだと思っていると、エドワードは手にしていた本を閉じ立ち上がった。
「用事を思い出した。少し席を外すよ」
彼はそう二人に言い残して部屋を出て行った。
読んで下さってどうも有難うございます。次の回で終わります。




