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30.南国の花

「私の後に付いてくるといい、グレイス嬢。」

チャールズはグレイスだけをじっと見つめそう言った。言外には他の二人は付いてくるなという意味が含まれていた。

「あ、あの・・・。」

逡巡するグレイスを気にすることなく、彼は温室の出入り口へ足を向けた。有無を言わさない態度だった。

「どこへ連れて行くおつもりですか?」

ルイスがグレイスに代わって尋ねてくれた。

「私の蒐集品の部屋だよ。今日お前達も行ったのだろう。渡したい物はあそこに保管しているからな。」


ルイスが無理矢理付いて行こうとしたが、チャールズは「お前は来るな」と言い放ちそのまま温室を出て行ってしまった。グレイスは心配そうに自分を見つめるルイスとロバートに温室を案内してくれたお礼の意味を込めてお辞儀をし、慌ててチャールズの後を追った。

一人で彼に付いて行くのは心細くてどうしようもなかったが、逆らうことなど到底出来そうもない。


グレイスが温室の外に出た時にはチャールズはすでに屋敷に向かって歩き出していた。彼は悠然と歩いているように見えるのに進むのが速い。グレイスの歩く速度は頑張って人並み程度だったので、二人の間の距離はどんどん広がっていく。


チャールズは一度も顧みることもなく庭園を通り抜けていった。屋敷内に入ろうとした一歩手前で彼は突然立ち止まった。自分の背後にあるはずの人の気配が全く無いことに漸く気付いたからだ。

チャールズはちらりと後ろを見たが誰もいない。驚いて体全体で振り返ると思ったよりもかなり離れた場所にグレイスの姿があった。

彼女には自分に付いてくる気がないのかと思い、彼は眉間に皺を寄せた。

すぐに彼女が足を少し引きずるようにして歩いていることに気付く。様子を見る限り精一杯の力でこちらに向かって来ているのは理解できた。


チャールズは引き返し、グレイスの所まで歩み寄った。

「怪我でもしているのか?」

「い、いいえ。・・・子供の頃の・・・怪我の後遺症で・・・片足を悪くしておりまして・・・。」

すでに彼女の息は乱れていた。

「それは・・・大変だな。部屋まで歩けそうか?」

「はい。階段も一人で上がれますし・・・少しくらいの距離は大丈夫なんです。ただ遅いだけで。お時間を取らせて・・・も、申し訳ありません。」

「謝る必要はない。」

二人は屋敷に向かってまた歩き始めたが、先程とは違い二人の間の距離が広がる事はなかった。



最寄りの扉から屋敷に入ると、チャールズはすぐ近くの部屋にグレイスを案内した。

その部屋は中央に豪華な椅子がいくつも置いてあり応接室のようになっていた。グレイスはチャールズに促されるままその椅子の一つに座った。

目的地はあの華やかな部屋のはずなのにどうしてここに寄り道をしているのだろうか。

グレイスが不思議に思っていると

「貴女に渡したい物は私が持ってくる。ここでしばらく待っていてほしい。」

チャールズはそう言って足早に部屋を出て行った。


急に部屋にぽつんと残されたグレイスは状況がよく呑み込めずにいたが、すぐに彼の心遣いに気が付いて一人静かに微笑んだ。チャールズは階段に行かずに済むように休憩できるように彼女をこの場に置いてくれたのだ。


彼はグレイスにはとても近寄りがたい存在に見える。名家の当主に相応しい風格、整い過ぎていると言ってもいい顔、低い声での迷いのない話し方、どれもが威圧感となってグレイスをたじろがせる。彼をちゃんと見ようとすればグレイスは物理的にも精神的にも一生懸命見上げなければいけない。

だけれど無闇に怖がっていては駄目な人だという事が先程はっきりと分かった。すると鼓動が少しづつ落ち着いてきた。彼女はとても質の良さそうな椅子に深く座りなおす。じんわりとその心地良さが伝わってきた。


チャールズが渡したい物とは何なのだろう。刺繍の資料になると言っていたから花の図鑑でも見せてくれるつもりなのだろうか。グレイスの家には南国の珍しい花が載っているよう本はどこにも置いて無かったが、この家ならば所有していてもおかしくは無い。きっとその本を見せてくれるつもりなのだろう。


ここで待つ理由がおぼろげながらも分かってきてほっとしていると、心の隅にあったある気懸りがグレイスの中で浮かび上がってきた。


自分はチャールズの・・・エドワードの父親の目にはどう映っているのだろうか。



エドワードが父親に自分の事をどう説明しているのかを聞いたことはない。

グレイスが彼につまらない役を押し付けていることをチャールズは知っているのだろうか。

多分何も知らないはずだとは思う。その件は暗にエドワードとグレイスの二人だけの秘密となっていたし、恋人の振りをしているなどという滑稽な話をわざわざ人にするとはあまり思えなかった。


そもそもの事の発端は‘姉の身を心配する妹を安心させる為’だったので、本当ならグレイスとエドワードが恋人のように振る舞うのは、妹に対してだけで十分なはずだった。エドワードが意外にもこの件に乗り気だったお陰で、二人はいろいろな場所に連れだって行くようになった。彼はいつでも、誰の前においてもグレイスをとても大事に扱ってくれた。二人の行動範囲が広がるにつれ、当然多くの人の目に触れることになる。グレイスは噂になって困るような身分でもなんでもない。もし万が一何か非難されるようなことがあったとしても、もともとは自分の不甲斐なさの所為で始まったことなので、甘んじて受ける覚悟はあった。

グレイスが恐れていたのは、善意で付き合ってくれているエドワードに悪影響が及ぶことだった。グレイスとは違い家柄も何もかも恵まれている彼が、どう見ても不釣り合いな女と行動を共にする姿を彼の周囲の人はどう受け取るのだろうか。彼への評価が下がってしまう可能性がある。


エドワードはいつも心配する彼女に「気にしなくていもいいですよ。」と言ってくれた。実際彼は一緒に何処へ行っても誰に会っても平気そうにしていた。それで少し安心してしまっていた。


あまり気を揉む必要もないのかもしれなかった。


貴族の大半は表面的には身分や世間体をとても重要視しているように見えるが、実は自由気ままに男女の付き合いを楽しむ者も少なくはなかった。

それは夜会へ頻繁に出向くようになって知ったことだった。

皆他人の噂話が大好きで夜の集まりでは誰と誰がくっついた、離れたという話題が縦横無尽に飛び交っていた。家に閉じ籠り仲良い両親と姉と妹の恋愛を眺めているだけだったグレイスには信じられないことだったが、相手をとっかえひっかえ変えている者や、同時に何人かを相手にしている者、そういう者は大勢いた。


何もかも経験不足な自分は男女の付き合いを大袈裟に捉え過ぎていたのかもしれない。

行動を少し共にするくらいのことは一般的に大したことでなく、エドワードにとっても本当に取るに有らないことなのかもしれない。

そう思うことはグレイスが彼の傍にいることへの免罪符にもなっていた。



けれどその自分への誤魔化しは、他でもないエドワードの父親と顔を合わせることによって一瞬で吹き飛んでしまった。


大事な家の跡取り息子の周りをうろうろしている女のことが気にならない親がいるはずがない。家柄が良いだけに、息子に変な虫がつくことへの危惧はより強いだろう。

一旦気になりだしたら止まらなくなった。


出来るならばチャールズに本当のことを伝えて安心してもらいたい。

二人のこの付き合いは偽りで彼が慈善的にしてくれていること。

それももうすぐ終了すること。

その後は彼と関わるつもりはないことを。



◇◇◇



戻って来たチャールズの手元には見るからに高級そうな紙が何枚も握られていた。


「待たせてしまってすまない。久し振りで探すのに手間取った。」


彼はそう言いながらその紙の束をグレイスに手渡してくれた。

少し紙が色褪せている。

そこには温室と同じ花のスケッチがたくさん描かれていた。

鉛筆描きだったり、彩色もしているものもあった。温室で咲いていた種類は全てあり、それぞれ種類毎の様々な角度をから見た様子が丁寧に描かれていた。


「刺繍の資料になりそうか?」

「・・・は、はい、十分です。十分過ぎるほどです。」

「それは良かった。ならこれはすべて貴女に差し上げよう。」

「そんな、貴重なものでしょうに・・・。有り難いことですが頂けません。」

「別に大したものではない。まだ何枚か手元に残っているし、その気になればいつでも描けるからな。」

「え?・・・これは・・・ご自分でお描きになったのですか?」

「ああ、そうだ。」

何てこともない様な素振りでそう言ったチャールズはグレイスの向かいの椅子に深々と腰を下ろした。

「とても、お上手なんですね。」

「若い頃は私も絵描きを目指していたからね、これくらいは何でもない。昔はいろいろな所へ行き、いろいろな物を描いた。これは全て南の地に訪れた時に描いたものだ。」


当時を思い出しているのだろう。少し目を細めて語る姿は懐かしそうだった。


「ロバートが言っていたように向こうではこういったものが野の花のように何処にでも咲いているんだよ。初めて見た時は衝撃的だった。強い日差しの下で咲き乱れる姿は実に華やかで圧倒されてしまった。美意識が覆されたよ。こんな世界があるのかとね。その光景を焼きつけたくて飽きずに何度も何度も描いた。あれは、本当に美しかったな・・・。

・・・・花は・・・描くだけならいいが、摘み取ればすぐ枯れてしまうのが悲しいところだな・・・。」


不意にチャールズの顔が翳る。


「貴女は先程『枯れてしまうと分かっているのに切るのは可哀相だ』と言っていただろう?

・・・本当にその通りだ。綺麗だからと言って手折って手元に置きたいと願うのは傲慢なことなんだ。花の為には咲いている場所でそのままを愛でるのが一番だ。その美しさを称えておきながら、命を縮めさせるなんて・・・・それは罪に等しいことだ。」


顔はこちらを向いているのに、彼の目はグレイスを見てはいなかった。

どうしてそんなことを話すのだろう。どこを見ているのだろう。


グレイスにははっと思い当たる事があった。

目の前のチャールズも、エドワードも、ルイスも、ロバートも皆哀しさを抱えている。


暫しの沈黙の後チャールズが口を開いた。


「・・・・貴女は何故この花をわざわざ刺繍にしたいんだ?」

「え?」

「特に気に入ったわけではないのだろう?」

「あ・・・それは・・・。」

その通りだった。綺麗だとは思うが、大好きと言える程ではない。


「いや、別に責めているつもりはない。この国では誰に見せてもこういう南国の花々の評判はあまり良くなくてね。見慣れた花とは色も形も全く違う所為だろう。違和感があり過ぎると敬遠されてしまう。人は大抵馴染みのあるものを愛おしいと思うらしい。」


彼の言うことはグレイスにも当てはまっていた。

彼女が好きだと思うのは身近にどこにでも咲いているような花ばかりだ。

普段刺繍するのはそういう花が多い。好きな物を刺繍するのが一番楽しいのだ。

けれど・・・今回は違う。


グレイスは正直に話したい気持ちになった。


「・・・あの、以前エドワード様に・・・・私が何か刺繍したものを贈ると約束をしたんです。いつも私が縫う模様は私の好きな花が多くて、可愛らしいものになるんです。・・・それは男性に不向きかなと思って他の何かを・・・出来れば、エドワード様に因んだ何かを探していたんです。この珍しい花を刺繍にしたらどこにもない素敵な物ができるでしょうし、何より・・・奥様がお好きだった花ならエドワード様も喜ぶと思ったんです。」


余計なことを言っているという自覚はあったが本当のことを正直に言いたかった。


「ほぉ、殊勝なことだな。まぁ確かに息子は喜ぶだろうな。」


彼が肯定してくれてグレイスは少しだけほっとする。


「ふっ、・・・遠回しな愛情表現か。微笑ましいな。」


呟くようにいったその言葉はグレイスを狼狽させるのに十分だった。


「・・・い、いいえ・・・そんなつもりでは・・・あの・・エドワード様には良くして頂いて・・・本当に良くして頂いているものですから・・・何かお礼をしたいだけです。・・・それだけなんです。」

この説明でチャールズが納得してくれることを願いながらも、エドワードへの気持ちを自覚しているグレイスは自分の言葉の説得力の無さに恥入ってしまい、その声は次第に力なくなっていった。


チャールズは怪訝な顔をした。

「何故そのように言い訳がましく言うのだ?別に気持ちを隠す必要はないだろう。お前達の噂は当然私の耳にも入っているぞ。王宮の舞踏会にまで共に出席したそうじゃないか。」


「そ、それは・・・・エドワード様は相手の居ない私に付き合って下さっただけです・・・。」


「だからなぜそんな風に偽る必要があるんだ。まさか、その歳で恥ずかしがっているわけではあるまいな。ラザフォード家の次期当主夫人を狙うのであれば、遠慮は邪魔だと思うが。」


グレイスは茫然とした。

無言で首を強く横に振る。


「・・・そんなこと・・・そんなこと考えたこともありません。」

「隠さなくともいい。積極的にならないと掴み取れないぞ。息子はあれで競争率が高いからな。」

「・・・もっと相応しい方が・・・大勢おられるのは分かっています。」

「それは余裕を装っているつもりなのか?」

「まさか・・・」

「・・・。そうか、では息子は振られてしまうということなのか。仕方が無いかもしれんな。あいつはいまいち面白味に欠ける男だからな。」

「いいえ!・・・いいえ・・エドワード様ほど素敵な方はおりません。」


「・・・・。貴女の言うことは訳が分からん。妙なところで素直じゃないな。何を頑なに拘っているのかは知らんが、自分を偽っても無意味だぞ。人の気持ちなんてそうそう押さえ込めるものでもない。

卑下しても何も始まらない、欲しいものは欲しいと・・・・。」


チャールズはグレイスの消え入りそうな姿を見て言いかけた言葉を呑み込んだ。


日が傾き部屋の窓からは薄っすらと橙色を帯びた光が差し込んできている。


「・・・・。まぁいい。もう日が暮れる。貴女を送るように手配をしよう。」


◇◇◇



グレイスはただただ混乱していた。

チャールズが誤解をしている。

どうしよう。ラザフォード家を狙っていると思われているなんて。そんなこと有得ないのに。

少しだけでもいいから彼の傍に居たいと思っただけなのに。


何も上手く伝えられなかった。

どうしよう。ごめんなさい。エドワード、ごめんなさい。


チャールズにはきっと分かってもらえない。

向こう側にいる人だから。

いつだって私の周りの人達はみんな向こう側にいる。恵まれた世界。

こちら側の事情は分かってもらえない。


グレイスはかつてないほどに人との間に隔たりを感じ落ち込んでいた。


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