29.父親
「これはこれは。随分と珍しいお客様だな。」
低いながらよく通る声が温室に響く。
彼はグレイスとロバートのいる温室の奥に足を進めた。
歩いているだけなのに、整った容姿と自信に満ちた身のこなしが彼を優雅に見せていた。
ラザフォード家の当主の存在感は彼の周りで咲き誇る花々に少しも負けてはいない。
グレイスは何も言えずにただ立ちつくしていた。
チャールズが・・・エドワードの父親が自分に向かって近付いてくる。
彼が足を一歩進める毎に、緊張感が増してきた。後退りをしたい気持ちをどうにか押さえることしかできない。
どうしよう。
エドワードが領地の視察に行っていると聞いて、父親も同行しているのだろうと勝手に思い込んで安心していた。彼はグレイスにとって出来れば会いたくない人物だった。
どうしよう。
エドワードが居ない時に彼の父親に会うなんて思いもよらない事だった。
ここにこうしている理由を何と説明すればいいのか。上手く取り繕う自信が微塵もない。
「・・・お・・お邪魔しております、チャールズ様。・・・あの・・・。」
言い淀むグレイスを察したロバートがしゃべり始める。
「チャールズ様、もうお帰りでしたか。こちらのお嬢様が、グレイス様がこの温室の花を見たいとおっしゃられましたので、ご案内をしておりました。」
「そうらしいな。
屋敷から温室に向かって歩く人影が見えたので気になって来てみた。お前達がいるので驚いたよ。しかしルイスは庭師の息子とは思えんな。扉をちゃんと閉めていなかったぞ。室内の温度が下がってしまうではないか。」
「も、申し訳ございません!」
「まぁ、少しくらいいだろう。お陰でお前達の話していたことをいろいろ聞けたしな。行儀は悪いが聞こえてきたのだから仕方が無い。」
チャールズが口角を少し上げてそう言った。
「・・・・ところで、エドワードはどこにいる?」
その質問で温室の空気が更に張り詰めた。
どう言えばいいのだろうか。
誤魔化しはきかないような気がする。正直に話すしかない・・・。
そう思った時、ルイスが紙と鉛筆を手にして戻ってきた。余程急いでくれたのだろう、彼は息が弾んでいた。
彼はチャールズの姿を見て驚き、ばつの悪い表情をした。
「うわ、チャールズ様。どうしてここに居られるんですか?」
「なんだその顔は。私がここに居るのはそんなにおかしい事なのか?ここは私の温室だぞ。私に少しも気付かず温室を出て行ったお前の方が余程おかしいと思うがな。
まぁいい、お前エドワードの居場所を知っているか?グレイス嬢を一人にしたままどこかへ行っているらしい。困った奴だ。こんなに心細そうにしているというのに放って置くなんて。」
「いや、それはチャールズ様が怖いだけですよ。」
「いいえ!そ、そんなことはないです!」
グレイスは慌てて否定した。
「怖いとはなんだ。まだ何もしてないし、何も言ってないぞ。」
「・・・あ、あの・・・わ・・私は知り合ったばかりの方とお話をするのは慣れてないものですから・・・。」
「ロバートとは親しげに話していたようだが?」
「そ・・・それは・・・。」
ロバートが話しやすい雰囲気を持っているからだ。まさかそんなことが言えるはずが無い。
「チャールズ様、グレイスをあまり苛めないで下さいよ。」
「ふっ、苛めてなどいない。それより、お前はエドワードがどこにいるか知らないのか?」
「あー、ええと・・・それはですね・・・。」
チャールズは黙ってルイスの顔をじっと見た。その視線に耐えきれなくなったのか、面倒臭くなったのか彼は白状した。
「エドワードは視察でどっか行ってますよ。どうせ御存知なんでしょう?
グレイスにモデルになって貰いたくて僕が勝手に呼び出したんです。エドワードに内緒でね。居ると何かとうるさいですからね。あ、グレイスに非はないですよ。彼女はエドワードに呼ばれたと思って何にも知らずに来たんですから。」
「ああやっぱり。何てことを・・。チャールズ様、グレイス様。息子が分をわきまえずに勝手な振る舞いを致しまして本当に申し訳ありません。」
ロバートは必死に謝った。
「ちょっと描きたくなっただけですよ。画家ですからね。自分の欲求に素直に従ったまでです。さっきまで描いてたんですけど、久しぶりにいい絵が出来上がりそうなんですよ!」
それが一番重要だと思っているのだろう、父親のロバートが傍で頭を下げているのにもかかわらずルイスは笑顔でそう言い放った。
「この馬鹿者!」
ロバートの一喝が温室中に響いた。
「あ、あの!・・・・あの・・・私の事なら気にしないで下さい。ルイス様に描いて頂けて光栄です。とても貴重な体験が出来ました。」
本意でここに来たわけではないが、自分の事で揉めているのが耐え切れなくなったグレイスはロバートを一生懸命宥めた。
チャールズは何も驚いた様子は見せずに言った。
「ロバート、本人がいいと言うのなら構わないではないか。
ルイス、お前もくだらないことをするのが本当に好きだな。その気持ちも分からなくはないが・・・。グレイス嬢がわざわざ足を運んだのだから、全力を尽くようにな。良い仕上がりを期待しているぞ。」
「まぁ任せておいて下さいよ。」
「それと」
チャールズはルイスが右手に持っていたデッサン用の紙と鉛筆を指差した。
「お前が手している物はもう必要無くなった。」
「え?これはグレイスの為に持って来たんですが・・・。」
「それは分かっている。しかしここの花を今から描いていたら日が暮れてしまうだろう。」
この時期日はかなり短い。屋敷に到着したのは早い時間帯だったのに、長時間アトリエに居たためもう日が傾き始めていた。
グレイスは出来るだけ簡単に速く描くつもりではいたが、これでは確かに描き終えた時には真っ暗になってしまうかもしれない。それにチャールズの言い方が、温室に長居するなと言っているようにも聞こえる。ルイスには申し訳ないがもう帰った方が良さそうだ。
「そ、そうですね。デッサンは諦めて、そろそろお暇させて頂きます。」
「いや、帰るのはもう少し後にしてくれ。要は刺繍の資料なるものがあればいいのだろう?私が丁度いいものを持っているから貴女に見せてあげよう。」




