23. 被写体Ⅰ
侍女のリラは洗濯仕事を片付けた後、次の用事に取り掛かろうと廊下を歩いていた。
すると屋外からガラガラと聞きなれた物音が聞こえてくる。もしやと思い窓から表を窺った。リラの思った通り立派な馬車がブラウン家に近付いてきていた。馬車には持ち主の家紋のレリーフが施されている。貴族世界の末端で働くリラが知っている家紋は数少なかったが、馬車の家紋がどこの家のものかはすぐに分かった。ここ数カ月の間、たびたび目にしたので覚えてしまっていた。鷹だか鷲だか知らないがとにかく大きな鳥がモチーフになっているそのラザフォード家の家紋はいつ見ても大袈裟なものに感じる。
(今日エドワード様とのお約束なんてあったのかしら?グレイスお嬢様から何も聞いていないけど・・・。)
馬車が玄関前に止まり辺りが静かになる。
(こうしてはいられないわ。)
急いでお嬢様のお支度をしなければとリラは一気に焦り始めた。時間がないからといって手は抜けない。グレイスが愛しい人に会うというのに普段の格好はさせられない。短時間でより美しく見えるようにしなくてはと意気込んだ。
(驚かせるのもいいけれど、女には準備ってものがあるんだから。殿方というものは本当に勝手な・・・・。)
その時一番玄関から近い場所にいたリラは、すぐにでもグレイスの部屋に行って彼女の身なりを整える作業を始めたいという気持ちを抑えて来訪者を出迎えるために玄関の扉を開けた。
表に出たリラはすぐに違和感を覚えた。御者はいつもの壮年の男ではなく、少年と言っても良さそうに年若い男で、馬車内には今までは必ずいたエドワードの姿もなかったからだ。思わず馬車の家紋をもう一度確認してみたがそこにはやはりラザフォード家の立派な意匠が刻まれている。リラが不思議に思いながらも出迎えの姿勢をとってじっと立っていると、その御者は覚束ない手付きで手綱を整えた後、馬車から降りてまっすぐに駆け寄ってきた。
若い彼はどうみてもただの侍女にしか見えないリラに対して丁寧過ぎるくらいに深々とお辞儀をした。仕事にまだ慣れていない新米だということだけははっきりと伝わってくる。彼は無駄に大きな声でこう言った。
「ラ、ラザフォード家の御子息、エドワード様からの命令で・・・あっ、えっと・・・・ご、御用命でグレイスお嬢様をお迎えにあがりました!」
◇◇◇
揺れる馬車内でグレイスは一抹の寂しさを感じていた。
側にエドワードがいない。
今までは常に彼自らが迎えに来てくれていた。改めて考えるとそれはとても贅沢なことだったのだと思う。二人だけで乗る馬車は誰の目も気にすることなく、彼を間近で感じることが出来る場だったので緊張はしてしまうがグレイスをいつも幸福にさせていた。
何故今日に限って彼は来なかったのだろう。何かあったのかと心配になる。御者に迎えに来た目的といつも来てくれる彼が居ない理由を聞いてみたが、ただ連れてくるようにと言われただけで他の事は分からないの一点張りで要を得なかった。
車内に響く車輪の音が寂しさをより増幅させる。
グレイスはこんな気持ちではいけないと視線を手元から窓から見える景色に向けてみた。その日は雲ひとつない快晴で全てが明るさに満ちていた。寒い時期の澄んだ空気のお陰で遠くのラザフォード家の周りの森や湖までもはっきりと認識できる。
この視線の先に彼は居る。彼に近付いている。彼にもうすぐ会える。
グレイスはそうやって自分を励ました。
◇◇◇
ラザフォード家に到着した直後グレイスの期待は落胆に変わった。
応接間に通された彼女の前に現れたのはエドワードではなくルイスだった。
「あの・・・エドワード様はどちらに?」
軽く挨拶を交わした後、グレイスはすぐに尋ねた。
「うーん、どこだったかな・・・ごめん、忘れちゃった。昨日から領地の視察で遠方に行ってるんだ。だからここには居ないよ。」
「え?」
グレイスの心の中の熱がすっと冷めて消えてしまった。
「・・・あの・・・でも御者の方がエドワード様に言われて迎えにきたと・・・。」
「あ、それは嘘だから。そう言わないと来て貰えないと思って。エドワードからの伝言だって御者に適当に言ってみた。・・・・・ええと、とりあえずアトリエに一緒に来てほしいんだけど。」
「・・・・え?」
訳が分からずに戸惑うグレイスをルイスは少しばかり強引に応接間から連れ出した。
ラザフォード家の離れの彼専用のアトリエに入ると中央にぽつんと椅子が一脚置いてあるのが目に入った。
ルイスは「そこに座ってくれるかな。」と言った。
「は?」
何の説明もなく連れて来られてグレイスは状況が理解できなかった。
何故部屋の真ん中で一人座らなければいけないのか。
ルイスの指し示す椅子は話をするとかお茶を飲むとかそういった風情の置き方をしていない。
混乱する頭で考える。
ルイスは画家だ。そしてここはアトリエだった。
「・・・あの、まさか・・・。」
「君に絵のモデルになって欲しい。今日は君を描きたくて呼んだんだ。」
◇◇◇
グレイスはアトリエの真ん中で居心地の悪さを感じていた。
言われたとおりに体を窓の方に向けてじっと座っている。
ほんの少し首を右に動かして視線を横に動かすと、数歩離れた場所にキャンパスがある。その前にはラザフォード家御抱えの画家が座っていてその手は滑らかに動いていた。
最初グレイスは絵のモデルになるなど自分には無理だと必死で断った。被写体には美麗な人物や可愛らしい子供や動物が適任だと思う。姉、妹、弟ならいざ知らずこの身が相応しいとは到底思えない。しかしルイスは「大丈夫だから」と笑顔で言う。彼が言うと本当に被写体になる事が何でもないような事に思えてきて言われたとおりに椅子に座ってしまったのだ。
「歌え」とか「踊れ」とか言われたら何が何でも断っていた。ただじっとしているだけなら自分にも出来る。完全に彼に乗せられていることは分かっていたがグレイスは観念して大人しくルイスに従うことにした。
動かない事自体は彼女にとって苦は無かったが、じっと見られていることの恥ずかしさと緊張で体が堅くなる。
そしてグレイスの心の中にはこの屋敷に着いてからずっとある喪失感が居座っていた。無意識に小さなため息を零す。
「・・・ええと、騙したのは悪かったけどさ、そんなにがっかりしなくてもいいんじゃない?この前ここに来た時はあんなに嬉しそうだったのにさぁ。」
黙々と描いていたルイスが突然手を止めて不満を述べた。
グレイスはいろいろ恥ずかしくなった。傍で見て分かるくらいにまで自分は落ち込んでいるというのか。
「も・・申し訳ありません。」
「・・・うーん、そう素直に謝られるとなんか悔しいな。」
ルイスは少し苦笑しながら手を動かし始める。
「エドワードによっぽど会いたかったんだね。」
はっきりと言葉にされると恥ずかしさが更に増す。
図星だった。こんなにも彼に会いたかったことに気付き自分でも驚いていた。少し前のグレイスはこの素晴らしい屋敷に身を置いていることだけで気分が高揚していた。今はどうだろう。同じ場所に居るのに、彼がいないというだけで残念な気持ちになっている。
「ごめんね期待させちゃって。でもエドワードも悪いんだよ。何度も君を描きたいから連れて来てくれって頼んだのにあいつ全然聞いてくれないからさぁ。そしたらこっちは強硬手段にでるしかないでしょう?」
グレイスはそんな話は初耳だった。
「純粋な芸術的興味で言ってるのに、君に近づくなって言われちゃったよー。何か勘違いしてるみたい。それは凄く面白い事だからそのままでいいんだけどね。あいつがしばらく屋敷に居ないって小耳にはさんだから調度いい機会だと思ったんだよ。上手くいって良かった。でも無理矢理君を連れ込んだって知ったらきっと怒るよー。お願いだから内緒にしといてね。」
はははと笑いながらルイスが言った。
怒るなんてことが彼にあるのだろうかとグレイスは思う。ルイスは始終笑いながらしゃべるのでどこからどこまでが本当なのかよく分からない。けれど彼の雰囲気が無邪気な子供の様で不信感などは持たなかった。
「まぁ、そういう寂しそうな表情も興味あるけど、最初は明るい方がいいなぁ。」
グレイスは気持ちを変えようと努力した。
自分が選ばれた理由はよく分からない。
芸術家の頭の中は凡人とは違う構造をしているのだと思う。
「描きたいものを描きたい時に描く」これがルイスの絵の秘訣だという。
ルイスの絵は何枚も観せてもらったのでその素晴らしさはよく分かっている。彼の絵の被写体になれるなんて身に余る光栄だ。座っているだけでいいと言うし、どんな絵になるのか見てみたい。
天下のラザフォード家が認める画家に筆をとって貰えるなんてもう有得ないことだろう。有り難く受け取らなければと身を引き締めた。
「でも、こんなに簡単に誘いに乗ったら危ないよ。」
ルイスが思い出したように言った。
「え?」意味が分からないグレイスは思わず顔をルイスの方に顔を向けた。
「こんな広い屋敷の片隅によく知りもしない男に言われるままついてきて、押し倒されたらどうするの?」
「ふふ。」
グレイスは笑った。
「エドワード様が信頼しておられる方に限ってそんなことありませんわ。」
彼女は何を可笑しなことを言っているのかという顔をしていた。
グレイスは以前目にしたルイスとエドワードのやり取りを思い出す。その時のエドワードの態度は大勢の前にいる時とも、グレイスと二人の時とも違っていた。それは何か彼の芯の部分に近い姿のような気がした。初めは彼らは兄弟なのかと思ったほどだった。
そのことが大前提としてグレイスの中にはあった。
だから少々強引なルイスのやり方も甘んじて受けていたのだ。
ルイスはしばらく面食らった表情でグレイスを見ていたが、ふっと笑って「そうだよね。」と言った。
「信頼か・・・・。そうだね、確かにこの家で彼に一番信頼されているのは僕だろうな。」
ルイスが呟くようにそう言った。それが今までとは違い少し悲しそうに聞こえグレイスの心の中で何かが引っかかった。
「僕とエドワードは子供の頃からの長い付き合いだからね。」
彼は手を動かしながらエドワードとの関係を説明し始めた。
「うちは代々ラザフォード家の庭師をやっていてね。子供の頃から親の手伝いをしていたからちょくちょくエドワードとも顔を合わせていたんだ。歳が近かったし、あいつも昔は素直だったからすぐに仲良くなった。
ラザフォードの人達は美術の収集家としても有名だけど、なかなかの名画家でもあるんだ。審美眼を高める為に子供の時から絵を習うからね。エドワードもそう。
だけど・・・前にも言ったけど・・・エドワードは絵が下手なんだ。致命的にね。
初めてあいつの絵を見た時ふざけているのかって思ったよ。あいつが庭で花を描いてた時にスケッチブックを覗いてみてびっくりしたよ。どうみても花とは違う何かがそこにあったんだ。親が丹念に育てた花を無茶苦茶に描いてるからなんか腹が立ってさ、そうじゃない、この花はこう描くんだってスケッチブックを分捕って同じ花を描いてやったんだ。それを見てエドワードはすっごい悔しそうな顔してさぁ。僕の絵の方が数段上手かったからね。・・・ははは・・あの時の顔!負けたって顔してた。」
アトリエにルイスの笑い声が響いた。
「今思えばあれが初めてちゃんと絵を描いた時だった。初めてだったのに僕は上手かった。
エドワードは自分が負けてよっぽど悔しかったんだろうな。その後も何度も絵の勝負を挑んできた。もちろん僕の連勝だったよ。習ってるエドワードが下手で、ただ庭いじってるだけの俺が上手いんだからあいつも気に食わなかったんだろうね。それ以来僕に反抗的になっちゃってさ。
でもそのお陰でエドワードの父親が僕の描いたものを目にする機会ができた。筋がいいって褒めてくれていろいろ絵の事を学ばせてくれるようになったんだ。そして僕は持ってる才能を存分に発揮して画家になった。
こう見えてもラザフォード家の美術品の充実に随分貢献しているんだよ。見出してくれたお礼にお抱えの絵描きとして奉仕しているんだ。エドワードも何だかんだ言って僕の描く絵はお気に入りだからあれを描いてくれこれを描いてくれと頼んでくる。まぁ仲良くやっているんだ。気分乗らない時は断るけどね。ははは。ここの人達は芸術的な事に目が無いから優秀な画家先生は大きな顔も出来る。こんな大きなアトリエまで用意してもらって好き勝手やってるよ。だから今日だって新人の御者君を騙すこともできたんだけど・・・。あぁ、彼には可哀相な事をしたなぁ。嘘がばれたら叱られるよきっと。何かお詫びを用意しておかなきゃね。」
ルイスは悪戯をした後の子供のような顔で笑った。
「・・・持って生まれた才能ってね、やっぱりあるんだよ。僕は絵が上手い才能、エドワードは下手な才能。お陰で僕は随分と彼に妬まれてしまっているけどね。それはきっと抗えないことなんだ。エドワードも分かってる。僕が彼から信頼されているように見えるのは長い付き合いでお互いをよく知っている間柄だからってだけ。彼は可愛げの無い弟のようなものなんだ。知っている?あいつ昔から大人びた感じの奴でいつも澄ました態度だけど、本当はとても負けず嫌いなんだ。だからいつも絵の下手な事を他人には絶対隠して・・・」
「あ、聞いたことはあります。」
「え?」
「自分はどれだけ絵の勉強をしても上手くならなかったって。でもその分絵を描くことの価値が分かる、絵を見た時の感動が増すって。画家は尊敬するっておっしゃってました。」
ルイスは手を止めた。
「・・・へぇ。それは意外だな。」
「そんなことないですよ、ルイス様のこともきっと尊敬されていると思います。」
「・・いや、そうじゃなくて・・・。
うん。まあいいや。
確かに羨ましがられているとは思うよ。審美眼はあるのに絵心は無いんだから。
それにあいつ生まれも育ちも見た目も良くておまけに賢いから出来ない事があるのが許せないんだよ。一つぐらい苦手な物があったっていいじゃないかって思うけどね。」
「はい。完璧じゃない方がほっとします。」
グレイスはエドワードが自分には絵が下手だと言っていた時の拗ねた様な顔を思い出して微笑んだ。
「ふーん。いいねその顔。」
ルイスはグレイスには届かない様な小さい声で呟いた後、大きな声でこう言った。
「エドワードの子供の頃の話をしてあげようか?」
グレイスはさっと顔をルイスの方に向け、その日一番の笑顔をみせてこくこくと頷いた。




