20.舞踏会
「ドレスがよく似合っていますよ。とても綺麗だ。」
出掛ける前に身内の者たちから嫌というくらいに聞かされた言葉だったが、エドワードが口にすると響きが違っていた。グレイスは顔を赤くして俯く。
「あ・・ありがとうございます。こんな素敵なドレスを贈って頂いて、私には勿体無いです。」
「かえって申し訳ない事をしてしまったようですね。強引に贈ってしまって。」
「いいえ、とんでもないです。とても嬉しかったです。」
過分な贈り物だとは思うが、彼が自分に贈り物をしてくれた事自体が嬉しかった。
「あなたには思いついたことをすぐしてあげたくなるんです。」
エドワードはグレイスの少し下ろした長い髪に触れながら「本当によく似合ってますよ。」と言ってくれる。
彼の言葉と行動のひとつひとつがグレイスの心を乱す。
ただの社交辞令だ。彼ならば言い慣れた言葉だろう。そう思ってグレイスは心を落ち着かせていた。
「あ・・・ありがとうございます。」
一辺倒の返事しかできない自分が情けない。
彼は黒のスーツに身を包み、一層男振りを上げていた。
よっぽど彼の方が素敵だとグレイスは思った。
宮殿の玄関には豪華な馬車が次々と到着していた。大勢の貴族達が中へ入っていく。
ウィリアムとシャーロットも一緒に来ていた。
「さあ、中に入りましょう。」
エドワードはグレイスの手を取り自分の腕に置いた。グレイスは少し恥ずかしそうにして、促されるままに彼の腕に手を絡ませた。
ゆっくりと二人で宮殿の中へ入っていく。
ここに来るのは何年振りだろうか。
宮殿で毎年開かれる王室主催の舞踏会は貴族であればほぼ全ての人が招待される。
グレイスも毎年招待されていたが、出席するのは今夜が初めてだった。
大広間の入口で、グレイスは立ち止まる。
鼓動が速くなっているのが自分でも分かった。
「大丈夫ですか?」
エドワードが心配そうにグレイスの顔を覗き込んだ。
グレイスは思わず彼の顔をすがるように見上げてしまう。
「帰りましょうか?」
ここまで来たというのに、ドレスまで用意してくれたというのに、何でもない事のように彼は言ってくれる。
(本当に優しい方ね・・・。)
目を閉じて深呼吸をする。
もう一度エドワードを見上げる。「いいえ、大丈夫です。入りましょう。」
にっこりと言う事ができた。
自然とエドワードの腕に置いた手に力が籠もっていた。
中に入ると、広大な空間が広がっていた。そこは幅も奥行きもあり天井が高く、日の光を集めたように輝いていて、本当に屋内なのかと疑ってしまう程だった。
楽団がゆったりとした音楽を奏でていた。テーブルには様々な飲み物や食べ物が並べられている。
着飾った貴族達がひしめき合っていて、何処も彼処も煌びやかだった。
しばらくして開始の時刻になった。
大広間の中央には立派な大階段がある。
そこを王室の方々が降りて来て恒例の挨拶をした。そして乾杯を合図に盛大な会が始まった。
至る所で会話が繰り広げられ、大広間には優雅な時間が流れる。
グレイスは始終少し俯いたままだった。
歓談の時間の後、舞踏用の美しい音楽が流れ出してきた。
次々と若い男女が手を取り合い、広間の中央で踊り出す。
「あの・・・私の事は気にしないで踊りに行って下さいね。」
グレイスは一生懸命何でもない様な風を装って、エドワードにそう言った。
グレイスは踊れなかった。彼女にはダンスの足さばきがどうしても出来ないのだ。
だからといって、エドワードまでが踊れなくなったわけではない。一緒に来た者とだけ踊るというルールは無い。相手さえ見つければいつでも踊れるのだ。
彼がグレイスを舞踏会に誘った時、グレイスは前もって踊れない事を伝えていた。
エドワードは「舞踏会と言っても踊るだけの場ではありません。踊らない人も大勢いますよ。話をするだけで充分です。」と言ってくれていた。
グレイスにはそう言ってもらっただけで満足だった。
エドワードは全然踊りに行こうとはしなかった。
これは舞踏会だ。特に若い者は踊ることがほぼ常識となっている。
彼の様な人なら引く手数多だろう。貴族にとって踊ることは優雅さを象徴するものだから、重要視される。グレイスは自分の所為で踊れないのは気の毒だと思っていた。
グレイスは「私、少し疲れたので休憩をしてきます。どうぞエドワード様は踊りに行って下さい。」と強引にエドワードから離れた。
出来る限り足早に中央の人だかりから抜け出して、人気のない方へ行く。
途中で「グレイスお姉様、エドワードは?」とシャーロットに呼び止められた。
「・・少し別行動をしているの、あなたこそウィリアムは?」
「昔の知り合いに会って私そっちのけで大盛り上がりなの。私は何か食べようと思ってこっちに来たのよ。」
ウィリアムもシャーロットも踊りが大好きだと聞いたことがある。
グレイスがいなければ今頃踊っているのではないかと思った。
「シャーロット、私に遠慮しないでいいのよ?気持ちは嬉しいけど、せっかくの舞踏会なんだから踊ってね?」
「お姉様・・・でも・・。」
妹が困ったような顔になる。やはり遠慮をしていたのだ。
すると突然誰かが割って入ってきた。
「あら、お久しぶりですわね。」
グレイスの見知らぬ女性だった。彼女は派手に着飾っていた。
シャーロットの姿をじっくりと眺めた後
「シャーロット嬢は相変わらずお綺麗ですこと。どの男性も釘付けですわね。」
彼女が話すたびに、髪に飾っている大きな羽がゆらゆらと揺れる。
「お相手が決まったそうですわね。おめでとうございます。これで世の女性がみんな安心できますわ、殿方を取られる心配がなくなりましたもの。まぁでも結婚したからと言って、あなたの場合油断はできないのかもしれませんけど。」
そう言って彼女は笑った。
グレイスは心の籠っていない言葉と妹への失礼な言葉に珍しく不快な感情を抱いていた。
「あら、あなたこそ相変わらず、何でもすぐ耳に入れるのがお上手ですわね、キャサリン嬢。余程お暇ですのね。羨ましいわ。でも人の事をとやかく言う前にまず自分の事を気になさったらどうかしら?あなたのいい噂なんてこれっぽちも聞いたことが無くってよ。」
シャーロットが言い返すと、彼女は悔しそうな顔をした。
グレイスは、はっとなった。この顔・・・どこかで見た事があるわ。
グレイスが思い出すより先に、キャサリンがグレイスの存在に気付いた。
「まぁ、あなた、ひょっとしてブラウン家の次女の方?」
やっぱりこの人とは昔に会っているとグレイスは確信する。
「あらあら、最近外に出てくるようになったと聞いてはおりましたが、こんな所で会えるとは思いませんでしたわ。よくあの時と同じ場所に立っていられますわね。ずっとお見かけすることはかったのにどうしてかしら?やはりブラウン家の方々は殿方と出会える機会は逃しませんのね。」
矛先が姉に向かってきたので、シャーロットはこれ以上余計な事を言わせない様にした。
「あら、あそこにハワード様がいらっしゃるわ。一人なんて珍しい。まぁ、やっぱり素敵な方ねぇ。」
すると、キャサリンは急に「では、御機嫌よう。」と言って去り、
まっすぐに彼のもとへ向っていった。
「彼女嫌な感じでしょう?いつも絡んでくるのよ。」
「私・・・思い出したわ。あの方は私と同じ歳だわ。あの時ここで会ったことがある。・・・私の事恨んでらっしゃるのかしら。」
「気にしなくてもいいわよ。彼女、自分がもてない鬱憤を晴らしているだけなんだから。人の事を男好きみたいに言っていたけれど、あの人の方がよっぽど男好きなのよ。
昔メアリーお姉様の旦那様を狙っていた時があったらしいし、ウィリアムのことも気に入っていたみたいだから、ブラウン家を目の敵にしているのよ。会えばすぐ嫌なことを言ってくるの。もう慣れっこよ。」
「・・・そうなのね・・。」
「・・・お姉様大丈夫?」
「ええ・・・大丈夫。でも少し休憩してくるわ。・・・ねえ、シャーロット、お願いがあるの。」
「なあに?お姉様。」
「私の事は気にしないで、どうかあなたもウィリアムと踊ってね。気を使われる方がずっと辛いわ。」
「・・・・グレイスお姉様・・・」
俯くシャーロットの手を取りじっと見つめると「・・・分かったわ。」とシャーロットは観念したかのように言った。
グレイスはシャーロットと別れ再び人気のない所を探した。
窓の奥にバルコニーを見つけそっと大広間から抜け出す。
外に出ると夜の風が少し冷たかった。
手摺りに手を置きグレイスは一人ため息をつく。
(やっぱり、少し辛い・・・)
宮殿の大広間に立ち大階段を見てしまうとあの時の事を思い出す。
広間から円舞曲が聞こえていた。窓から中を眺めると、華やかな男女が楽しそうに踊っている。
遠くにエドワードの姿を見つけた。こんなに大勢の人の中で彼を見つける事が出来る自分に驚いた。
彼は踊ってはいなかった、誰かと話をしているようだ。相手は人混みに隠れて見えなかったが、しばらくして人の波が動くとエドワードの相手が見えるようになった。
それはシャーロットだった。
二人は何かを真剣に話しているようだ。当然内容は聞こえない。とても気になってしまう。
シャーロットは今夜も完璧だった。誰よりも美しかった。エドワードも素敵だった。
(私なんかよりずっと釣り合いが取れているわね・・・。)
グレイスは窓に薄っすらと映る自分の姿を眺めた。エドワードは褒めてくれたが、私は妹の足元にも及ばない。
優雅な音楽が漏れ聞こえる。明るい旋律を聴いてもグレイスの心は沈んでいた。
(あぁ、なんだか・・・とても辛い・・・。)
宮殿に居る事、華やかなダンスに加われない事、エドワードとシャーロットが二人だけで話している事、それらがグレイスの中で寂しさに変わって押し寄せてきた。
(駄目よ、泣いては駄目。なんの為にここに来たのか分からない。しっかりしないと。)
涙を堪えていると、バルコニーの窓がゆっくりと開いた。
「こんな所に居たんですか、探しましたよ。」
エドワードがほっとした様子でバルコニーに出てきた。
「・・・あの、外の空気が吸いたくなって。」
「・・・・何かありましたか?顔色が悪いですよ。」
「いいえ、何でもありません。人に酔っただけだと思います。もう少しここに居れば治ると思いますので、どうかお気になさらず・・・」
「・・・よければ何でも話して下さい。聞きますよ。」
その言葉に驚いてグレイスはエドワードを見上げる。
「・・・・・。」
エドワードは穏やかな目でこちらを見つめていた。
グレイスは彼から目を逸らし、バルコニーから見える宮殿の庭を眺めた。
日もすっかり落ち、そこには薄暗く木々がぼんやりと浮かんでいるだけだった。
「・・・エドワード様も社交界デビューの時はここに来られましたよね?」
「ええ。無理矢理連れて行かされました。男は完全に脇役ですけどね。」
「・・・私・・・私は社交界のデビューの時大失敗をしてしまったんです。」
グレイスは過去の記憶の扉を開けた。
社交界デビューは毎年宮殿の大広間で行われる。
舞踏会と並んで宮殿恒例の二大行事だった。
その年に16歳を迎えた男女が主役として招待される。
特に乙女達にとっては初めて女性として皆に注目をされる特別な場となっていた。
一番の見せ場は、彼女達の登場の時だった。
一人一人が最高のお洒落をして広間の大階段を降りてお披露目をする。
娘達は誰もがそれに憧れていた。派手な事が苦手だったグレイスも御多分に洩れず大階段を歩く事を夢見ていた。姉であるメアリーの時の華やかさが目に焼き付いていたからだった。階段を降りた先には特別に舞台が用意されてある。そこで一人づつ紹介をしてもらい純白の花束を受け取り、全員で整列をする。そして皆に囲まれながら大人になった事を祝福して貰うのだった。
一度は憧れていた大階段だったが16歳になった頃にはグレイスはもう諦めていた。
大階段の中央で一人で降りることなど彼女には不可能だったからだ。
けれど花束を受け取りたい、皆と一緒に並んで祝福されたいとは思っていた。
両親がその思いを汲み取り、大階段は降りなくても舞台での整列には参加できるように取り計らってくれた。
グレイスはその時、自分と同じ歳の女の子達が華々しく大階段を降りて来る姿を舞台の影のあまり人目のつかない所で見ていた。皆初々しく、輝いていた。喜びを体いっぱいに表して花束を受け取っていた。
次々に紹介され舞台の上に並んでいく。
けれどグレイスは舞台の片隅でいくら待っても名前を呼んでもらえなかった。
大階段を降りることは当然のこととされていたので、忘れ去られてしまっていたのだった。
必然的にグレイスの分の花束が余ってしまい係の人が首を傾げる。
グレイスはそれに気付き、「その花束は私のです」と急いで舞台に上がろうとした。
けれど、焦りと、緊張と、慣れないドレスと靴で、いつも以上に足が縺れて上手く歩けなかった。
あらぬ方向に体が傾く。
「あっ」と思った時には、舞台上の他の乙女達を巻き込みグレイスは倒れていた。
メアリーから貰ったお気に入りの髪飾りがグレイスの目の前でぽろっと床に落ちた。
拍手や歓声に包まれていた大広間に沈黙が流れた。
顔を上げると全員がこちらを見ていた。一気にざわざわと騒がしくなる。
それからの事はあまりよく覚えていない。
両親や姉や妹が駆け寄ってくる。
周りの参加者達に必死で謝っている。
グレイスの事を忘れてしまった人達が頭を下げている。
そういった光景がぼんやりと頭に浮かぶだけだった。
「・・・それからあまり人の多いところや華やかなところは、苦手になってしまって・・。どこにも行かないようになったんです・・・。」
ずっと暗い庭園を見つめながらグレイスは話していた。
「宮殿にもあれ以来、来られなくなっていました。だからずっと舞踏会も避けていたんですが、エドワード様やシャーロットのお陰で私も少し変われた気がして、行くことにしたんです。
・・・・でも・・・やっぱり・・昔を思い出して少し辛くって・・・・。」
エドワードはずっと黙って聞いてくれていた。
それがとても有り難かった。
グレイスは胸に手を当ててもう一度深呼吸をした。
エドワードが贈ってくれたドレスが目に映る。
(大丈夫。平気よ。)自分の心に言い聞かせた。
彼の方に振り向き、目を見つめ、精一杯の笑顔で言った。
「話してみたら何だか気が晴れました。こんな話を聞いて下さってありがとうございます。
ここに来る事が出来ただけでも私にとっては大進歩なんです。だから今夜来て良かったです。
もう少し落ち着いたらすぐに戻りますので、どうぞエドワード様は踊りに行って下さいね。」
「・・・・あなたはどうしても私を踊らせたいのですね。・・・それなら」
エドワードはグレイスにぐっと近づき手を取った。
「それなら・・・一緒に踊りましょう。」
「え?」
「踊り方なんて、特別に決まりがあるわけじゃない。適当でいいんですよ。
ほら僕の肩に手を置いて下さい。」
そう言ってグレイスの片手を自分の肩にのせる。エドワードはグレイスの腰を抱き、もう片方の手でグレイスの残りの手を握った。
「あ・・あの」
状況が理解できずに困惑していると、エドワードはしっかりとグレイスを支え、ゆっくりと足を動かしグレイスを導いてくれた。
いつもよりずっと体が軽い。遠くから聴こえてくる音楽に自然と身を任せていた。
広間からの光に照らされて二人の影がバルコニーで揺れる。
二人の体は触れるか触れないかの距離をとっていた。
エドワードの息遣いが聞こえてくる。
体が熱い。
エドワードは一旦体を離して、屈むようにしてグレイスを見て、優しい笑顔でこう言った。
「ほら、何となく踊っている気分になるでしょう?」
その瞬間グレイスの胸は言いようのない思いで満たされた。
ぽろぽろと涙が溢れてくる。
ゆっくりとエドワードの胸に顔を埋めて、声も出さずに泣いていた。
エドワードがグレイスをそっと抱きしめる。
背中に置かれた彼の手の温かさを感じると更に涙が溢れてきた。
グレイスは今まで無意識のうちに強がっていた自分に気がついた。
そして今は心の中で必死に押さえていた寂しさや辛さを洗い流しているような気がしていた。
エドワードへの感謝の気持ちでいっぱいだった。
(なんて優しい人なんだろう。
私をこんな幸せな気持ちにしてくれた。
私、彼の事が好きだわ。大好きだわ。ずっと傍にいたい・・・。)
グレイスは初めて自分の気持ちに気が付いたのだった。




