11.出会い
「ラザフォード家の代々の当主は芸術に関心がある方が多かったようで、所蔵品はどれも新旧問わず一級品ばかりなんです。だから一見の価値はあると思います。楽しみにしているといいですよ。ほら、もうそろそろ屋敷が見えてきましたよ」
ウィリアムが指差した方を見やると、遠くに建物の影が見えてきた。夕暮れ時の薄明かりの中、遠くからでもその大きさと存在感が分かる噂の大邸宅が浮かび上がってきた。
グレイスとシャーロットはウィリアムと共に馬車でラザフォード家の屋敷に向かっていた。
ウィリアムは今夜のラザフォード家の夜会に出席するグレイスの気持ちが出来るだけ上向くように、屋敷の美術品がいかに見応えがあるものかを丁寧に説明してくれていた。グレイスが美術に興味があることをシャーロットから聞いているのだろう。
グレイスは向かいに仲睦まじく座っている妹とその婚約者を眺めた。
シャーロットは久しぶりに恋人と出掛けるのが嬉しいのだろう、衣装や髪型がいつもより凝ったものになっていた。ウィリアムも上機嫌だ。
グレイスに遠慮しながらも時折互いに見つめ合い、寄り添っている二人は幸せそのものだった。
本意ではないとはいえ、この二人の間に水を差すような事をして申し訳なかったなとグレイスは思った。ウィリアムにその気持ちを伝えると「気にしないで下さい」と笑って言っただけだった。大人な態度に感心したけれど、その後シャーロットから聞いたところによると、ウィリアムは今回の夜会には絶対ついて行くと言い張ったそうだ。ラザフォードの夜会はあらゆる貴族達が招待される大規模なもので有名だ。そんなところに婚約者が行くのは気が気ではないのだろう。最近シャーロットはグレイスの世話ばかりしていたので構って貰えてなかった所為もあるのだろう。やっぱり悪い事をしたなと思いつつ、ウィリアムが愛しい婚約者の手前、何でもないように装っていたことが少しおかしくて笑ってしまった。
姉より先に結婚はしないと宣言していた妹だったが、グレイスの説得でようやく気持ちを変えてくれていた。
シャーロットとウィリアムの二人は年が明けたら結婚することを正式に決めたのだった。
それでもシャーロットはまだ一人身の姉の事が気がかりであるようだった。けれど一旦決まってしまうとやはり結婚は嬉しいのだろう、目の前の妹はとても幸せそうな顔をしている。グレイスはほっとする。この二人なら問題はない。
後は自分の問題だ。何とか少しでも前進したいし、その姿を妹に見せてはなむけとしたい。
だから今夜も苦手な夜会に挑戦しようとしていた。だが今回はあのラザフォード家のものだ。この国でも一二を争う上流貴族の夜会は豪華で大々的なものだ。今までのものとは勝手が違う。グレイスは行くのを躊躇っていた。シャーロットも以前の事があるしもう無理強いはしなかったので一旦は行くことをやめようかと考えていた。けれどラザフォード家の美術品の素晴らしさはグレイスでも聞いたことがある程有名だった。一度見てみたいという興味が湧いてくると止まらなかった。シャーロットが独身でグレイスに付き添う事ができる内に行っておきたいと、決心したのだった。
「上流貴族のなかでも最も由緒ある名家ですからね。お屋敷自体が歴史的価値がありますし、絵画の所蔵品の数は随一と聞いています。一日かけても全て見れないとか。きっと気に入りますよ」
ウィリアムがまたグレイスを励ますように説明してくれる。
しかしグレイス達を乗せた馬車が徐々に夜会会場に近付き、屋敷の大きさを間近で感じるようになると緊張が増してくる。他の客の馬車の数も豪華さも今までにないものだ。帰りたくなってくる。
けれど屋敷に着くと一変した。グレイスの緊張は興奮に変わったのだった。
グレイスは圧倒されていた。
ラザフォード家の屋敷はその大きさもさることながら、芸術が栄えた時代の様式で作られた荘厳な建物だった。細部まで凝った装飾が施されていて、手入れも行き届いていた。それでいて華美な印象はなく、落ち着いた雰囲気がグレイスの好みのものだった。
内装も凝ったものばかりで、飾っている美術品の数も多く、どれも想像以上に素晴らしい。グレイスも最近はいろいろな屋敷に赴いてはいるが、これほどまでの所は無かった。王室の宮殿にも劣らない規模だった、いやグレイスにとっては、こちらの方が趣味が合っていて好ましい。こんなところがあったのかと驚きと興奮で夜会に来ていることを忘れてしまいそうになる程だった。
夜会が始まって最初のうちは、シャーロット達と一緒に他の方たちと挨拶をしたりしていたグレイスだったが、しばらくして少し休憩するといって妹達と離れた。シャーロットとウィリアムを二人で行動させてあげたかったし、飾ってある美術品をゆっくり鑑賞したくて気もそぞろだったからだ。妹も美術鑑賞をしたくて堪らない姉の様子を理解したようだった。
一人になると夢中で壁の絵画を眺めた。
沢山の絵画がどの壁にも並んでいた。周りがおしゃべりやダンスで賑やかにしている中、邪魔にならない様に気を遣いながら、壁沿いにゆっくり歩き眺める。それぞれの絵の感想を心の中で言い続ける。どこを見ても一級品に行きあたるので飽きるということがない。もっともっと見たくなって飾ってあるほうにどんどん進んでいくと、いつのまにか大広間から出て玄関とは反対の廊下にきてしまっていた。そこにも美術品はさり気なく飾ってある。少し行くと小さな広間があった。
人は誰もいなく明かりも少し落としてあり、気軽に立ち寄っては駄目な雰囲気だったので一旦立ち止まった。しかし入口付近に飾っている絵画がグレイスの好きな風景画だったので思わず中に入ってしまう。その広間にも壁一面の絵画が並んでいた。しかもほとんどが風景画のようだ。グレイスは先程まで入るのを躊躇っていたことなどすっかり忘れ、どんどん中へ進んで行った。通常屋敷に飾る絵画はその家の歴史や栄華を見せる為のものであったので、肖像画や儀式の一場面などが多いのだが、グレイスはそういうものを見ても技巧や技術に感心はするが、あまり興味が湧かなかった。しかしその部屋には森や湖や建物の風景が沢山飾られていた。どこを見てもグレイスには眼福だった。けれど少し暗いのでかなり近づかないと細部はよく見えない。
(どうして明るい昼に夜会をしてくれないのかしら)今夜は心からそう思う。
その広間には左右の壁に添って長い階段があった。片方の階段を上がり通路を通ってもう一つの階段から降りるとほとんどの絵が鑑賞できるようだった。
階段の上り下りが少し面倒だが、見たい欲求には逆らえずゆっくりと足を進める。
数段だけ階段を上り立ち止まって壁の絵を眺める。そして少し上りまた眺めることを繰り返す。どれもグレイス好みの素敵な絵で階段のしんどさや時間が経つのも忘れてしまう。
夢見心地でいたグレイスは少し油断していた。階段を上り終えようとした時に、足元の暗さもあって最後の段で足をひっかけてしまった。慌てて手をついて難を逃れるが、思わず「きゃっ」と声をあげてしまっていた。運よくすぐ近くに長椅子が置いてあったので足を引きずりながら座ろうとすると階下から、声がした。
「どうかされましたか?」
男性の声だ。声の主は階段を上り近づいてくる。暗くてよく見えないが背の高い男性のようだった。
グレイスは焦った。ここにいる事をどう説明しよう。今夜は夜会で屋敷を開放しているとはいえ、こんな会場の大広間と離れた所で一人うろちょろしているのは怪しい事この上ない。咎められたらどうしよう。とにかく正直に言ってみよう。
「あ、あの…わ、私は…今夜こちらの夜会に招待されましたブラウン家のものでございます。怪しい者ではございません。た、ただ…絵が見たくてここにおります。そ、その…ここの絵画があまりにも素晴らし過ぎて…我を忘れてしまいまして…いろいろ見ておきたくてこんな所まできてしまいました。…す、すぐにお暇いたしますので…どうか…お許しください」
すると相手はグレイスの前まで来てこう言った。
「お怪我はされていませんか?」
足を躓いて一瞬うずくまっていたのを見られていたのだろうか。心配してくれているようだ。咎められるような様子ではない。良かった。優しそうな男性だ。
「ご、ご心配ありがとうございます。…す、少し躓いただけなので、だ…大丈夫でございます」
自分は素早くは動けないので、この男性が先に早くここを立ち去って貰えないかなと思いながらグレイスは言った。
するとその男性はほっとしたようで、グレイスの隣に腰掛けた。
グレイスは見知らぬ男性が隣に座ったことに驚いたが、彼の次の言葉でそれも吹き飛んだ。
「絵がお好きなんですか?何かお気に召された絵はありましたか?」
思わず顔を上げ男性の方を見る。
少し年上だろうか、理知的な顔立ちをしていた。どこかで見たことのあるような気がする。
彼の穏やかな顔と、今一番誰かに伝えたいと思っていた事を聞かれたことで、初対面の緊張も忘れグレイスの口はまるで自宅で家族に話す時のように動いてくれた。
「はい!絵は描くのも見るのも大好きです。あ…描くのはただの素人のお絵描きですし…特に目利きというわけでもはありませんが…。この屋敷の絵画はどれも本当に素晴らしいです。噂以上でびっくりしています。特にこの部屋の風景画はどれも大好きです。あそこに飾っている絵も色調が素敵で…」
つい先ほど見た絵の感想を素直に述べていく。絵を見た直後で興奮していたので気持ちが抑えきれず、いつもはしどろもどろになってしまうのだが、スラスラと話す事が出来た。しかも相手は口を挟まないで、頷きながら聞いてくれるので共感してもらっているようでとても話しやすかった。
グレイスが一通り自分が見た絵の賛辞を述べ終わると、ようやく彼が口を開いた。
「そんなに喜んで頂けたなら僕も嬉しいです。ここの絵は僕が気に入ったものを集めて飾ったのものなので。僕も風景画が大好きなんですよ」
グレイスは彼が何を言っているのか一瞬分からなかった。しかし我に返ってよくよく彼を見てみて一気に青ざめる。その服装や身につけているものが自分のものよりも数段高級なものである事と、大広間に飾ってあったラザフォード家の肖像画の一群の中に彼の顔があったことに気付いたからだ。
彼はこの屋敷の住人だ。
「ラザフォード家の方だったのですね。も…申し訳ございません。こんな場所にまで勝手に押し入ってしまい、おまけに浅はかな感想を長々と…」
何か失礼なことは言ってはいなかったかと思い返しながら謝った。
「あぁ自己紹介がまだでしたね、すっかり忘れていました。エドワードと申します。そんな、謝る必要などないですよ。あなたの感想を聞くのはとても興味深かったです。なかなか素直な感想を聞けることはありませんからね。もっと見て行って下さって結構ですよ。まだいろいろありますから」
(なんていい人なんだろう。あぁ、他の絵ももっと見ていきたい。でもあまり時間もないだろうし…)
はたと気がつくと今まで遠くに聞こえていたはずの舞踏用の音楽がもう聞こえてはいない。
夜会がもうすぐお開きになるという事だ。
あまりにも絵に夢中になり過ぎて思ったよりも時間がたっていたことに気付いていなかった。すぐに妹達のところへ戻らなければならない。
「ご親切有難うございます。せっかくですが、もう戻らなければなりません。一緒に来た妹達に何も言わずここに来てしまいましたので心配して探していると思います。失礼致します」
名残惜しいが、グレイスは立ち上がり、大広間に戻ろうと足を少し引きずるようにして階段を降りようとした。
「やはりお怪我をされているのでは?」
エドワードが心配そうに駆け寄る。
「あ、これは違うんです。子供の頃の怪我の所為で少し足を悪く致しまして。ゆっくりなら一人で歩けますので、どうぞご心配なく」
笑顔で返し、階段を少しづつ降りていく。
急いでいることと、エドワードがじっとこちらを見ていることのせいで上手く足が動いてくれない。
あぁどうしようと、余計に焦ってしまう。
「急いでいらしゃるんですよね?少し失礼します」
すぐ傍にエドワードの気配を感じた次の瞬間、何故か体が浮き上がっていた。
立っていたはずの体が横向きになっている。
エドワードが軽やかに階段を下りる靴音が部屋に響く。
グレイスはさっきまで足元だけを見ていたのに、どうしてか今は知り合ったばかりの男性の顔がすぐそばに見える。
(横顔も素敵だわ)ぼんやりとそう思う。
ふわふわと飛んでいるようで気持ちがいい。
わけの分からないまま身を任せていると、そのまま部屋を出て誰もいない廊下を渡り大広間の扉の近くまできてしまっていた。人に見られそうになる一歩手前でそっとグレイスは解放された。
まるで一瞬の出来事のようで、状況を理解できずにグレイスは立ちつくしていると、妹達が自分を呼ぶ声が聞こえてきた。
グレイスは、はっとして我に返る。立ち去る前にお礼を言わなければと必死で声を出す。
「どどどうもありがとうございました。今夜の事は一生忘れません。ここに来るの嫌で仕方がなかったんですが、それが嘘のようです。今は来ることが出来て本当に良かったと思っております。本当に良かったです。素晴らしかったです。最高の夜でした。本当に良かったです。ありがとうございました。では、ご機嫌よう。さようなら」
グレイスはエドワードの顔を見る事が出来ず、自分でもよく分からない事を口走り妹達の居る方へ向っていった。
彼女は気が動転していてエドワードの最後の言葉も耳に入っていなかった。
「またお会いしましょう、グレイス嬢」




