09.吐露
「偽の恋人を作る」
自棄になったグレイスは苦肉の策を考えだした。
だが、いい案と思ったのも束の間でふと我に返り冷静になってみると、かなり重大な問題を見落としていることに気づいてしまう。
恋人役をやって貰えるような人が彼女にはいないのだった。
知っている男性を思い浮かべてみた。親族を除いたら、残念なことに使用人達しかでてこない。彼らとは気心が知れているので頼み易さとしては最高なのだが、身近な人過ぎる。すぐに嘘がばれてしまうだろう。
となると、これから自力で恋人役を探す必要がある。結局誰かを探さなくてはいけないので、振り出しに戻ったことになる。
どうすればいいか分からず途方にくれている間にも、また夜会に連れ出される。
今夜も豪奢な屋敷の広間で着飾った人が談笑している中、グレイスは憂鬱なままで妹の隣で立っていた。
目の前には数人の男女が楽しそうにしている。いつものようにシャーロットを中心にして和やかに会話が進んでいた。
グレイスは相変わらず緊張していたが、精一杯の笑顔をつくり出来るだけ俯かないようにと頑張っていた。すると視界の端に見覚えのある男性がいるのに気がついた。いつかの夜会で会ったことのある人だった。
グレイスはその時の事を思い返した。
その夜も今夜の様にシャーロットを取りかこむ輪が出来ていて、彼はその中の一人だった。グレイスは会話についていくのに必死だった。ちゃんと会話を聞いているという意思表示のために一生懸命話に頷いていると何かの拍子に耳飾りが片方とれて床に落ちてしまった。自分でそっと拾おうとしたが、うまく屈めない。体がふらついて転びそうになった。その時横から手を差し出して支えてくれたのが彼だった。グレイスが恥ずかしくてうろたえていると、彼はすぐに床の耳飾りに気付いてそれをさっと拾い、笑顔で手渡してくれた。とても紳士的だった。些細なことだったが、グレイスは感激していた。場の雰囲気に怯えてしまい、誰とも碌に触れ合うことができていなかったので、その親切は心に沁みた。
優しい笑顔が印象的で忘れられなかった。
そうだわ…あの方なら…。優しいあの方になら頼めるかもしれない。事情を話せば協力してくれるかもしれない。
諦めかけていた策が急浮上してきた。
男性がちょうど今一人になっている。
グレイスはシャーロットからそっと離れ、意を決して自分から近づいていった。
彼の前に立ち、勇気を振り絞って顔をあげ話しかける。
「こ、こんばんは。この前は…た、助けていただいて…どうも有難うございました」
反応が無い。沈黙が流れる。
彼は首を傾げながら言った。「どこかでお会いしましたか?」
覚えてもらっていなかった。
カッと顔が熱くなる。一瞬で心が挫けてしまう。「い、いいえ、ひ…人違いでした。す…すみません」と何とか答える。早くその場を立ち去りたくて体の向きを変えると、運悪く目の前を女性が通り過ぎる。咄嗟に避けようとするがうまく動けない。足が縺れ、ふらついてしまい、あっと思った時には、女性の方に体が傾いていた。女性にぶつかってしまう。
パリーン。と何かが割れる音がした。
女性を巻き込んで、完全に床の上に倒れてしまった。
上半身を起こし顔を上げると、ガラスの破片が散らばっているのが目に入った。すぐ横には倒してしまった女性が痛そうな表情で右の掌を左手で押さえている。
その場が一瞬静まりかえった。凍りつくグレイスに視線が集中する。
異変に気がついたシャーロットが、すぐさま駆け寄ってくる。
グレイスはうまく立ち上がれなかった。
◇◇◇
女性は彼女が持っていたグラスが落ちてできた破片で手を切ってしまったようだった。
グレイスは必死に自分の不注意を詫びた。シャーロットも取りなしてくれた。
幸いちょっとした切り傷で、女性は特に怒ることなく許してくれた。
しかしグレイスは申し訳ない気持ちでいっぱいで落ち込んでいた。
「そんなに気に病まないで」
家に帰っても塞ぎ込んだままのグレイスをシャーロットはなんとか慰めようとしていた。
「怪我も大したものではなかったし、あの方も気にしないでいいとおっしゃって下さったのだから」
グレイスは横に首を振る。
「やっぱり。私はあんな場所には行かないほうがいいのよ…」
「何を言うのお姉様。そんなことないわ。
今日の事は運が悪かっただけだわ。気にすることないのよ。また一緒に出掛けましょうよ。
…そ、そう言えばね、もうすぐあのラザフォード家で夜会があるらしいのよ。大々的な会だから少しお姉様には敷居は高いかもしれないけど、行けばきっと喜ぶと思うわ。あそこのお屋敷の美術品はそれはすごい物ばかりなのよ。前にも行ったことがあるのだけれどね、どこを見ても素敵な絵や…」
少しでも明るく盛り上げようとするシャーロットをグレイスが遮った。
「もうやめて。やめて頂戴、シャーロット。そんなところへいくら行っても無駄なのよ。今までどこに行っても何の成果も無かったじゃない」
頑張っても皆に近づけない、注目されるのは失敗をしたときだけ。
自分は妹のようにうまく振る舞うことはできない。
抱えていたやるせない気持ちが溢れてきた。
「もう充分分かったでしょう?私は華やかな場所に行っても無駄なの。何も出来ないんだもの。皆が楽しそうに輝いているのに、私は何も出来ないの。頑張ったって、失敗しかできないのよ!」
こんな風に妹に当たってはいけないと思うのに止められない。
「シャーロット、あなた最近様子が変よ。私の事を構い過ぎるわ。
私は今のままでいいの。
お願い、もう私のことは放っておいて!」
いつも温和なグレイスが声を荒らげている。
シャーロットは姉が思ったよりずっと深く傷ついている事を知った。
とたんにシャーロットの目から大粒の涙が零れ出した。
「…ごめんなさい。やっぱり私はお姉様を傷つける事しかできないのね…。
…ごめんなさい。本当にごめんなさい」
グレイスは妹が泣く姿をほとんど見たことが無い。強い調子で当たってしまったのは自分なのだが、肩を震わせて泣く妹に驚きを隠せなかった。
「シャーロット…あなた…どうして?…どうしてあなたがそんなに泣くの?」
シャーロットは項垂れて沈黙していたが、やがてゆっくりと話し始めた。
「…私ね…妹としてお姉様の傍にいられることはとても幸運なことだと思ってる。お姉様の優しさや思いやりを近くで見られたからこそ、その大切さがよく分かるようになったんだもの。自分の事しか考えてなかった私を変えてくれたのはお姉様なの。今の私があるのはグレイスお姉様のお陰なのよ。ずっと感謝しているわ。だから誰よりもお姉様に幸せでいて欲しいの。そのためなら何でもするって思ってた。
私ウィリアムと出会ってすごく幸せだって感じた時、お姉様にもそういう相手が出来たらいいなって思ったの。でもお姉様は外の世界はお好きじゃないから…知りあう方が少ないから…。こんなに素晴らしい方なのに、皆それを知らないままで…。そんなのおかしいし、もったいないわ。お姉様だったら絶対いい人が見つかるのに。だって私なんかよりずっといい人なんだもの。だから私が無理矢理にでも何とかしようって思ったの。
お姉様は自分のことには欲がないから普通に言っても駄目だと思って。私の結婚を持ち出したの。
もっともっと幸せになって欲しいのよ…。
でも…そんなの…やっぱり傲慢な考えだったのよね。
結局こんなに傷つけることになってしまって…。本当にごめんなさい」
「シャーロット…」
「お姉様の気持ちを無視して、独り善がりだったわ。結局私は自分のことしか考えてないのよね。許して、もう何も言わないし、何もしないから…」
(あぁ、この娘は本当に…。まっすぐだわ…。)
シャーロットなりに一途に私のことを考えてくれていたのだろう。
そうだった。この妹はいつも私の事を気にかけてくれていた。
連れて行かれる夜会はいつも落ち着いた雰囲気のものばかりだった。私の苦手なダンスがないことも多かった。かなり昔に数回だけ出席した夜会はどれももっと派手で、もっと賑やかで、大人数だったのに。
招待されるよう手配するのも面倒だったはずなのに、わざわざ私が馴染みやすい場を選んでくれていたのだろう。
少しでも話の輪に入れる様にしてくれていたし、本当に疲れてしまった時にはそっと一人にしてくれた。
戸惑う時はいつも側で手を貸してくれていた。
優しい娘なのだ。
それを私のお陰だと言ってくれた、それ以上の嬉しいことはない。
「…私の事を思ってくれてありがとう。もういいのよ、気にしてないわ。だから泣かないで」
グレイスはなんだか落ち込んでいたことも忘れてシャーロットに笑顔を見せる。
そして強引で、愛しくて、いじらしい妹をそっと抱きしめた。




