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冗談と言われたので、本当に婚約をやめます

作者: 相川ことね
掲載日:2026/10/18

 婚約披露宴の主役は、花嫁になる前に捨てられた。


 エルシェナを祝うために集まった客たちが、彼女と婚約者を交互に見ている。


「君との婚約は白紙に戻す。退屈な女と一生を過ごすのは御免だ」


 ザイレンは宣言を終えると、なぜかこちらの顔を覗き込んだ。


 頬が熱い。泣くより先に腹が立った。


「では、そのように。皆様もお聞きになりましたわね」


 彼の笑顔が止まった。


 並んで立っていた壇の下で、誰かが小さく笑った。エルシェナはそちらへ顔を向けた。ザイレンの学友たちが杯を持ったまま立っていた。


 こちらが気づくと、彼らは口元を手で隠した。


「待てよ。君はどうしてそうなるんだ」


「ご自分でおっしゃったことをお忘れですの?」


「冗談だろう」


「今のお言葉が?」


「当たり前じゃないか。婚約を披露する宴で本当に婚約を破棄する男がどこにいるんだ」


 ザイレンは笑い、学友たちへ目をやった。


「驚かせて悪かった。ほら、君が泣いたら僕が抱き締める。ずっと大切にするって言うんだ。そうしたら皆も安心して拍手できるだろう」


 背中へ伸びてきた彼の手を、エルシェナは扇で止めた。


「触らないでくださいませ」


「怒るなよ。ちょっとふざけただけだ」


「退屈な女で申し訳ございませんでした。どうぞ面白い方とお幸せに」


 壇を下りると靴の踵が床を打った。


 その音で楽団の一人が弓を下ろした。奏でかけた明るい曲が途切れる。


 給仕の娘が戸口から駆け寄った。侯爵夫人の屋敷で働くタニアだ。今夜は給仕の手伝いに来ていた。


「お嬢様、お外のお支度を」


「タニアさん。上着だけお願いできますか」


「おい、君。余計なことをするな」


 ザイレンの声にタニアの肩が上がる。


「この子に頼んだのはわたくしです」


 エルシェナは立ち止まって振り返った。


「わたくしにおっしゃってくださいませ」


「だから帰るなと言っているんだ。せめて笑ってくれよ。こんな空気にする必要ないだろう」


 母のセディアが客の間を抜けて来た。細い腕で娘の肘を押さえる。


「エルシェナ。お客様の前ですよ」


「ええ。ですから今ここでお伝えしております」


 母の手を外し、扇を畳んだ。


「今夜は帰ります」


 戸口の脇でタニアが上着を広げた。エルシェナは袖を通し、彼女へ礼を言った。


 背後ではザイレンが客たちへ何か言っている。


「本気にするなんて、まったく。ああいうところも可愛いんだけどね」


 エルシェナは戻らなかった。


 待たせてあった実家の馬車へ乗ると、自分の隣の席を手で払った。今夜のために用意された花びらが座席に残っていた。


 こんなところにまで飾らなくてもよいのに。


 花は好きだ。だが今はその上に座りたくなかった。




 母は帰宅すると、娘の部屋へ先に入った。


 宴の席では崩れなかった眉間に皺が寄っている。


「明日の朝にでも謝りに伺いなさい」


「何を謝るのでしょう」


「宴を台無しにしたことでしょう。ザイレン様も言いすぎたけれど、あなたまで意地を張っては収まりません」


 エルシェナは机の椅子を引いた。母に座ってもらうためではない。


 引き出しから便箋を出すと、母の手がその上へ重なった。


「誰に書くの」


「お父様です」


「商談で忙しい方を煩わせないで」


「わたくしの婚約のことですもの。ご相談いたします」


 父は穀物の買い付けで隣の町へ出かけていた。使いを急がせれば明日には手紙が着く。すぐに顔を見て話せなくても、黙っていてよい理由にはならなかった。


「伯爵家の倉庫をお借りする話はどうなるの。冬の商いを目前にして、今から別を探せと言うの?」


「倉庫のお話と、わたくしの結婚は同じお話ですか」


「他人事のように言わないで。あなたの家でしょう」


 母の声に責める響きが増す。


 エルシェナはペンを置いた。


「分かっております。だからお父様へきちんと伝えます」


「話を大きくしないでちょうだい。ザイレン様だってあなたを大切に思ってくださっているのよ。あれぐらい笑っておあげなさい」


 母に大声で怒鳴られたことはなかった。


 食事を抜かれたことも、寝室へ閉じ込められたこともない。いつだって娘にふさわしいものを選び、よい縁を見つけたと喜んでくれた。


 その母が今、娘の嫌だという言葉を置き去りにしている。


「お母様は、わたくしが今朝どんなに楽しみにしていたかご存じでしょう」


「もちろんよ」


「それでも謝りに戻れとおっしゃるのですね」


「夫婦になれば、もっといろいろあるのです」


 エルシェナは母を見た。


 口の中が少し乾いていた。言葉を選んでいると、また母の返事に合う答えを探しそうになる。


「今夜のことを許して、もっと嫌なことがあっても笑う妻にはなりません」


「エルシェナ」


「こちらのお手紙を書かせてくださいませ」


 母の手が便箋から離れた。


 娘がペンを取っても母はしばらく立っていたが、やがて部屋を出ていった。


 廊下の足音を聞きながら、エルシェナは父へ今夜の出来事を書いた。ザイレンの言葉も、自分がどう返したかも省かなかった。


 それから別の便箋を広げる。


 宛名はルイゼ侯爵夫人。家族ぐるみで付き合いのある、母よりも古くこの家を知る人だった。


 父が戻るまでしばらく泊めていただけないか。なぜそのお願いをするのか。こちらにも同じように書いた。


 母に隠れて逃げるつもりはない。朝には行き先を伝える。


 封をして使いを呼ぶと、ようやく空腹に気づいた。


 宴のご馳走は、ひと口も食べていない。


「台所に何か残っているかしら」


 誰もいない部屋で呟き、エルシェナは上着を手に取った。




 翌朝、ルイゼから馬車が来た。


 夫と相談したうえで部屋を用意したと、迎えの者が伝えた。


 母は出発を止めなかった。食堂の戸口で娘を見ていた。


「侯爵夫人へ失礼のないように」


「お世話になるお礼は申し上げます」


「ご迷惑をおかけしているのですからね」


 エルシェナは返事をしなかった。


 馬車が門を出てから、膝に置いた手を開いた。


 婚約指輪はまだ指にある。二週間前、同じ指輪を床で探した。


 あの夜もザイレンは笑っていた。


 彼の学友を集めた小さな食事会だった。


 食後に庭を見ようとしたところで、ザイレンが指輪を見せてほしいと言った。


「よく似合うな。僕は選ぶ目がある」


「ええ。綺麗ですわ」


 初めて贈られたときは本当に嬉しかった。箱に添えられた花も彼女の好きなものばかりだった。二年前のエルシェナは、父と母の選んだ縁をよかったと思った。


 ザイレンは指輪をつまみ、明かりにかざした。


 次の瞬間、指先から金の輪が落ちた。


「おっと」


 音を追ってエルシェナが身をかがめる。指輪は椅子の足の向こうへ転がった。


 裾が邪魔で届かない。彼女は床へ片膝をついた。


「ほら、拾っておいで」


 頭の上で笑い声がした。


「犬に教える芸みたいだな」


 指輪へ伸ばした手が止まった。


 ザイレンの学友たちも笑っている。一人は大げさに口笛を吹いた。


 膝に敷かれたドレスがずれる。指輪は見えるのに、もう手を伸ばしたくなかった。


「……ご自分でお拾いください」


「怒ったのか? 冗談だよ」


 彼はすぐに指輪を拾い、立ち上がったエルシェナの手へ乗せた。


「君の大事な指輪だろう。そんな顔をするな」


「今のは嫌でした」


「うん。分かった。もうしない」


 彼はその場ではそう言った。


 外へ出ると、彼女のドレスには床の埃がついていた。払っても膝の皺は消えなかった。


 馬車が石橋に差しかかり、エルシェナは顔を上げた。


 昨日の宴まで我慢していた自分に腹が立つ。それでも二週間前に嫌だと伝えたことは、間違っていなかった。


 向こうが忘れても、なかったことにはならない。


 窓の外に柳の枝が見えた。子供のころ、侯爵家へ遊びに来るとよく歩いた川沿いの道だ。


 帰りにどこかへ寄ろうと思うとき、いつもザイレンの顔色を思い浮かべていた。彼はあの道を歩くと靴が汚れると言う。


 今日の靴は歩きやすいものを選んできた。


 エルシェナは荷物の留め金を閉め、侯爵家の門が開くのを待った。




「よく来ましたね」


 ルイゼは玄関まで出ていた。杖をついてはいたが、背後の使用人より先に口を開く。


「お腹は空いている?」


「実は少し」


「では話はお昼の後に。空腹の人を捕まえて説教する趣味はありません」


「説教のご予定がおありでしたの?」


「今のところはないわ。帰るまでに増やさないでね」


 エルシェナは思わず笑った。


 客室へ荷物を置いた後、昼食をルイゼとともに取った。昨夜の手紙で大体の事情は伝わっていた。夫人はすぐに許してあげなさいとも、別れなさいとも言わなかった。


 食事の終わりに一つだけ尋ねた。


「お父様の返事が届いたら、自分の考えをもう一度お話しできる?」


「もちろんです」


「では、それまではここで過ごすとよいわ。お部屋を用意する件は主人も承知しています」


 食後に庭へ出ると、ヴァスティンが犬を連れて歩いていた。


 ルイゼの次男だ。幼いころから知っている顔なのに、会うたびに背が伸びたように見える。今では話すときに少し顔を上げねばならなかった。


「ポム。お久しぶりですわね」


 犬は先にエルシェナの手を嗅いだ。主より丁寧な挨拶を済ませると、庭の門へ歩いていく。


「俺より犬へ先に挨拶か」


「ポムはご自分から来てくださいましたもの」


「俺も歩いて来たんだが」


「でしたらもう少し早足でどうぞ」


 ヴァスティンは隣へ並んだが、昨夜のことを尋ねてこなかった。


「川まで行くか」


「人はいらっしゃる?」


「この時間なら浅瀬は空いていると思う。見てから決めよう」


 庭の門から川へはなだらかな小道が続いている。エルシェナは犬と一緒に道を下りた。


 草の上を歩くと、靴の先に小さな種がついた。しゃがんで取っているうちに犬が先へ行き、ヴァスティンが立ち止まって待った。


 あの人なら退屈だと言っただろうか。


 考えかけて、エルシェナはやめた。


 今ここにはいない人だ。


 川岸には誰もいなかった。ポムは土手の草を踏み、日向へ丸くなる。


 ヴァスティンが水際から平たい石を拾った。


「一回だけやるか。君の勝つまででもいい」


「負けると決めつけないでくださる?」


「その調子なら大丈夫だな」


 言われた途端、エルシェナの口が止まった。


「……元気になった顔をしなくてはいけませんの?」


 彼は持っていた石を見た。


「すまない。急がせた」


 石は彼の上着にしまわれた。


 エルシェナはポムの脇へ腰を下ろした。ヴァスティンは少し離れた場所で川を見ている。彼女の顔を覗き込んだり、答えを待ったりしなかった。


 流れてきた柳の葉が石の間を抜けていく。


 エルシェナは手を後ろにつき、空を仰いだ。宴の楽団も、母の足音もここにはない。犬の背を撫でると暖かかった。


 しばらくして彼女は立ち上がった。


「石を貸してくださいまし」


「無理に付き合わなくていい」


「わたくしが遊びたいんです。あなたに勝つまで帰りませんわ」


 彼は上着から石を出した。


 エルシェナは受け取った石の両面を見て、指に合う向きへ返した。誰もいない浅瀬へ腰を落として投げる。


 石は水面を跳ねる前に沈んだ。


「いまのは川が悪いのです」


「川に聞かせてやりたいな」


「証人になってくださいまし。川へ苦情を申し立てます」


 ヴァスティンが笑った。エルシェナも声を上げて笑った。


 犬が目を覚まし、何がおかしいのかという顔で二人を見た。




 翌日、ルイゼを訪ねて客が来た。


 初老の男爵で、ザイレンの祝宴にも出ていた人だった。エルシェナに気づくと咳払いをし、帽子を胸へ当てる。


「こちらへいらしたのですね」


「ルイゼ様にお世話になっております」


「そうでしたか。いや、若い者の間ではいろいろありますな」


 エルシェナは帽子を受け取りに来たタニアへ場所を譲った。


「そのようですわね」


「ザイレン君も根は悪い人間ではないのです。私からも話しておきましょう」


 頼んだ覚えはない。


 断ろうと息を吸ったとき、男爵が椅子の脇の足台へ靴を引っかけた。


 膝が崩れ、手にしていた茶が上着へこぼれる。


 エルシェナは卓を押さえた。揺れた花瓶が倒れる前に止まり、男爵の肘が椅子へかかった。


 タニアが男爵の後ろで唇を結んだ。笑いをこらえるような顔だった。


 その顔がルイゼの視界へ入る。


「タニアさん。椅子をこちらへ」


 エルシェナが言うと、タニアはすぐに椅子を引いた。


「お手をお貸ししても?」


「大丈夫、大丈夫です。いやはや、お恥ずかしい。笑ってやってください」


 男爵は赤い顔で上着を引っ張っていた。


「お膝を打っていらっしゃらないかしら。立つのは少しお待ちになって」


 エルシェナは膝掛けを取り、男爵の前へ広げた。濡れた上着を引き寄せて隠す手が見えたからだ。


「これをお借りしましょう。お着替えの間に、上着を乾かしてもらえますわ」


 ルイゼが杖を持って立ち上がった。


「隣のお部屋を使って。タニアは替えの上着を頼んできてちょうだい」


「はい、奥様」


 タニアはもう笑っていなかった。男爵の前に椅子を置き直してから部屋を出た。


 男爵は膝掛けを受け取り、胸の辺りまで引き上げた。


「……ありがとうございます」


「いえ。ゆっくりお立ちくださいませ」


 彼が部屋を移ると、エルシェナは濡れた卓布を外した。夫人の前で黙って仕事を始めてよかったかと思ったが、ルイゼは空いた卓へ花瓶を戻すだけだった。


 廊下から戻ったタニアが、小さな声で言う。


「ごめんなさい。ちょっと、ざまあみろって思ってしまって」


「びっくりしましたものね。でも今はお怪我がなくてよかったわ」


「……はい」


 タニアは卓布の反対側を持った。


「この間はエルシェナ様が帰ってくださって、少しほっとしたんです。あのまま立っていらしたら、わたしも何か言っていたと思います」


「そうしたら上着を着るより先に、あなたを迎えに戻らねばなりませんでしたわね」


「すみません」


「ごめんなさいと言うのはわたくしの方かしら。ご馳走を食べ損ねましたもの」


 タニアの肩から力が抜けた。


「お菓子なら侯爵家の方が美味しいですよ。あの晩のは固くて」


「まあ。もっと早く伺いたかったわ」


 ルイゼが二人の方を見た。


「聞こえていますよ」


 タニアが背筋を伸ばす。


「うちのお菓子を褒める声は、もっと大きくてよろしい」


 エルシェナは笑い、タニアとともに卓布を畳んだ。




 その夜、父からの返書が届いた。


 エルシェナは便箋を開いたまま、同じ行を読み直した。


 我慢して戻らなくてよい。婚約を解消したいという意思は尊重する。商談は父が先方と別に話す。帰り次第、顔を見て話を聞かせてほしい。


 それだけのことが、父の字で書いてあった。


 封筒には別の短い便箋も入っていた。母へ渡すようにと記されている。エルシェナは開かず、侯爵家の使いに実家への届けを頼んだ。


 部屋へ戻ると、夕食の席に来なかったことを心配したルイゼが戸口にいた。


「お返事は届いた?」


「ええ。お父様がお戻りになったら、正式にお話をしてくださるそうです」


「あなたはどうしたいと書いたの?」


「婚約をやめたいと書きました」


「では、お返事が来るまでに気持ちは変わった?」


 エルシェナは首を振った。


「変わっておりません」


「そう。では、温かいお料理を食べにいらっしゃい」


 食堂で席につくとヴァスティンが顔を上げた。


「今日は良い知らせだったらしいな」


「お顔に書いてありまして?」


「席に着く前からパンを見ていた」


「それは毎日ではないかしら」


「明日から気をつけて見てみる」


「お食事に集中なさって」


 ルイゼが匙を取った。


「二人とも、パンは逃げません。ポムと同じ顔をしないで」


 ヴァスティンが母を見る。


「俺まで?」


「あなたは毎日です」


 エルシェナはとうとう声を立てて笑った。


 翌日の午後、二人は川へ出かけた。


 今度はエルシェナが先に平たい石を選んだ。ポムは土手の上で伏せている。


 ヴァスティンが川岸を見渡した。


「誰もいないな」


「お客様がいらした方がよろしくてよ。わたくしの勝つところをご覧いただけますもの」


「昨日は川のせいにした人が何か言っている」


「一昨日ですわ。今日まで負け続けていたようにおっしゃらないで」


 彼の口元が上がる。


 エルシェナは手を拭いてから石を構えた。


「勝った方が帰りのお菓子を選びましょう」


「負けても食べる気だな」


「それは当然ですわ」


 石が浅瀬を跳ねた。今度はすぐには沈まない。


 エルシェナは彼を振り返り、手を腰に当てた。


 ヴァスティンは何も言わずに次の石を探した。


 その真剣な顔を見るのが好きだと、エルシェナは思った。




 その日の夕方、ザイレンの父から手紙が来た。


 先日のことは息子から聞いたが、両家の親を交えて正式に話したい。帰ってきたエルシェナの父も明日は出席するとある。


 初回の宴ではザイレンの父は商人たちとの別の席へ呼ばれていた。息子のしたことをきちんと知ってもらう必要もあった。


 エルシェナは出席を承諾した。


 ルイゼにも同席を頼むと、夫人は杖の先を床についた。


「私が代わりに返事をしてあげるわけにはいきませんよ」


「それは承知しております。横に座っていていただきたいだけです」


「分かりました」


 ヴァスティンは廊下で手紙の封筒を見た。


「また会うのか」


「正式なお話ですから」


「付き添いが必要なら――」


「ルイゼ様にお願いしました」


 彼の言葉が止まった。


 エルシェナは封筒を鞄へしまった。


「お母様をお借りいたしますわね」


「……どうぞ。俺よりずっと頼りになる」


「勝負ならあなたへ頼みますわ」


「今度は何の勝負だ」


「まだ考えておりません。でも、すぐに見つかると思います」


 エルシェナは笑って部屋へ戻った。


 翌夕、伯爵家の玄関へ入ったところで足が止まった。


 大広間の戸が開いている。客たちの話す声と、楽団が調子を合わせる音がした。


 家同士の話し合いに、楽団が要るのだろうか。


 ルイゼがすぐ隣で立ち止まる。


「帰ってもよいのですよ」


 エルシェナは廊下の先を見た。


 大きな花束を持つザイレンが、鏡の前で上着を直している。近くの学友が何か耳打ちし、彼が頷いた。


 案内の使用人が戸惑った顔をする。


「伯爵様も、ただいまお着きに。ご両家のお話し合いは奥の部屋でと伺っておりましたが、若様がお客様をお招きになっていて……」


 床へ膝をついた夜が頭をよぎった。


 あのときは立ち上がっても、指輪を受け取るまで彼が手を伸ばしていた。


 今夜も、こちらの返事を待つ顔ではない。


 エルシェナは扇を持ち直した。


「ここでお話をいたします」


 ルイゼが頷いた。


 大広間へ入ると客たちが道を空けた。先日見た顔が並んでいる。茶をこぼした男爵も、今夜は乾いた上着で壁際に立っていた。


 父がこちらへ歩いてくる。母はその隣にいた。


「エルシェナ。手紙は読んだ。先方とは――」


 楽団が一斉に音を出し、父の言葉を遮った。


 ザイレンが花束を抱えて進み出る。


「皆様。本日は僕の不始末のためにお集まりいただき、ありがとうございます」


 彼の父が眉をひそめた。


 エルシェナはザイレンから目をそらさなかった。


 ザイレンが膝をつくと、客たちが息をのんだ。


「僕が悪かった。君を失いかけてようやく分かったんだ。どうか僕にもう一度だけ機会をくれ」


 目の端に涙まで光っている。


 エルシェナは彼の差し出す花束を見た。好きな花だった。花を選ぶことはできたのだ。何度やめてほしいと言っても、人前で笑いものにするのをやめなかったのに。


 胸の奥がかっと熱くなった。今夜もまだ怒っていた。


「今の謝罪も余興ですの?」


「違う。本気だ」


「では、わたくしが断ったら?」


 彼は花束を持つ手を上げた。


「そんな意地悪は言わないでくれ。みんな見ている」


 エルシェナは客席へ顔を向けた。


「皆様はどうしてほしいのですか」


 母が身じろぎした。その隣で、先日の宴を楽しんでいた紳士が視線を落とす。


「わたくしはまだ嫌です」


 喉が少し震えた。言ってしまえば思ったより短い返事だった。


 母が立ち上がりかけた。その前へ、背筋の曲がった侯爵夫人が歩み出た。


「座っていらして。エルシェナさんは嫌だと言ったでしょう」


「大げさです。二人の痴話喧嘩ですよ」


 ザイレンが笑った。


 エルシェナは彼が笑い終わるのを待たなかった。


「婚約を解消いたします。お父様と伯爵様には改めて正式にお伝えします」


 花束が下がった。


「本気なのか」


「先日からそのように申し上げております」


「こんなに頭を下げても?」


「ええ」


 ザイレンは立ち上がった。彼の頬から笑みが消えていた。


「君にだって悪いところはあるだろう。人の好意をこんな形で――」


「やめなさい」


 今度はザイレンの父だった。


「もう彼女に返事を求めるな。正式な話は私が引き受ける。お前が邪魔をすることは許さん」


 ザイレンが周囲を見回した。


 誰も笑わなかった。


 楽団の弓が下がった。


 奏者の一人が譜面を押さえたまま、横の者と目を見合わせている。


 ザイレンは父の肩越しにエルシェナを見た。


「君を喜ばせたかったんだ。それぐらい分かるだろう」


 エルシェナは花束の向こうで彼と目を合わせた。


「喜べませんでした」


 ザイレンの指が花の茎を握る。折れた葉が絨毯へ落ちた。


「君は昔、もっとよく笑ったのに」


 何も返せずにいたのは少しの間だった。


 あの土手で自分がどんな声を上げていたか、彼女は覚えていた。


「……今も笑いますわ」


 そう答え、父の方へ歩いた。


 母が口を開く。父がその顔を見て首を振った。


 先日の宴で笑っていた男爵が扉を押さえてくれた。


 エルシェナが前を通ると、小さく頭を下げた。彼女は会釈を返した。




 翌日、双方の父が用意した部屋で婚約解消の書類を交わした。


「息子にも意思を確かめました。解消に異存はないとのことです」


 ザイレンの父の言葉を聞き、エルシェナは頷いた。


 彼女も署名前に自分の意思を尋ねられた。答えは昨夜と同じだった。


 指輪を箱へ戻すと、ザイレンの父が受け取った。


「息子から直接謝罪をさせたいのですが」


「もう十分に伺いました」


 彼は口を閉じ、少ししてから頭を下げた。


「承知しました。私からお詫びを申し上げます」


 書類がそれぞれの父の手へ渡る。


 婚約は終わった。


 家へ戻った母は、窓辺で外を見ていた。荷物を解いたエルシェナが顔を出すと、振り返らずに言った。


「倉庫の話も終わるそうです」


「お父様から伺いました」


「あなたが今まで使ってきたものも、あの商いで買ってきたのよ」


 エルシェナは母のそばで足を止めた。


「それは存じております。別の倉庫を借りるお手伝いならいたします」


「あなたに何ができるの」


「まず帳面を見せていただかないと分かりませんわ」


 父が戸口に立った。


「損は出る。すぐに取り戻せるものでもない」


「はい」


「だが、商談がうまくいかなかったことで娘を結婚させ直すことはしない」


 母は黙っていた。


 父はエルシェナへ、明日の午後に帳面を見ようと言った。


 エルシェナは頷き、母の横に置かれた椅子を引いた。


 母はすぐには座らなかった。窓の外を見ていた顔が少しだけこちらへ向いた。


 それ以上を今夜のうちに求める気にはならなかった。




 破談が正式に決まった翌日、ヴァスティンが会いに来た。


 父と挨拶を済ませた彼を庭のベンチへ案内すると、彼はなぜか襟を直した。


「俺と付き合ってくれないか」


 エルシェナは手にしていた本を閉じた。


「お相手を間違えていらっしゃらない?」


「間違えていない。君が好きだ」


「この前はわたくしに負けて川を睨んでいらしたのに」


「それとこれとは別だ」


 真面目な顔で言い返すので、エルシェナはとうとう笑った。


「わたくしもあなたが好きです。今度のお休みには二人で遠出をいたしましょう」


 ヴァスティンの口が開いた。そのまま声が出てこない。


「お断りかしら」


「まさか。行く。どこへでも」


「では川の上流へ。良い石を探したいのです」


「また俺を負かすつもりだな」


「その前にお菓子を買っていただきますわ」


 彼が差し出した手を、エルシェナは自分から取った。


 庭の道を歩く間、彼は繋いだ手を何度も見た。勝負をするときよりずっと落ち着かない。


「わたくしの手に何かついておりまして?」


「いや」


「でしたら前をご覧になって。転んだらお菓子代が増えますわよ」


 ヴァスティンが声を立てて笑った。


 エルシェナは繋いだ手を軽く引き、彼と並んで門へ向かった。

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― 新着の感想 ―
元婚約者と結婚しないでよかった。披露宴という空気にのみ込まれなくてよかった。あんなのと結婚してたら地獄だったね。 先方の父親も息子が人格に問題があることを理解したと思うので。捨てられないなら次は尻に敷…
人前でバカにして侮辱して笑いものにする、マウント取りたいだけの屑に、体裁と家の利益のために娘を差し出そうとする母親は、毒親と言わざるを得ませんね。 演出して主役になったと錯覚しつつ観衆に後押しされない…
冗談はお互いに笑えるから冗談として成立するんですよね。個人的には主人公の母親に一番腹が立ってしまいました。自分の娘が馬鹿にされているのに笑って済ませとは。一度身内の信頼が失われると、二度と戻りませんよ…
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