冗談と言われたので、本当に婚約をやめます
婚約披露宴の主役は、花嫁になる前に捨てられた。
エルシェナを祝うために集まった客たちが、彼女と婚約者を交互に見ている。
「君との婚約は白紙に戻す。退屈な女と一生を過ごすのは御免だ」
ザイレンは宣言を終えると、なぜかこちらの顔を覗き込んだ。
頬が熱い。泣くより先に腹が立った。
「では、そのように。皆様もお聞きになりましたわね」
彼の笑顔が止まった。
並んで立っていた壇の下で、誰かが小さく笑った。エルシェナはそちらへ顔を向けた。ザイレンの学友たちが杯を持ったまま立っていた。
こちらが気づくと、彼らは口元を手で隠した。
「待てよ。君はどうしてそうなるんだ」
「ご自分でおっしゃったことをお忘れですの?」
「冗談だろう」
「今のお言葉が?」
「当たり前じゃないか。婚約を披露する宴で本当に婚約を破棄する男がどこにいるんだ」
ザイレンは笑い、学友たちへ目をやった。
「驚かせて悪かった。ほら、君が泣いたら僕が抱き締める。ずっと大切にするって言うんだ。そうしたら皆も安心して拍手できるだろう」
背中へ伸びてきた彼の手を、エルシェナは扇で止めた。
「触らないでくださいませ」
「怒るなよ。ちょっとふざけただけだ」
「退屈な女で申し訳ございませんでした。どうぞ面白い方とお幸せに」
壇を下りると靴の踵が床を打った。
その音で楽団の一人が弓を下ろした。奏でかけた明るい曲が途切れる。
給仕の娘が戸口から駆け寄った。侯爵夫人の屋敷で働くタニアだ。今夜は給仕の手伝いに来ていた。
「お嬢様、お外のお支度を」
「タニアさん。上着だけお願いできますか」
「おい、君。余計なことをするな」
ザイレンの声にタニアの肩が上がる。
「この子に頼んだのはわたくしです」
エルシェナは立ち止まって振り返った。
「わたくしにおっしゃってくださいませ」
「だから帰るなと言っているんだ。せめて笑ってくれよ。こんな空気にする必要ないだろう」
母のセディアが客の間を抜けて来た。細い腕で娘の肘を押さえる。
「エルシェナ。お客様の前ですよ」
「ええ。ですから今ここでお伝えしております」
母の手を外し、扇を畳んだ。
「今夜は帰ります」
戸口の脇でタニアが上着を広げた。エルシェナは袖を通し、彼女へ礼を言った。
背後ではザイレンが客たちへ何か言っている。
「本気にするなんて、まったく。ああいうところも可愛いんだけどね」
エルシェナは戻らなかった。
待たせてあった実家の馬車へ乗ると、自分の隣の席を手で払った。今夜のために用意された花びらが座席に残っていた。
こんなところにまで飾らなくてもよいのに。
花は好きだ。だが今はその上に座りたくなかった。
母は帰宅すると、娘の部屋へ先に入った。
宴の席では崩れなかった眉間に皺が寄っている。
「明日の朝にでも謝りに伺いなさい」
「何を謝るのでしょう」
「宴を台無しにしたことでしょう。ザイレン様も言いすぎたけれど、あなたまで意地を張っては収まりません」
エルシェナは机の椅子を引いた。母に座ってもらうためではない。
引き出しから便箋を出すと、母の手がその上へ重なった。
「誰に書くの」
「お父様です」
「商談で忙しい方を煩わせないで」
「わたくしの婚約のことですもの。ご相談いたします」
父は穀物の買い付けで隣の町へ出かけていた。使いを急がせれば明日には手紙が着く。すぐに顔を見て話せなくても、黙っていてよい理由にはならなかった。
「伯爵家の倉庫をお借りする話はどうなるの。冬の商いを目前にして、今から別を探せと言うの?」
「倉庫のお話と、わたくしの結婚は同じお話ですか」
「他人事のように言わないで。あなたの家でしょう」
母の声に責める響きが増す。
エルシェナはペンを置いた。
「分かっております。だからお父様へきちんと伝えます」
「話を大きくしないでちょうだい。ザイレン様だってあなたを大切に思ってくださっているのよ。あれぐらい笑っておあげなさい」
母に大声で怒鳴られたことはなかった。
食事を抜かれたことも、寝室へ閉じ込められたこともない。いつだって娘にふさわしいものを選び、よい縁を見つけたと喜んでくれた。
その母が今、娘の嫌だという言葉を置き去りにしている。
「お母様は、わたくしが今朝どんなに楽しみにしていたかご存じでしょう」
「もちろんよ」
「それでも謝りに戻れとおっしゃるのですね」
「夫婦になれば、もっといろいろあるのです」
エルシェナは母を見た。
口の中が少し乾いていた。言葉を選んでいると、また母の返事に合う答えを探しそうになる。
「今夜のことを許して、もっと嫌なことがあっても笑う妻にはなりません」
「エルシェナ」
「こちらのお手紙を書かせてくださいませ」
母の手が便箋から離れた。
娘がペンを取っても母はしばらく立っていたが、やがて部屋を出ていった。
廊下の足音を聞きながら、エルシェナは父へ今夜の出来事を書いた。ザイレンの言葉も、自分がどう返したかも省かなかった。
それから別の便箋を広げる。
宛名はルイゼ侯爵夫人。家族ぐるみで付き合いのある、母よりも古くこの家を知る人だった。
父が戻るまでしばらく泊めていただけないか。なぜそのお願いをするのか。こちらにも同じように書いた。
母に隠れて逃げるつもりはない。朝には行き先を伝える。
封をして使いを呼ぶと、ようやく空腹に気づいた。
宴のご馳走は、ひと口も食べていない。
「台所に何か残っているかしら」
誰もいない部屋で呟き、エルシェナは上着を手に取った。
翌朝、ルイゼから馬車が来た。
夫と相談したうえで部屋を用意したと、迎えの者が伝えた。
母は出発を止めなかった。食堂の戸口で娘を見ていた。
「侯爵夫人へ失礼のないように」
「お世話になるお礼は申し上げます」
「ご迷惑をおかけしているのですからね」
エルシェナは返事をしなかった。
馬車が門を出てから、膝に置いた手を開いた。
婚約指輪はまだ指にある。二週間前、同じ指輪を床で探した。
あの夜もザイレンは笑っていた。
彼の学友を集めた小さな食事会だった。
食後に庭を見ようとしたところで、ザイレンが指輪を見せてほしいと言った。
「よく似合うな。僕は選ぶ目がある」
「ええ。綺麗ですわ」
初めて贈られたときは本当に嬉しかった。箱に添えられた花も彼女の好きなものばかりだった。二年前のエルシェナは、父と母の選んだ縁をよかったと思った。
ザイレンは指輪をつまみ、明かりにかざした。
次の瞬間、指先から金の輪が落ちた。
「おっと」
音を追ってエルシェナが身をかがめる。指輪は椅子の足の向こうへ転がった。
裾が邪魔で届かない。彼女は床へ片膝をついた。
「ほら、拾っておいで」
頭の上で笑い声がした。
「犬に教える芸みたいだな」
指輪へ伸ばした手が止まった。
ザイレンの学友たちも笑っている。一人は大げさに口笛を吹いた。
膝に敷かれたドレスがずれる。指輪は見えるのに、もう手を伸ばしたくなかった。
「……ご自分でお拾いください」
「怒ったのか? 冗談だよ」
彼はすぐに指輪を拾い、立ち上がったエルシェナの手へ乗せた。
「君の大事な指輪だろう。そんな顔をするな」
「今のは嫌でした」
「うん。分かった。もうしない」
彼はその場ではそう言った。
外へ出ると、彼女のドレスには床の埃がついていた。払っても膝の皺は消えなかった。
馬車が石橋に差しかかり、エルシェナは顔を上げた。
昨日の宴まで我慢していた自分に腹が立つ。それでも二週間前に嫌だと伝えたことは、間違っていなかった。
向こうが忘れても、なかったことにはならない。
窓の外に柳の枝が見えた。子供のころ、侯爵家へ遊びに来るとよく歩いた川沿いの道だ。
帰りにどこかへ寄ろうと思うとき、いつもザイレンの顔色を思い浮かべていた。彼はあの道を歩くと靴が汚れると言う。
今日の靴は歩きやすいものを選んできた。
エルシェナは荷物の留め金を閉め、侯爵家の門が開くのを待った。
「よく来ましたね」
ルイゼは玄関まで出ていた。杖をついてはいたが、背後の使用人より先に口を開く。
「お腹は空いている?」
「実は少し」
「では話はお昼の後に。空腹の人を捕まえて説教する趣味はありません」
「説教のご予定がおありでしたの?」
「今のところはないわ。帰るまでに増やさないでね」
エルシェナは思わず笑った。
客室へ荷物を置いた後、昼食をルイゼとともに取った。昨夜の手紙で大体の事情は伝わっていた。夫人はすぐに許してあげなさいとも、別れなさいとも言わなかった。
食事の終わりに一つだけ尋ねた。
「お父様の返事が届いたら、自分の考えをもう一度お話しできる?」
「もちろんです」
「では、それまではここで過ごすとよいわ。お部屋を用意する件は主人も承知しています」
食後に庭へ出ると、ヴァスティンが犬を連れて歩いていた。
ルイゼの次男だ。幼いころから知っている顔なのに、会うたびに背が伸びたように見える。今では話すときに少し顔を上げねばならなかった。
「ポム。お久しぶりですわね」
犬は先にエルシェナの手を嗅いだ。主より丁寧な挨拶を済ませると、庭の門へ歩いていく。
「俺より犬へ先に挨拶か」
「ポムはご自分から来てくださいましたもの」
「俺も歩いて来たんだが」
「でしたらもう少し早足でどうぞ」
ヴァスティンは隣へ並んだが、昨夜のことを尋ねてこなかった。
「川まで行くか」
「人はいらっしゃる?」
「この時間なら浅瀬は空いていると思う。見てから決めよう」
庭の門から川へはなだらかな小道が続いている。エルシェナは犬と一緒に道を下りた。
草の上を歩くと、靴の先に小さな種がついた。しゃがんで取っているうちに犬が先へ行き、ヴァスティンが立ち止まって待った。
あの人なら退屈だと言っただろうか。
考えかけて、エルシェナはやめた。
今ここにはいない人だ。
川岸には誰もいなかった。ポムは土手の草を踏み、日向へ丸くなる。
ヴァスティンが水際から平たい石を拾った。
「一回だけやるか。君の勝つまででもいい」
「負けると決めつけないでくださる?」
「その調子なら大丈夫だな」
言われた途端、エルシェナの口が止まった。
「……元気になった顔をしなくてはいけませんの?」
彼は持っていた石を見た。
「すまない。急がせた」
石は彼の上着にしまわれた。
エルシェナはポムの脇へ腰を下ろした。ヴァスティンは少し離れた場所で川を見ている。彼女の顔を覗き込んだり、答えを待ったりしなかった。
流れてきた柳の葉が石の間を抜けていく。
エルシェナは手を後ろにつき、空を仰いだ。宴の楽団も、母の足音もここにはない。犬の背を撫でると暖かかった。
しばらくして彼女は立ち上がった。
「石を貸してくださいまし」
「無理に付き合わなくていい」
「わたくしが遊びたいんです。あなたに勝つまで帰りませんわ」
彼は上着から石を出した。
エルシェナは受け取った石の両面を見て、指に合う向きへ返した。誰もいない浅瀬へ腰を落として投げる。
石は水面を跳ねる前に沈んだ。
「いまのは川が悪いのです」
「川に聞かせてやりたいな」
「証人になってくださいまし。川へ苦情を申し立てます」
ヴァスティンが笑った。エルシェナも声を上げて笑った。
犬が目を覚まし、何がおかしいのかという顔で二人を見た。
翌日、ルイゼを訪ねて客が来た。
初老の男爵で、ザイレンの祝宴にも出ていた人だった。エルシェナに気づくと咳払いをし、帽子を胸へ当てる。
「こちらへいらしたのですね」
「ルイゼ様にお世話になっております」
「そうでしたか。いや、若い者の間ではいろいろありますな」
エルシェナは帽子を受け取りに来たタニアへ場所を譲った。
「そのようですわね」
「ザイレン君も根は悪い人間ではないのです。私からも話しておきましょう」
頼んだ覚えはない。
断ろうと息を吸ったとき、男爵が椅子の脇の足台へ靴を引っかけた。
膝が崩れ、手にしていた茶が上着へこぼれる。
エルシェナは卓を押さえた。揺れた花瓶が倒れる前に止まり、男爵の肘が椅子へかかった。
タニアが男爵の後ろで唇を結んだ。笑いをこらえるような顔だった。
その顔がルイゼの視界へ入る。
「タニアさん。椅子をこちらへ」
エルシェナが言うと、タニアはすぐに椅子を引いた。
「お手をお貸ししても?」
「大丈夫、大丈夫です。いやはや、お恥ずかしい。笑ってやってください」
男爵は赤い顔で上着を引っ張っていた。
「お膝を打っていらっしゃらないかしら。立つのは少しお待ちになって」
エルシェナは膝掛けを取り、男爵の前へ広げた。濡れた上着を引き寄せて隠す手が見えたからだ。
「これをお借りしましょう。お着替えの間に、上着を乾かしてもらえますわ」
ルイゼが杖を持って立ち上がった。
「隣のお部屋を使って。タニアは替えの上着を頼んできてちょうだい」
「はい、奥様」
タニアはもう笑っていなかった。男爵の前に椅子を置き直してから部屋を出た。
男爵は膝掛けを受け取り、胸の辺りまで引き上げた。
「……ありがとうございます」
「いえ。ゆっくりお立ちくださいませ」
彼が部屋を移ると、エルシェナは濡れた卓布を外した。夫人の前で黙って仕事を始めてよかったかと思ったが、ルイゼは空いた卓へ花瓶を戻すだけだった。
廊下から戻ったタニアが、小さな声で言う。
「ごめんなさい。ちょっと、ざまあみろって思ってしまって」
「びっくりしましたものね。でも今はお怪我がなくてよかったわ」
「……はい」
タニアは卓布の反対側を持った。
「この間はエルシェナ様が帰ってくださって、少しほっとしたんです。あのまま立っていらしたら、わたしも何か言っていたと思います」
「そうしたら上着を着るより先に、あなたを迎えに戻らねばなりませんでしたわね」
「すみません」
「ごめんなさいと言うのはわたくしの方かしら。ご馳走を食べ損ねましたもの」
タニアの肩から力が抜けた。
「お菓子なら侯爵家の方が美味しいですよ。あの晩のは固くて」
「まあ。もっと早く伺いたかったわ」
ルイゼが二人の方を見た。
「聞こえていますよ」
タニアが背筋を伸ばす。
「うちのお菓子を褒める声は、もっと大きくてよろしい」
エルシェナは笑い、タニアとともに卓布を畳んだ。
その夜、父からの返書が届いた。
エルシェナは便箋を開いたまま、同じ行を読み直した。
我慢して戻らなくてよい。婚約を解消したいという意思は尊重する。商談は父が先方と別に話す。帰り次第、顔を見て話を聞かせてほしい。
それだけのことが、父の字で書いてあった。
封筒には別の短い便箋も入っていた。母へ渡すようにと記されている。エルシェナは開かず、侯爵家の使いに実家への届けを頼んだ。
部屋へ戻ると、夕食の席に来なかったことを心配したルイゼが戸口にいた。
「お返事は届いた?」
「ええ。お父様がお戻りになったら、正式にお話をしてくださるそうです」
「あなたはどうしたいと書いたの?」
「婚約をやめたいと書きました」
「では、お返事が来るまでに気持ちは変わった?」
エルシェナは首を振った。
「変わっておりません」
「そう。では、温かいお料理を食べにいらっしゃい」
食堂で席につくとヴァスティンが顔を上げた。
「今日は良い知らせだったらしいな」
「お顔に書いてありまして?」
「席に着く前からパンを見ていた」
「それは毎日ではないかしら」
「明日から気をつけて見てみる」
「お食事に集中なさって」
ルイゼが匙を取った。
「二人とも、パンは逃げません。ポムと同じ顔をしないで」
ヴァスティンが母を見る。
「俺まで?」
「あなたは毎日です」
エルシェナはとうとう声を立てて笑った。
翌日の午後、二人は川へ出かけた。
今度はエルシェナが先に平たい石を選んだ。ポムは土手の上で伏せている。
ヴァスティンが川岸を見渡した。
「誰もいないな」
「お客様がいらした方がよろしくてよ。わたくしの勝つところをご覧いただけますもの」
「昨日は川のせいにした人が何か言っている」
「一昨日ですわ。今日まで負け続けていたようにおっしゃらないで」
彼の口元が上がる。
エルシェナは手を拭いてから石を構えた。
「勝った方が帰りのお菓子を選びましょう」
「負けても食べる気だな」
「それは当然ですわ」
石が浅瀬を跳ねた。今度はすぐには沈まない。
エルシェナは彼を振り返り、手を腰に当てた。
ヴァスティンは何も言わずに次の石を探した。
その真剣な顔を見るのが好きだと、エルシェナは思った。
その日の夕方、ザイレンの父から手紙が来た。
先日のことは息子から聞いたが、両家の親を交えて正式に話したい。帰ってきたエルシェナの父も明日は出席するとある。
初回の宴ではザイレンの父は商人たちとの別の席へ呼ばれていた。息子のしたことをきちんと知ってもらう必要もあった。
エルシェナは出席を承諾した。
ルイゼにも同席を頼むと、夫人は杖の先を床についた。
「私が代わりに返事をしてあげるわけにはいきませんよ」
「それは承知しております。横に座っていていただきたいだけです」
「分かりました」
ヴァスティンは廊下で手紙の封筒を見た。
「また会うのか」
「正式なお話ですから」
「付き添いが必要なら――」
「ルイゼ様にお願いしました」
彼の言葉が止まった。
エルシェナは封筒を鞄へしまった。
「お母様をお借りいたしますわね」
「……どうぞ。俺よりずっと頼りになる」
「勝負ならあなたへ頼みますわ」
「今度は何の勝負だ」
「まだ考えておりません。でも、すぐに見つかると思います」
エルシェナは笑って部屋へ戻った。
翌夕、伯爵家の玄関へ入ったところで足が止まった。
大広間の戸が開いている。客たちの話す声と、楽団が調子を合わせる音がした。
家同士の話し合いに、楽団が要るのだろうか。
ルイゼがすぐ隣で立ち止まる。
「帰ってもよいのですよ」
エルシェナは廊下の先を見た。
大きな花束を持つザイレンが、鏡の前で上着を直している。近くの学友が何か耳打ちし、彼が頷いた。
案内の使用人が戸惑った顔をする。
「伯爵様も、ただいまお着きに。ご両家のお話し合いは奥の部屋でと伺っておりましたが、若様がお客様をお招きになっていて……」
床へ膝をついた夜が頭をよぎった。
あのときは立ち上がっても、指輪を受け取るまで彼が手を伸ばしていた。
今夜も、こちらの返事を待つ顔ではない。
エルシェナは扇を持ち直した。
「ここでお話をいたします」
ルイゼが頷いた。
大広間へ入ると客たちが道を空けた。先日見た顔が並んでいる。茶をこぼした男爵も、今夜は乾いた上着で壁際に立っていた。
父がこちらへ歩いてくる。母はその隣にいた。
「エルシェナ。手紙は読んだ。先方とは――」
楽団が一斉に音を出し、父の言葉を遮った。
ザイレンが花束を抱えて進み出る。
「皆様。本日は僕の不始末のためにお集まりいただき、ありがとうございます」
彼の父が眉をひそめた。
エルシェナはザイレンから目をそらさなかった。
ザイレンが膝をつくと、客たちが息をのんだ。
「僕が悪かった。君を失いかけてようやく分かったんだ。どうか僕にもう一度だけ機会をくれ」
目の端に涙まで光っている。
エルシェナは彼の差し出す花束を見た。好きな花だった。花を選ぶことはできたのだ。何度やめてほしいと言っても、人前で笑いものにするのをやめなかったのに。
胸の奥がかっと熱くなった。今夜もまだ怒っていた。
「今の謝罪も余興ですの?」
「違う。本気だ」
「では、わたくしが断ったら?」
彼は花束を持つ手を上げた。
「そんな意地悪は言わないでくれ。みんな見ている」
エルシェナは客席へ顔を向けた。
「皆様はどうしてほしいのですか」
母が身じろぎした。その隣で、先日の宴を楽しんでいた紳士が視線を落とす。
「わたくしはまだ嫌です」
喉が少し震えた。言ってしまえば思ったより短い返事だった。
母が立ち上がりかけた。その前へ、背筋の曲がった侯爵夫人が歩み出た。
「座っていらして。エルシェナさんは嫌だと言ったでしょう」
「大げさです。二人の痴話喧嘩ですよ」
ザイレンが笑った。
エルシェナは彼が笑い終わるのを待たなかった。
「婚約を解消いたします。お父様と伯爵様には改めて正式にお伝えします」
花束が下がった。
「本気なのか」
「先日からそのように申し上げております」
「こんなに頭を下げても?」
「ええ」
ザイレンは立ち上がった。彼の頬から笑みが消えていた。
「君にだって悪いところはあるだろう。人の好意をこんな形で――」
「やめなさい」
今度はザイレンの父だった。
「もう彼女に返事を求めるな。正式な話は私が引き受ける。お前が邪魔をすることは許さん」
ザイレンが周囲を見回した。
誰も笑わなかった。
楽団の弓が下がった。
奏者の一人が譜面を押さえたまま、横の者と目を見合わせている。
ザイレンは父の肩越しにエルシェナを見た。
「君を喜ばせたかったんだ。それぐらい分かるだろう」
エルシェナは花束の向こうで彼と目を合わせた。
「喜べませんでした」
ザイレンの指が花の茎を握る。折れた葉が絨毯へ落ちた。
「君は昔、もっとよく笑ったのに」
何も返せずにいたのは少しの間だった。
あの土手で自分がどんな声を上げていたか、彼女は覚えていた。
「……今も笑いますわ」
そう答え、父の方へ歩いた。
母が口を開く。父がその顔を見て首を振った。
先日の宴で笑っていた男爵が扉を押さえてくれた。
エルシェナが前を通ると、小さく頭を下げた。彼女は会釈を返した。
翌日、双方の父が用意した部屋で婚約解消の書類を交わした。
「息子にも意思を確かめました。解消に異存はないとのことです」
ザイレンの父の言葉を聞き、エルシェナは頷いた。
彼女も署名前に自分の意思を尋ねられた。答えは昨夜と同じだった。
指輪を箱へ戻すと、ザイレンの父が受け取った。
「息子から直接謝罪をさせたいのですが」
「もう十分に伺いました」
彼は口を閉じ、少ししてから頭を下げた。
「承知しました。私からお詫びを申し上げます」
書類がそれぞれの父の手へ渡る。
婚約は終わった。
家へ戻った母は、窓辺で外を見ていた。荷物を解いたエルシェナが顔を出すと、振り返らずに言った。
「倉庫の話も終わるそうです」
「お父様から伺いました」
「あなたが今まで使ってきたものも、あの商いで買ってきたのよ」
エルシェナは母のそばで足を止めた。
「それは存じております。別の倉庫を借りるお手伝いならいたします」
「あなたに何ができるの」
「まず帳面を見せていただかないと分かりませんわ」
父が戸口に立った。
「損は出る。すぐに取り戻せるものでもない」
「はい」
「だが、商談がうまくいかなかったことで娘を結婚させ直すことはしない」
母は黙っていた。
父はエルシェナへ、明日の午後に帳面を見ようと言った。
エルシェナは頷き、母の横に置かれた椅子を引いた。
母はすぐには座らなかった。窓の外を見ていた顔が少しだけこちらへ向いた。
それ以上を今夜のうちに求める気にはならなかった。
破談が正式に決まった翌日、ヴァスティンが会いに来た。
父と挨拶を済ませた彼を庭のベンチへ案内すると、彼はなぜか襟を直した。
「俺と付き合ってくれないか」
エルシェナは手にしていた本を閉じた。
「お相手を間違えていらっしゃらない?」
「間違えていない。君が好きだ」
「この前はわたくしに負けて川を睨んでいらしたのに」
「それとこれとは別だ」
真面目な顔で言い返すので、エルシェナはとうとう笑った。
「わたくしもあなたが好きです。今度のお休みには二人で遠出をいたしましょう」
ヴァスティンの口が開いた。そのまま声が出てこない。
「お断りかしら」
「まさか。行く。どこへでも」
「では川の上流へ。良い石を探したいのです」
「また俺を負かすつもりだな」
「その前にお菓子を買っていただきますわ」
彼が差し出した手を、エルシェナは自分から取った。
庭の道を歩く間、彼は繋いだ手を何度も見た。勝負をするときよりずっと落ち着かない。
「わたくしの手に何かついておりまして?」
「いや」
「でしたら前をご覧になって。転んだらお菓子代が増えますわよ」
ヴァスティンが声を立てて笑った。
エルシェナは繋いだ手を軽く引き、彼と並んで門へ向かった。




