第一話「散る」
城が、燃えていた。
廊下の先、障子の向こうから橙色の光が滲んでいる。煙の匂いが鼻をつく。遠くで木が爆ぜる音、男たちの怒号、刃が交わる金属音。すべてが混ざり合い、夜の城を満たしていた。
「ツバキ」
虎之介様が、私の名を呼んだ。
振り返らなかった。廊下の角に背を張り付け、物音を探りながら、私は小さく答える。
「お静かに」
気配が三つ。曲がり角の先、約七間。足音に迷いがなく正確だ。城の廊下の造りを熟知している者の動き方。外からの奇襲ならば、こうも淀みなく動けない。内側から仕込まれた攻撃だと直感した。
裏切り者か。
私は懐から手裏剣を二枚抜き、息を止めた。
影が角を曲がった瞬間、気づいた時には、体が動いていた。幼い頃から積み重ねてきた年月が、そうさせる。
一人目は喉。二人目はみぞおち。三人目が刀を抜く前に、私はその手首を掴み、壁に叩きつけた。倒れた三人を一瞥し、すぐに虎之介様へ向き直る。
「お怪我は」
「ない」
短く答える虎之介様の顔に、動揺はなかった。さすがだと思った。城が燃え、夜陰に紛れた刺客が押し寄せても、この方は乱れない。それがこの方の強さであり、同時に、私がこの方に仕える理由でもあった。
「地下へ」
私は先を行く。虎之介様が続く。
炎は西の廓から回っている。東の廊下はまだ通れる。しかし時間がない。頭の中に叩き込んだ城の地図を辿りながら、最短の経路を割り出す。感情を挟む余裕など、どこにもなかった。
いや、本当は。
本当は、一つだけ。
胸の奥底に、ずっと灯り続けているものがあった。今夜のような夜にだけ、その存在を強く意識する。消してしまいたいと思う。くのいちに、そのような感情は不要だと、わかっているから。
それでも、消えなかった。ずっと消えなかった。
「ここです」
東の蔵の床下、一見すると何の変哲もない板張りの一角。この抜け道は、非常時に備えて極秘で設計されたものだ。城の中でも知る者はほとんどいない。くのいちとして仕える私だけに、伝えられた道だった。
指先で三箇所を順に押す。かすかな音とともに、床が持ち上がった。暗い穴の中に、石段が続いている。
虎之介様が穴を覗き込み、そして私を見た。
何も言わなかった。私も、何も言わなかった。
言葉は、要らなかった。
戦国に生きる者は皆知っている。いつかこういう日が来ると。だからこそ私たちは、長い時間をかけて、言葉の代わりになるものを積み上げてきた。信頼と呼ぶには重すぎる、何かを。
虎之介様が、石段に足をかけた。
「ツバキ」
もう一度、私の名前を呼んだ。今度は違う声音で。
「お行きください」
私は言った。
虎之介様は、一瞬だけ動きを止めた。それから、何も言わずに石段を降りていった。
私は床板を閉めた。
音が、消えた。
一人になった廊下で、私は目を閉じた。一秒。それだけあれば、十分だった。
踵を返す。天守へ向かう。
追手を引きつけなければならない。できるだけ多く、できるだけ長く。虎之介様が城の外へ出るまでの時間を、私が稼ぐ。それが、私の最期の任務だった。
炎が廊下を舐め始めていた。熱気が頬を撫でる。煙が目に染みる。それでも足は止まらなかった。止めなかった。
天守への階段を駆け上がりながら、背後の気配を数えた。五つ、七つ、十。追手が集まってくる。良い。こちらへ来い。虎之介様から、遠ざかれ。
最上階に出た瞬間、夜風が吹き込んできた。
城下が見えた。燃える城の光に照らされた夜道を、一つの影が走っていた。小さく、遠く、しかし確かに。
逃げ切った。
私は、息を吐いた。
背後の足音が迫ってくる。もう逃げなかった。逃げる必要がなかった。任務は終わった。
炎が、天守の床を這い上がってくる。
煙の向こう、城下の闇に消えていった影を、私はただ見つめていた。
生涯で一度だけ、言おうと思っていた言葉があった。言えなかった言葉が。くのいちである私には、言う資格のない言葉が。
でも今なら、届かなくていいなら。
「虎之介様」
炎が、すべてを飲み込んだ。




