第29話 一歩引く決断
処置室に、アークはいなかった。
それが、明確な変化だった。
「……今日は、呼ばないんですか」
若い医師が、ためらいがちに言った。
「呼ばない」
答えたのは、リーナだった。
「判断は、あなたたちの仕事よ」
その言葉に、空気が重くなる。
誰もが知っている。
アークがいれば、成功率は上がる。
だが——
それは、同時に依存でもあった。
医療局内で、簡単な通達が回る。
当面、アーク・シグナスは直接治療に関与しない
判断補助・記録監修のみを担当する
ざわめきが起こった。
「……現場から退くってことか」
「逃げたんじゃないのか」
そんな声も、隠さず聞こえる。
アークは、それを否定しなかった。
事実、逃げに見えるだろう。
午後、
リーナが帳簿を持ってアークの部屋を訪れた。
「……本当に、やるのね」
「ああ」
「怖くない?」
「怖い」
即答だった。
「助けられるのに、助けない」
「その判断を、自分に許すのは」
それでも、続ける。
「ここで引かないと」
「全部、俺の責任になる」
「もう、なってるわ」
「全部じゃない」
アークは、帳簿を見る。
成功。
失敗。
保留。
「判断が、誰のものか」
「分からなくなっている」
それが、一番の問題だった。
夕方、
慎重な青年が、部屋を訪れた。
「……相談があります」
「聞く」
「今日、判断を切れませんでした」
青年は、正直に言った。
「触らない方がいいと分かってた」
「でも……怖くて」
アークは、しばらく黙った。
「それでいい」
青年が、顔を上げる。
「……え?」
「切れない判断は」
「今の君には、切るべきじゃない」
「怖さを無視してやるのが」
「一番、危ない」
青年は、深く息を吐いた。
「……まだ、俺は——」
「未熟だ」
アークは、はっきり言った。
「だから」
「俺が、現場に立たない」
その言葉に、
青年は、少しだけ理解した顔をした。
夜、
医療局の灯りが落ちる頃。
アークは、一人で歩いていた。
呼ばれない。
頼られない。
それは、
昔の感覚に似ている。
だが、違う。
今は、
意図して、そこに立っていない。
正しさを残すために、
正しさを振るわない。
それが、
今の自分の役割だ。
翌朝、
医療局に新しい報告が上がる。
成功もある。
失敗もある。
アークの名前は、どこにもない。
それでいい。
正しさが、自分の手を離れ始めた証拠だから。
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