第1話 数字にならない手
この物語は、
「特別な才能を持った英雄」の話ではありません。
努力が足りなかったわけでも、
間違ったことをしていたわけでもないのに、
評価されなかった人間の話です。
正しいことを言えば空気が悪くなる。
結果を出しても、数字にならなければ残らない。
「分かっている人」ほど、黙るしかなくなる世界。
それでも、
目の前で苦しんでいる誰かを
見過ごせなかった人間がいます。
この物語の主人公は、
世界を救おうとはしません。
拍手も、称賛も、求めません。
ただ――
治るはずのものが、治らないままでいることを
許せなかっただけです。
もしあなたが、
「それ、おかしくないか?」と
一度でも思ったことがあるなら。
この物語は、
あなたのための物語です。
電子カルテの画面が、今日も青白く光っている。
リハビリ科の端、物置を改装したような小さな部屋。壁際には使い込まれたホットパック、手製の枕、誰にも見向きもされない解剖図。そこが、俺の場所だった。
「……佐久間さん、今日はどうですか」
ベッドに腰掛けた佐久間さんは、五十代後半。肩から首にかけて、いつも固い鎧を着ているみたいに動きが鈍い。デスクワークで痛めた首は、いろいろな検査をしても「異常なし」と返され、痛み止めと湿布が増えていくだけだった。
「昨日、久しぶりに眠れました」
佐久間さんが、少し困ったように笑う。
「薬、変わってないのに。不思議ですね」
「不思議じゃないですよ。眠れる体に戻ってきただけです」
俺は椅子を引き、肩に触れる。皮膚の下、筋の走行、呼吸の浅さ。言葉にするなら「ずっと身構えてる」。身体は正直だ。
ゆっくり押す。息を吐くタイミングに合わせて、沈める。
「そこ、なんで分かるんですか」
「分かります。毎日、自分の体を背負ってるのは佐久間さんですから」
沈黙が落ちる。呼吸が、少しだけ深くなる。たったそれだけで、首の可動域は変わる。鎧の留め具が外れるみたいに、頸が回る。
「……あ、回る」
佐久間さんが目を丸くした。嬉しいというより、信じられない顔で。
「痛いの、減りました?」
「うん……減った。怖いくらい」
「怖いなら、今日はここで止めます。慣らしていきましょう」
治療は派手じゃない。奇跡じゃない。
ただ、滞っているものを流す。それだけだ。
診察が終わると、佐久間さんは立ち上がり、何か言いかけて、飲み込んだ。廊下の先、白衣の背中が行き交っている。ここでは、誰が主役かは決まっている。
「先生……」
佐久間さんが小声で言う。
「ありがとうございます。ほんとは、もっと早く来ればよかった」
「遅くないです」
その言葉が嘘にならないように、俺は淡々とカルテを閉じた。
——次の瞬間、ドアがノックもなく開いた。
「先生、時間押してますよ」
リハビリ科の主任、斎藤が顔を出す。彼は俺の手元ではなく、壁の時計と予定表だけを見る。
「外来、回せてないってクレーム来てる。鍼灸って、そういうとこルーズだよね」
佐久間さんの肩が、きゅっとすくむ。
患者が萎縮する瞬間が、俺は一番嫌いだ。
「すみません」
俺は言った。反論の言葉はいくつも浮かぶ。だが、ここで争っても患者の居場所が狭くなるだけだ。
斎藤は満足げに頷き、佐久間さんにだけ笑顔を向けた。
「佐久間さん、次回からは医師の診察も入れましょうね。総合的に管理しないと不安でしょう」
「は、はい……」
佐久間さんは俺を見る。助けを求める目ではない。許可を求める目だ。「そうですね」と言ってほしい、という。
俺は笑って頷いた。
「先生の言う通りです。安心できる形にしましょう」
佐久間さんが頭を下げて去っていく。廊下の角を曲がる直前、振り返って小さく手を振った。
胸の奥が、少しだけきしむ。
斎藤はドアを閉め、俺の机に一枚の紙を置いた。
「これ。部門の方針」
紙の上には、無機質な文字が並んでいる。
——鍼灸施術の実施枠を来月より縮小する。
——収益性および再現性の観点から、当面は医師指示下での補助的運用とする。
「君さ、腕は悪くないと思うよ」
斎藤が、まるで慰めの形だけを整えるみたいに言った。
「でも数字が出ない。分かるよね? 病院ってそういう場所だから」
数字。再現性。収益。
患者の「眠れた」が、そこには載らない。
「……分かりました」
声が、自分でも驚くほど平坦だった。
怒りがないわけじゃない。ただ、怒りの向け先が、もう分からないだけだ。
「ありがと。話が早い」
斎藤は紙を回収し、さっさと出ていった。
部屋に残ったのは、ホットパックの微かな匂いと、静けさだけ。
俺は椅子に座り直し、手を見た。
この手は、確かに何人かの夜を救った。
でも、それは病院の“成果”にはならないらしい。
——治るはずのものが、治らない。
それだけは、どうしても我慢できない。
机の引き出しを開ける。古い鍼管、消毒綿、いつ使うか分からない予備の道具。
その奥に、現代の資格証が入ったケースがある。薄いプラスチックの板。俺の人生の証明。
ケースを閉じたとき、スマホが震えた。
通知は、佐久間さんからだった。
『先生、さっき医師に「気のせい」と言われました。
でも私、今日回ったの、確かに感じました。
ありがとうございます。』
俺は、その文面をしばらく見つめた。
返事の言葉はすぐ出てこない。
「気のせい」って言われて、笑って受け流せるほど、俺は器用じゃない。
——でも、患者は分かっている。
それだけで、十分じゃないか。
そう思おうとして、思いきれない。
この場所で続ける限り、俺の手は“補助”で終わる。
帰り支度をして病院を出ると、夕暮れが街を薄橙に染めていた。
人波の中で、俺はひとりだけ音が遅れて聞こえる気がした。
横断歩道の手前。
ふと、足が止まる。
胸の奥、息の通り道。
さっき佐久間さんに言った言葉が、今度は自分に刺さってくる。
——眠れる体に戻ってきただけ。
なら、俺は?
俺の体は、俺の人生は、どこへ戻ればいい?
信号が青に変わる。
一歩踏み出した瞬間、視界の端が白く膨らんだ。
まるで、真昼の手術灯を直視したみたいに。
音が遠ざかり、足元の感覚が消える。
「……なんだ、これ」
倒れる、と思った。
でも痛みは来ない。代わりに、世界そのものが薄くなる。
白の向こうで、誰かが叫んでいる。
いや、違う。叫びではなく——
熱。
鉄の匂い。
土と血の湿った臭い。
白が裂け、次の瞬間、俺の足の裏は硬い地面を踏んだ。
舗装ではない。砂利と土。
目の前には、倒れている人。血。骨。唸り声。
「回復だ! 回復魔法を!」
叫ぶ男の声。
光が走り、傷口が一瞬だけ塞がりかけて——また開く。肉が、拒絶するみたいに。
「効かない……なんで効かない!」
魔法使いが蒼ざめる。
俺は、膝が笑いそうになるのを押さえ、倒れた男に近づいた。
呼吸が浅い。胸郭が固い。皮膚の下が、異様に熱い。
触れた瞬間、ぞわり、とした。
体の中に、流れるはずのものがある。
でも、それが——詰まっている。
俺は自分でも理解できない言葉を、口にした。
「……魔力、詰まってるな」
周囲の視線が一斉に集まる。
誰も俺を知らない。俺も、ここを知らない。
それでも、手だけは覚えている。
治すために、触れる手だ。
俺は息を吐き、倒れた男の肩に掌を当てた。
——今度は、ここで試す。
治るはずのものが、治らないなら。
治し方を、変えるだけだ。
ここまでご覧いただきありがとうございます。
当面の間は、一日に3話の投稿予定です。
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