九 旅立ちと前夜の静けさ
新幹線は静かに、しかし確実に西へ進んでいた。
品川の駅を発つと、僕はぼんやりと窓の外を眺めながら、これから向かう街のことを考えていた。
京都は何度か訪れたことがある。でも、今回は少し意味が違う。これは、試験を受けに行く旅であり、自分の人生の分岐点を迎えに行く旅だ。
車内での数時間、あえて赤本は開かなかった。
代わりに、頭の中で「例の問題」の美しさを、ゆっくりと反芻していた。あの、はじまりの問題だ。すべては、あそこから始まった。
京都駅に着いたのは午後の早い時間。少し冷たい空気が、肌にちょうどよかった。
駅から地下鉄を乗り継ぎ、北野天満宮へと向かった。境内には受験生と思しき若者たちがちらほらいて、皆、どこか無言だった。
僕も手を合わせる。「無事、受けきれますように」とだけ願う。
実力は、もう出すしかない。でも、心だけは折れないようにしたかった。
その夜は、駅近くのホテルに泊まった。
せっかくの京都、夕食には少し贅沢して、美味しいものを食べたかった。けれど、「お腹を壊したら、元も子もない」と思い直し、結局は、湯豆腐と白米、そして消化にやさしい野菜のおかずが並ぶ和定食を選んだ。
味は、驚くほど染みた。緊張のせいもあるのか、なんだか涙が出そうだった。
ホテルの部屋に戻ってから、少しだけ、今までのことを思い返す。
慶應、同志社、他にもいくつか、私立大学は受けた。正直、最初から絶対に受かる自信はあった。
実際、すでに合格通知はいくつか届いていた。
でも、心はまったく動かなかった。
「ああ、やっぱり」というだけ。僕が目指していたのは、最初からそこじゃなかった。
試験に落ち着いて臨むための“予行演習”でしかなかったと、今さらながらに思う。
赤本は、やはり一度も開かなかった。最後の最後まで。
「本番は、あの静かな問いに向き合うこと。それだけだった」。
カーテンを閉め、ベッドに横になる。
静かな京都の夜、胸の奥に、ふとあの中三の春が浮かぶ。
あの問題と出会い、「これを解く人間になりたい」と願ったあの日。
──あの日の僕は、今ここにいる。
少し、目を閉じた。
眠れるかはわからない。でも、静かで、確かに、自分のための夜だった。