八 直前期――静かな闘い
十二月の風は冷たく、机に向かう背中をじわじわと硬くしていく。受験生たちが「共通テストまで、あと何日」と口にするたび、焦りというよりも、静かな波紋のようなものが胸に広がった。僕は、黙って手帳に「今日の課題」を書き込んだ。
──朝:京大過去問一問(数学)
──昼:英語の英文精読一題(一日一題、構文を完璧に)
──夜:過去問の解き直し(数学)、古文単語30語の確認
誰に見せるでもないけれど、日々のルーティンに自分の“芯”を埋め込むような感覚だった。
ある夜。問題用紙をじっと睨みつけていた僕は、ふと、手を止めた。B5のノートに丁寧に書き写した京大の数学の問題。三角関数の周期性を利用して構成された、どこか詩のように滑らかな一題。
「ああ……」
声が漏れた。答えではない。美しさに打たれていた。中学三年の春、初めて出会ったあの京大の問題と、今こうして再会している自分がいる。それは単なる解答の確認ではなく、あのとき誓った衝動と、もう一度向き合う瞬間だった。
不安もあった。模試では東大A判定。京大はB判定。周囲は口をそろえて「なぜ京大なのか?」と聞く。だけど僕には、この問いにしか応えられないような日々がある。
夜遅く、机に広げたノートの余白に、ふとこう書いた。
――「京大の問題は、答えを教えてくれない。問い続けることの意味を教えてくれる」
その余白は、僕の心の鏡だった。
正くんとは、週に一度、夜のファミレスで勉強会をしていた。彼は東大文Ⅰ志望。模試でも常に上位。だが、ふとした会話で彼が言った。
「お前のノート、見せてくれない?」
「え?」
「なんか、さ。答えだけじゃなくて、“考えてる過程”が濃いっていうか。……俺、最近、答えに急ぎすぎてた気がするんだ」
そう言ってページをめくる正くんの指先が、静かに震えていたのを、僕は忘れられない。
その夜、別れ際に正くんがぽつりと言った。
「京大、いいよな。お前、たぶん、似合うと思う」
帰宅後、母がキッチンで食器を洗っていた。彼女の背中は、あの日から変わっていない。何も言わず、何も聞かない。でもその静けさが、僕を支えていた。
その日記に、1日の勉強の流れをこう記していた:
【受験直前の一日:冬休みVer.】
7:00 起床・朝食
8:00 数学京大過去問(1題)
10:00 答え合わせ+類題整理
11:30 英語長文精読(1題・和訳)
13:00 昼食+休憩
14:00 国語(古文・漢文の演習)
16:00 数学の解き直し(ノートまとめ)
18:00 夕食
19:00 地理(資料読み込み+問題)
20:00 英語構文暗記+音読
21:00 数学:本日の振り返り
22:00 入浴・軽い読書
23:00 就寝
こうして見ると、ただのスケジュールかもしれない。でも、この日々を“意味あるもの”にしてくれたのは、あの京大の問いとの出会いだった。模試の成績でも、過去問の正答率でもない。
その夜、母が僕の部屋の前で立ち止まり、小さな声で言った。
「……頑張ってるの、知ってるよ」
その声は、湯気のように、胸に染み込んだ。
静かな夜。ノートを閉じ、机に肘をついて目を閉じる。
京大のキャンパスに、春の風が吹いている。
まだ遠いけれど、確かに、その風が、ここに届いていた。