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六 転機――京都一人旅

 その朝の空気は、少し澄みすぎていた。

 京都駅に降り立った僕は、たしかに観光客のひとりだった。でも、何かを見に来たのではない。むしろ、確かめに来た。あのとき心に灯った小さな火が、今も本当に燃えているのか。それとも、あれはただの夢だったのか。

 駅ビルの喧騒を抜け、烏丸通を北へ。地下鉄に乗り換えることもせず、ゆっくりと地上を歩いてみた。二月の京都は、観光シーズンからは少し外れていたけれど、静かさの中に、どこかしら凛とした気配があった。小さな喫茶店の看板、白川沿いの柳、乾いた冬の風にそよぐ千本鳥居の手前ののぼり。すべてが、過剰ではなく、足りなさでもなく、ただ「あるべきものが、あるべき場所にある」ような落ち着きを感じさせた。

「なんか、京都って……いいな」

 その言葉が自然に口をついて出たとき、自分でも少し驚いた。単に町が綺麗とか、寺社が立派とか、そういう話ではない。この町には、「せかせかしていないこと」が、呼吸のように染みついている気がしたのだ。

 北に向かって歩き続け、やがて百万遍の交差点に辿り着く。時計を見ると、もう昼を回っていた。何か食べようかと迷いながら、ふと左を見ると、あった。あの、京大の正門。

 肩にかかっていた鞄の重みを一度背中にずらし、息を整えてから門をくぐる。あくまで“見学者”のふりをしながら、心の中ではどうしようもなく緊張していた。これが、あの京大か。僕があの問題に出会って以来、ずっと心に描いていた場所。

 正門を抜けてすぐ、左手に伸びる並木道。赤茶色の建物が、少しだけこちらに背を向けるように佇んでいる。観光地のような派手さもなく、東京の大学のような威圧感もない。ただ、そこに在る、という佇まいだった。

 中庭を歩きながら、ふと立ち止まる。どこかの研究室の窓が開いていて、なかから議論の声が漏れてくる。数式を交えた会話。誰かが「いや、それは極限の取り方の問題で……」と話すのが聞こえた。なぜだろう、それだけで胸が熱くなった。

「ここに、僕は来たいんだな……」

 ぽつりと、誰にでもなく呟いた。

 目を閉じると、不思議と“未来の自分”が浮かんだ。茶色いリュックを背負い、レポートの締切に追われながらも、どこか晴れやかな顔をして歩いている。決して完璧でも、スマートでもない。でも、「ここで生きてる」という実感だけは、確かにあるように思えた。

 僕は静かにベンチに腰を下ろし、鞄から一冊のノートを取り出した。あの、京大の問題の写しを貼った、あのノートだ。何度も繰り返し書き直した跡が残る解答。線の震え。ページの端が少し折れている。

「ここで、このノートを、もっと育てたい」

 気づくと、涙が頬を伝っていた。別に、感動したとかじゃない。ただ、いろんな思いが、ようやく形になった気がして。

 帰り道、出町柳から鴨川沿いを歩いた。日が傾き始めていて、川面がほんのりと金色に染まっていた。橋の上でギターを弾く学生、ベンチで本を読む老夫婦、遠くに見える大文字の山。どの風景も、きっと昔から変わっていない。でも、僕にとっては、すべてが新しく、希望に見えた。

 そうだ。やっぱり、ここに来たい。

 ただそれだけを、繰り返し心に刻みながら、僕は京都の町をあとにした。

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