五 現在:家庭の壁
「……なんで、わざわざ京大なんだ?」
父の声は、いつもより少し低かった。リビングの空気が、時計の秒針の音すら吸い込むように重たくなる。
言葉を返せなかった。いや、返そうとするたびに、心の奥にある何かが喉に引っかかる。
「おまえは東大A判定が出てるんだぞ。普通なら、東大を目指す。それが"合理的"ってもんだろう」
合理的。それが父の口癖だった。たしかに、父は合理的な人だった。東大出身で、一流企業に勤め、常に最短距離で結果を出すことを良しとしてきた。だからこそ、今の僕の選択は、彼の美学に反していた。
「逃げにしか見えないな」
父はそう言って、新聞をテーブルに置いた。パタン、という音が、やけに耳に残る。
母は何も言わなかった。ただ、テーブルの上に並べられた湯呑みに目を落としたまま、指先で縁をなぞっていた。
「……違うんだ」
ようやく出てきたその言葉は、自分でも驚くほどかすれていた。喉の奥がひどく乾いていた。
「京大の問題が、好きなんだ。……それだけじゃダメなのかもしれないけど、でも、僕にとっては、それが全部だったんだ」
父は一瞬、眉をひそめた。だけど、それ以上は何も言わなかった。ただ、じっと僕の顔を見ていた。
その沈黙が、逆に苦しかった。
「正くんは東大文Ⅰ。おまえも、彼と同じ道を目指せばいい。東大に受かれば、道はいくらでも広がる」
父の言葉には、愛情がなかったわけじゃない。むしろ、あったのだと思う。だけど、それは僕の希望と交差しなかった。
「……正くんの道は、正くんのもので、僕のものじゃない」
小さな声だった。でも、それは自分の中で初めて、自分の言葉を見つけた瞬間だった。
母が、少しだけ僕の方を見た。目が合った。何かを言いかけて、やめた。そして、ぽつりと言った。
「……この子、自分で決めたのね」
その言葉が、どれほど救いだったか、言葉にできなかった。父はそれを聞いて、黙って立ち上がった。そして、書斎に戻っていった。
その背中を、僕は追わなかった。もう、それでよかった。
自分の中で、何かが静かに定まっていくのを感じていた。
京大を目指すこと。それはたしかに孤独な道かもしれない。でも、あのとき感じた衝動――「あの美しい問いに向き合いたい」と思ったあの瞬間は、まだ、胸の奥で灯っていた。
家族という、最も身近で、最も重たい壁。その前に立ち尽くした今日の自分を、僕はきっと、忘れない。