四 進路希望調査票
進路希望調査票が配られたのは、東大模試の自己採点が返ってきた翌週だった。
担任は黒板の前で「第一志望、第二志望ともに、必ず理由を書くこと」と言った。理由。僕は一瞬、鉛筆を握ったまま手を止めた。
東大A判定。成績だけを見れば、それを志望しない理由なんてないはずだった。
教室には紙をめくる音と、シャーペンのカリカリという音が小さく響いていた。みんな何の迷いもなく、「東京大学」の五文字を書いていた。
正くんは斜め前の席で、すでに記入を終えたようだった。まるであらかじめ決まっていた手順をなぞるように、用紙を三つ折りにして、ふせて机の端に置いた。
「お前は、どこ書くの?」
隣の席の子が、小声で聞いてきた。僕は少し間を置いて、「京都大学」と答えた。
その瞬間、相手の眉が少し動いたのがわかった。
「へえ、なんで?」
なんで。いつもこの問いに、うまく答えられない。東大を蹴る理由なんて、説明しにくい。いや、説明できないのかもしれない。
でも、頭の中には、あの京大の数学の問題が浮かんでいた。
「nが自然数のとき、nを三つの自然数の和で表す方法の個数をf(n)とする。f(1)=1、f(2)=2、f(3)=4であることを確認せよ。」
白い紙の上に置かれた、小さな問い。喧騒のない、ただそこに静かに佇む一問。
「これを解く人間になりたい。」
あの日感じた確かな想いは、ずっと僕の中で形を変えずに残っていた。
放課後、教室に誰もいなくなったあと、僕はようやく「第一志望 京都大学」「理由」の欄に鉛筆を置いた。
言葉が出てこなかった。でも、少しずつ、ゆっくりと、書いていった。
「中学の頃、京都大学の入試問題に出会った。それは静かで、美しかった。他の誰でもなく、自分があの問題を解いてみたいと思った。周りがどうであっても、あの問題のような問いに出会える場所で、自分の考えを試してみたいと思った。」
書き終えたあと、少しだけ手が震えた。
「孤独はある。でも、だからこそ、この道の先にあるものが見てみたい。」
それが、今の僕に書ける精一杯の答えだった。
僕はそっと用紙を折り、机の上に置いた。その上に手を置いて、深呼吸した。
この一枚の紙が、僕の道を少しずつ切り拓いていく気がした。
廊下の向こうで、正くんが笑いながら誰かと話している声が聞こえた。彼のような一直線の人間になれないことを、少し寂しく思いながら、それでも僕は自分の歩幅で歩いていこうと思った。
孤独と希望は、同じ場所にある。
そのことを、僕はようやく言葉にできた気がした。