三 選択の違和感
東大模試が終わったあとの数日間、学校では何度か、進路希望の話が出た。 「お前、やっぱ東大理一だよな?」 「◯◯くんは文一? すげー、みんな本気やん」
昼休み、教室の窓際では、クラスの中で成績上位と呼ばれる人たちが自然と集まり、受験先の話に花を咲かせていた。
その輪の中心にいたのが、正くんだった。
小学校からの付き合いだ。背が高くて、いつも落ち着いていて、けれどどこか子どもっぽい冗談も言える、そんなやつ。中学では同じ数学オリンピックに挑戦した仲間であり、高校では少しずつ、彼の頭の良さが群を抜き始めた。
そんな彼が「文一だよ」と笑って言ったとき、教室の空気が「やっぱりね」と静かに揺れた気がした。
僕も彼も、模試では上位に名前が載るようになっていた。
でも、その瞬間、自分だけが違う場所を見ている気がした。
「お前は?」と聞かれて、「まだ迷ってる」と答えた。
本当は、もう決めていた。でも、それを言葉にするのが怖かった。
その日の放課後、いつも一緒に帰っていた正くんと、校門を出たあと少しだけ歩いた。
「……東大、行くんだな」 「うん。まあ、親も期待してるし。俺は文系だし、研究より実務向きだって思うしね」
さらりと、でも確信を持った口調だった。彼らしいな、と思った。
「お前も、理一、普通に受かると思うけどな」
そう言われて、何かが胸に刺さった。ありがたい言葉のはずなのに、なぜか。「うん、でも……」
口ごもる僕に、正くんが少し首をかしげる。
「まだ、京大のこと、考えてるのか?」
言葉が出なかった。うなずくこともできなかった。
帰り道の歩道に、夕日が斜めに差し込んでいた。
車の音と、人のざわめきの中で、僕は自分の足音だけが違うリズムで響いている気がした。
翌週、進路希望調査票が配られた。
担任は「そろそろ本気で書いてな」と言った。クラスの半分以上が、すでに“本気”を出している。
僕は白紙のまま、しばらく紙を見つめていた。
京大。たしかに、それは僕にとって特別だった。
あの一問との出会い。それがすべての始まりだったのに。
でも、「なぜ?」と聞かれると、言葉が見つからない。
東大に対して、何か怒りがあるわけじゃない。
見下しているわけでも、負け惜しみでもない。
ただ、自分の心が惹かれたのが、そちらではなかった。
それだけのことなのに、どうしてこんなに説明が難しいんだろう。
「“賢い人は東大”、そう決まってるだろ」
「なんであえて違う道行くの? 東大行ってから考えればいいじゃん」
いくつかの声が、頭の中で交錯する。
京大を目指すことは、「変わり者」になることなのか?
誰かに理解されない選択をするって、こんなに孤独なのか?
それでも、あの静かな問いを思い出すたびに、僕は少しだけ、心が落ち着いた。
問題用紙の片隅で、「一緒に考えてみないか?」と優しく語りかけてくれるあの感触。
東大の問題が「実力を見せてみろ」と迫ってくるのに対して、京大の問題は「君の考えを聞かせて」と、そっと呼びかけてくるようだった。
僕は、そういう世界で考えていたい。
たとえ、ひとりでも。