二 きっかけ:美しい問題との出会い
あれは、中学三年の春だった。
たまたま机の上に置かれていた、受験雑誌の切り抜き。
塾の先生が「こういうのも面白いぞ」と、気まぐれに見せてくれた紙だった。「京都大学 文理共通数学の入試問題」と、上に書かれていた。
問題文は驚くほど短く、そして静かだった。
まるで、誰かの独り言のようでもあり、知らない誰かから届いた白い封筒のようでもあった。
目立とうともしなければ、押し付けようとするでもない。ただ、静かにそこにある。
内容は、ある角度に関する問いだった。
何かを求めよとか、証明せよとか、そういう定型句ですらなかった。
たった一行。それも、誰かがぽつりと呟いたような問いかけだった。
意味はよくわからなかった。
というより、「角度に“有理数”って関係あるのか?」という発想自体が、当時の僕には新鮮だった。
でも、不思議なことに、その一文から目を離せなかった。
「この問題、なんか……綺麗ですね」
思わず口に出すと、先生は少し驚いた顔をしていた。
けれど、そのあと「そうか」と言って、穏やかに頷いた。
僕はその後、答えと解説まで読み込んだ。
そこには、まるで詩を詠むような、整った論理の流れがあった。
遠回りせず、無理をせず、当たり前のことを積み重ねていくだけなのに、気がつけば答えに辿り着いている。
派手さはない。でも、だからこそ、その解答には静かな品格があった。
それまで僕は、入試問題というものは「難しいことをどれだけ詰め込めるか」の競技だと思っていた。
東大の問題も何問か見たことがあった。
確かに面白い。でもどこか、読み解くのにこちらの構えが必要で、問題自体が「お前の力を試してやるぞ」と語りかけてくるような、そんな威圧感があった。
他の大学の問題も同じだった。どこかで「型」や「典型」が透けて見える。
どのパターンを知っていれば、どういう式変形が有効で――そういう知識の多寡で勝負が決まるような、そういう世界。
でも京大の問題は、違った。
難しいことは問われていないのに、簡単にはたどり着けない。
問いの根っこにあるのは、「あなたはこの事実を、どう考えますか?」という純粋な対話のようだった。
正面から、静かに、でも確かにこちらを見てくる。
「一緒に考えてみないか?」と、そっと差し出されているような気がした。
その後、僕は京都大学の入試問題ばかりを集めるようになった。
赤本も、何冊も読んだ。
正直、解ける問題はほとんどなかった。けれど、解説を読むのが楽しかった。
何というか、「余白の美しさ」があった。
奇をてらわない、無駄なテクニックもない。
まっすぐで、でも鋭くて、そしてなぜか温かい。
それはまるで、和紙に毛筆で書かれた、凛とした手紙のようだった。
そこには、「こうすれば点が取れる」といったノウハウではなく、もっと根源的な何か――
「考えるという行為の楽しさ」や「数学の姿そのもの」が、そっと置かれていた。
気づけば、京都大学という存在が、少しずつ僕の中で特別なものになっていた。
強く憧れたわけでも、崇拝したわけでもない。
ただ、「あの問題が出される場所って、どんなところなんだろう」と思った。
そして漠然と、「あそこに行ってみたいな」と思い始めた。
それは、いつの間にか心の中で育っていた、小さな灯火のような思いだった。