六 旅と対話──高野山と人物画像鏡
春休みに入って数日が経った頃、西園寺から突然メッセージが届いた。
「今度の土日、高野山に行かない?」
高野山。
名前だけは知っていたけれど、特別な思い入れがあるわけでもなかった。
けれど、彼の言葉には不思議な力があった。
「思想と旅は似ている。どちらも、一人では辿り着けないところに導いてくれる」
それが彼の誘い文句だった。
僕は少しだけ迷ってから、「いいよ」と返事をした。
あまりにもあっさり決めてしまったのが、自分でも不思議だった。
だけど、春の空気は少しずつやわらかくなり始めていて、何かが動き出す予感がしていたのかもしれない。
夜、部屋の隅に置いてあるリュックに、着替えとノートと文庫本を詰めた。
ふと、机の引き出しに入れたままだった母の手紙が目に留まった。
大学に入る直前、実家を出る日に渡されたものだ。まだ開けていない。
「どうせなら、旅先で読むのも悪くないか」と思い、ノートの間に挟んだ。
そういえば、最近ずっと考えていた。
なぜ自分は、京大に来たのか。
そして、何を求めているのか。
その問いに、ちゃんと答えられたことはなかった。
明日、少しだけ遠くへ行く。
知らない土地の空気を吸って、誰かの言葉に耳を傾ける。
それだけで、何かが変わるような気がしていた。
枕元の目覚まし時計をセットして、電気を消した。
天井の暗がりをぼんやりと眺めながら、僕は心の中でつぶやいた。
「明日が、ちょっとだけ楽しみだ」
翌朝、静かな目覚めだった。
車窓から眺めるビルの影が、じわじわと後ろに流れていく。
LINEで「今日は高野山に行ってきます」とだけ母に送ると、すぐにスタンプが返ってきた。
京都から新大阪へ、新大阪からなんばへ。
特に何を考えるでもなく、ただ今日という一日の始まりに身をまかせていた。
南海なんば駅のホームには、いつもどこか旅の始まりの匂いがある。
特急こうやの発車を待ちながら、西園寺はコンビニの紙袋を手にして言った。
「今回は珍しく、目的地がある旅だ」
「いつもはないの?」
「思想と旅に明確な目的なんていらないよ。でも、今日は少しだけ違うんだ」
彼の言葉には、相変わらず余白が多い。けれど、そういう曖昧さが、なぜか今は心地よかった。
こうや号の車窓から見える大阪の街並みは、徐々に山間の景色へと変わっていった。
橋本を過ぎたあたりから、列車は森と谷のあいだを縫うように進みはじめる。
遠ざかる日常。近づく非日常。そんな静かな揺れが心の奥をくすぐった。
極楽橋駅に着いたとき、ホームには肌寒い空気が流れていた。
空気が澄んでいて、何かが始まるような気配がした。
そこからケーブルカーに乗ると、ぐんぐんと斜面を登っていく。
窓の外には深い緑が広がっていて、まるで別の世界に引き込まれていくようだった。
高野山駅からバスに乗り継ぎ、まず向かったのは壇上伽藍だった。
根本大塔の朱色の屋根が空に映え、空海が構想した密教の宇宙が、そこには静かに息づいていた。
西園寺は、塔の前で立ち止まり、しばらく黙って何かを見つめていた。
「空海って、すごいよね。
世界を作り直そうとしたんだ、文字と思想で」
僕はうまく言葉を返せず、ただ頷いた。
次に訪れたのは金剛峯寺。
石庭を眺めながら、僕たちは無言のまま縁側に腰を下ろした。
無音ではない、けれど無駄のない静けさが、そこにはあった。
「旅ってのは、こういう時間のことかもな」と思った。
そして最後に、奥の院へ向かった。
長い参道には、苔むした石灯籠と無数の墓標が並び、歩くたびに小さな音が木々に吸い込まれていった。
西園寺は、時折立ち止まっては碑文を眺め、何かをつぶやいていた。
弘法大師御廟の前で、二人して手を合わせた。
僕の中の何かが、少しだけ浄化されたような気がした。
「祈るって、こういうことかもしれない」と、思った。
帰り道、西園寺がぽつりと呟いた。
「このあと、橋本で寄りたいところがあるんだ。おばあちゃんにお土産を届けたいのと、もう一ヶ所、気になってた神社があって」
「神社?」
「隅田八幡神社っていうんだけど、昔行ったときに見た“人物画像鏡”が忘れられないんだよね。実は、京大の日本史の入試にも出たことがあるんだ」
彼の目が、少しだけ光った。
「マニアックすぎる……」
そう返した僕の声には、どこか楽しさが混じっていた。
橋本駅でJR和歌山線に乗り換えると、車内には地元の高校生らしきグループがいて、部活帰りなのか笑い声があちこちに弾けていた。
西園寺はというと、窓の外をぼんやりと眺めながら、手にした紙袋を静かに膝にのせていた。中には、祖母への小さな土産が入っているらしい。
隅田駅に着くと、あたりは夕方の光に包まれていて、ホームに立った瞬間、ふわりとした空気が頬に触れた。
駅から神社までは、静かな道をしばらく歩く。
住宅のあいまを抜け、やがて鳥居が見えてくる。
「……ここだよ」
西園寺が小さくつぶやく。
隅田八幡神社。かつてこの土地で権威を誇った古社であり、彼が言っていた“人物画像鏡”がある場所でもある。
鳥居をくぐると、境内には誰の姿もなく、風が木々をゆらす音だけが静かに耳に届いた。
拝殿の横の案内板のそばに、それはあった。
丸い銅鏡のレプリカ。鏡面には、髪を結った人物の姿が浮かび、まるでこちらを見つめているようだった。
「これさ、京大の日本史に出たことがあるんだぜ」
西園寺が、どこか誇らしげに言った。
「へえ……。なんで、こんなマイナーなものを?」
「たぶん、教科書の枠を超えて考える力を試したいんだろうね。文化と時代の接点を、自分で読み解くようにさ」
その横顔を見ながら、ふと、彼がここに来た理由がわかった気がした。
彼にとってこの鏡は、単なる入試問題のモチーフじゃない。
“時間を超えて、自分のルーツを考える”ということそのものなのだ。
「……浪漫だよな」
西園寺が、ぽつりとつぶやいた。
神社を後にして、近くにある祖母の家へ立ち寄る。
玄関を開けると、白髪の祖母が驚いたような顔をして、すぐに笑顔になった。
「まあ、元気そうで何よりやわ」
西園寺は照れくさそうに頭をかきながら、紙袋を差し出した。
短い会話を交わし、再び駅へと戻る。
京都へ戻る帰りの電車の中、車窓には夕焼けが滲んでいた。
静かな車内で、西園寺は目を閉じていた。
僕はというと、スマホも本も開かず、ただ今日一日の出来事を反芻していた。
高野山で見た空、神社の境内、そして銅鏡に浮かんだ人物の姿。
それらが、どこか一本の線でつながっていく感覚があった。
知識って、ただの暗記じゃない。
旅と結びついたときに、本当の意味で、自分の言葉になる気がする――。
そんな思いが、胸の奥でゆっくりと広がっていた。