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五 夜の鴨川と手紙

 春の終わり、夜の鴨川は、昼間の喧騒が嘘のように静かだった。

 川沿いのベンチに腰を下ろすと、風が頬をなでる。少しだけ冷たいけれど、その冷たさが、なんとなく心に合っていた。

 授業帰り、ふと立ち寄った郵便受けに、小さな封筒が入っていた。母の字だった。宛名の右肩に、小さく「京都の生活、元気ですか?」と添えられていた。

 その文字を見た瞬間、なぜだか、すぐには開けられなかった。

 何もかも自由な大学生活。誰に何を言われることもない日々。

 けれど、ふとした拍子に、心が空白になる瞬間がある。

 そんなとき、自分が「本当にここにいていいのか」がわからなくなる。

 だから、封筒を持ったまま、鴨川まで歩いた。川べりのベンチに座ってから、ゆっくりと封を切った。

 中には、少しヨレた便箋が一枚入っていた。

 言葉は少なかった。

 ちゃんと食べてる? 身体は元気?

 あんたが京都に行ってから、家の中が少し静かになった気がします。

 寂しいとかそういうのじゃなくて、ただ、季節の移ろいが、なんとなく違って見えるの。

 こないだ、スーパーでふきのとうを見かけました。昔、あなたが苦いって顔をしかめたのを思い出して、ちょっと笑いました。

 春は、ちゃんとそっちにも届いていますか。

 無理せず、でも自分のペースでやっていってね。

 母より。

 読み終えて、ふぅ、と息を吐いた。

 すごく特別なことが書かれていたわけじゃない。でも、胸のどこかがじんわりと温かくなっていくのがわかった。

 母は、僕のことを、ちゃんと見ていてくれている。

 離れていても、そうやって春を一緒に過ごしてくれている。

 家を出る前、僕は親にほとんど何も言えなかった。合格が決まって、嬉しいはずなのに、気まずさのほうが勝っていた。

 「どうせそのうち帰ってくるんでしょ」と父は言い、母は何も言わなかった。

 けれど今、便箋の中には「信じてるよ」という言葉が、確かにあった。

 川の流れを見つめながら、僕はそっと目を閉じた。

 風がページをめくるように、心の中にあたらしい季節を連れてくる。

 自由は、孤独と背中合わせで。

 孤独は、ときどき、家族の言葉でぬくもりに変わる。

 僕は鞄の中からノートを取り出し、佐伯先生の言葉を書き写した。

――「ほんとうに大切なものは、静けさのなかでしか聞こえない」

 この街に来て、よかったのかどうか。

 まだわからないけれど、少なくとも今日だけは、少しだけ「ここにいてもいい」と思えた。

 夜の鴨川に、母の手紙のぬくもりが、静かに溶けていった。

 手紙を読み終えたあと、僕はしばらく鴨川沿いに座っていた。

 風が冷たかったけれど、心の中にあるものが、少しずつ溶けていくような気がした。

 帰り道、西園寺から短いメッセージが届いた。

「今度、ちょっと変わったサークルに顔出してみる。問題を作るやつらの集まりなんだって」

「入試っぽいのとか、模試とか。文系も何人かいるらしいよ」

「“問い”って、思想になりうると思わない?」

 スクリーンに浮かぶ言葉が、風に舞う落ち葉のように心にひらひらと舞い降りた。

 唐突で、でも、どこか彼らしかった。

 ふたたびポケットから、母の手紙を取り出した。

 読み返すまでもなく、言葉はもう、胸の内に染みついていた。

「無理しないで、自分のペースで頑張ってね」

 あの一文が、心の奥でやわらかく響いていた。

 暗くなりはじめた空に、川面の光がちらちらと揺れていた。

 僕は立ち上がり、家の方へと歩き出した。

――たしかに、不安はある。

 だけど今は、少しだけ前を向けそうな気がしていた。

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