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三 図書館の片隅で

 大学の図書館には、誰にも知られたくないような場所がいくつかある。

 僕にとっては、それが西部構内の奥にある人環図書館の二階、窓際の隅の席だった。

 正確に言えば、そこに誰かが置き忘れたような木製の読書椅子と、少しかすれた蛍光灯の下にある古びた机だった。

 図書館の中でいちばん人の気配が薄く、だけど不思議と心が落ち着く空間。春先の花粉が入りこまないよう、窓はほとんど開かない。だからこそ、音のない時間が静かに流れる。

 最初は逃げるようにそこへ行っていた。

 自由な大学生活に、僕はうまく乗り切れていなかった。

 何をすればいいのかわからないまま、気づけば講義の時間割も空きだらけで、昼にはカフェでコーヒーを飲むふりをしてスマホを眺めていた。誰かと話すわけでもない。グループラインには一応入ってはいるけれど、ただの通知がたまっていくだけだった。

「これが自由か」と思うと、なんだか情けなくなった。

 そんなとき、図書館の片隅にふとあった一冊の本に、手を伸ばした。

 佐伯慎一。

 見覚えのない著者名だった。

 背表紙には、ただ『心の風景を読む』とだけ書かれていて、装丁も地味で、書店だったらきっと目に留めなかったと思う。だけどそのときは、不思議と惹かれるものがあった。ほとんど無意識に、僕はその本を開いた。

――「傷つくことを、人生の恥と考えてはいけない。むしろ、それを引き受けたとき、人は“自分を生きる”という旅を始めるのだ」

 最初のページにあったその一文で、心が静かに震えた。

 その日から、僕はその場所へ通うようになった。

 誰にも見られないところで、少しずつ本を読むようになった。佐伯先生の本だけじゃない。哲学、心理学、教育、人文書の棚の前にしばらく立ち尽くして、なにかに触れるようにページをめくった。

 知識を得ることが目的ではなかった。

 ただ、自分がここにいてもいいと、静かに思える場所がほしかった。

 ある日、隣の席に座った学生が、ふと話しかけてきた。

「それ、佐伯先生の本? 俺も読んだことある。あれ、けっこう泣けるよね」

 理学部の清家くんだった。彼とはその後、何度か言葉を交わすようになる。「自由って、選択肢の多さじゃなくて、孤独と向き合う力だと思う」

 そう彼が言ったとき、僕はなんと返せばいいかわからなかった。

 でも、言葉のひとつひとつが、じんわりと胸に残った。

 図書館の片隅で、僕は本に出会い、人に出会い、自分と出会い直していた。

 目まぐるしく動くキャンパスの一方で、こうして静かに考える時間があることが、少しずつ救いになっていた。

 そして今、誰に見せるでもないノートに、僕は佐伯先生の言葉を写している。――「自分を愛するとは、自分にしか歩めない道を、受け入れて歩くことだ」

 その言葉に、ふっと息を吐いた。

 そうか。僕はまだ何者でもないけれど、それでも歩いていていいのだ。

 図書館の片隅には、まだ春の光が届いていた。

 静けさに包まれた吉田南構内の図書館。新学期の喧騒とは無縁の空間に、僕はほっとした気持ちで身を沈めていた。佐伯慎一先生の著書『自分を愛するということ』を、今日もまた繰り返し読む。

「他者の痛みに触れることで、自分の痛みに気づくことがある」

 ページの隅に書かれたその一節に、僕はしばらく目を止めた。

「……その本、佐伯先生のやつだよね」

 静かな声が、隣の書架からふいに飛び込んできた。

 顔を上げると、痩せた眼鏡の男が一冊の文庫本を手にして立っていた。少しだけクセのある髪、くっきりとした眉。話しかけられるのは久しぶりだった。

「うん。何回か読み返してる」  「俺も好き。思想系のゼミで紹介されて読んでさ。京大って、こういう本を真面目に読んでる人と会えるのが面白いよな」

 彼は自分の名前を西園寺と言った。文学部に所属しているらしく、同じ一年生だった。

 話すうちに、どこか気の合う空気が流れた。

 彼もまた、新しい環境の中で、自分なりの道を探している途中だった。

「時間ある? 食堂でコーヒーでもどう?」

 誰かと一緒に行動することが、少しだけ怖くなくなっていた。



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