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二 自由の海に投げ出されて

 講義は、自分で選べた。行っても行かなくても怒られない。

 食事の時間も、寝る時間も、友人関係すら、自分次第だった。

 僕は、自由という言葉に憧れていた。

 けれどその自由が、こんなにも形を持たず、どこまでも不安定なものだとは、想像していなかった。

 ガイダンスを終え、履修登録の画面とにらめっこする日々が始まった。

 噂に聞く「京大あるある」――初回の講義は立ち見、次回はガラガラ。

 僕も例に漏れず、最初はノートを取るフリをして、周りの雰囲気を観察していた。

 でも、誰も僕のことなんか見ていなかった。

 みんな、それぞれの世界を生きていた。

 中学、高校と、どこか他人の目に縛られてきた気がする。

 良く思われたい、期待に応えたい。そんなふうに、自分の輪郭を決められていた。

 けれど、ここでは違った。

 自分がどう生きたいか。

 その問いを、毎日のように突きつけられていた。

 昼休みに、講義棟の影でコンビニのおにぎりを食べながら、ふと思った。

 僕は、何がしたいんだろう? この四年間で、何を掴もうとしているんだろう?

 SNSでは、派手なサークル活動や、華やかなキャンパスライフが流れてくる。

 でも、僕の現実は、まだ何も始まっていない気がしていた。

 声をかけるのが怖い日もあった。

 話しかけられても、うまく返せない自分がいた。

 そんなある日、講義後の図書館で偶然話しかけられた。

「その教科書、どうだった?」

 見知らぬ男子学生。名前も知らないけれど、僕と同じように不器用そうだった。

 少しずつ、僕の海にも、波が立ち始めた。

 自由の海は、冷たくて、底が見えなくて、泳ぎ方すらわからなかった。

 でも、そこにいるのは、僕だけじゃなかった。

 ゆっくりでいい。溺れそうになっても、泳ぎ方を探しながら、進んでいけばいい。

「自分を生きる」って、難しいけど、たぶん、それこそが大学なんだ。

 そう思えるまでに、あともう少しだけ時間がかかった。

 そんなある日、総合人間学部の中庭のベンチで昼ごはんを食べているときだった。

 隣に腰を下ろした男が、唐突に話しかけてきた。

「君、そのペン、ラミーのサファリでしょ。インク、ブルーブラック? 僕も好き」

 やたら滑舌がいい。

 口調は丁寧だけど、間の取り方が独特で、言葉にいちいち重さがあった。

 彼の名前は清家せいけ陽太。理学部の一年生。

 中学時代から物理オリンピックに出ていたらしく、数式を話すように言葉を選ぶタイプだった。

 けれど、彼の話すことはなぜかわかりやすく、どこか詩的ですらあった。

「自由って、選択肢の多さだと思ってた。でも最近は、迷える時間の長さだなって思うんだよね」

 そう言って笑ったその横顔は、どこか頼もしくて、同時に少し寂しげだった。

 彼の言葉には芯があった。

 誰かに気を使って発せられたものではなく、自分の中で何度も吟味された“確信”があった。

 僕は、ただうなずいていた。

 何も返せなかったけれど、言葉を交わすたびに、僕の中で何かが動いていくのを感じていた。

 そのまた翌週。学食の並びで偶然隣になった女の子がいた。

 ショートカットに、レモン色のトートバッグ。よく通る声で、「あ、この唐揚げ、今日ちょっと揚げすぎてるね」と笑った。

 彼女の名前は中野真帆。教育学部。

 教育学を学びながら、放課後には近くの塾で中学生に英語を教えているという。

「私はね、人の言葉を直すより、まずその人の心を肯定する言葉を探したいの」

 そう言ったとき、彼女はまっすぐこちらを見ていた。

 言葉で人を救おうとしている。そんな印象だった。

 清家くんが知識の深さで僕を揺さぶったとすれば、真帆さんは、温かさで心の奥を照らしてくるようだった。

 京大には、すごい人が本当にたくさんいる。

 学力の話じゃない。

“ちゃんと考えてる人間”が、ちゃんと、いる。

 僕はまだ、その輪の外側にいる気がしていた。

 でも、不思議と焦りはなかった。

 言葉にできないけど、確かに何かが変わり始めていた。

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