十三 合格発表
その朝、母は和朝食を作ってくれていた。
味噌汁、焼き鮭、卵焼き。いつもの組み合わせ。
でもその配置を見た瞬間、僕の頭にふっと浮かんだ言葉があった。
「和集合」。
バラバラだった日々。孤独や焦り、希望や疑問。
すべてが、一つの皿に集められたような気がした。
「緊張してる?」と母が言う。
「少しだけ」と返す。
本当は、全身が震えていた。
スマホの前で、十時を待つ。
時計の針が、世界の中心になったかのようだった。
……10時。
指が勝手に動き、画面を更新する。
京都大学の公式サイト。
学部、受験番号。確認。
目を、細める。
そして、もう一度見る。
あった。
確かに、あった。
僕の番号が、そこにあった。
しばらくのあいだ、何も感じなかった。
次の瞬間、急に全身の力が抜けた。
椅子にもたれかかり、深く、深く、息を吐く。
「……あった」
声に出すと、母が振り返った。
「え? 本当に?」
「……うん。あった」
母は、一瞬ぽかんとしていたが、すぐに目を潤ませた。
「よかったね、ほんとうに……」
父は居間で新聞を読んでいたが、ゆっくり立ち上がり、仏壇の前へ行った。
何かを取り出してきて、僕に渡す。
封筒だった。中には、祝い金の札束。
「百万、入れてある。……お前が頑張った結果だ」
父の顔を、まともに見られなかった。
でもその手の温もりだけは、ずっと残った。
午後、正くんから連絡が来た。
「渋谷、来れる?」
駅前のカフェで、再会した。
彼は少しやつれていたが、目の奥は変わらなかった。
「……おめでとう」
「ありがとう」
しばらく沈黙が続いたあと、彼がぽつりとつぶやいた。
「……俺、落ちてた」
僕はうまく言葉が出なかった。
正くんは続けた。
「でもな、悔しくはない。お前が受かったって聞いて、なんか……俺、嬉しかったんだよ」
その瞬間、胸の奥で何かが崩れ落ちて、何かが芽吹いた。
これは、競争じゃなかった。
支え合っていたんだ。ずっと、僕たちは。
「僕は今まで、受験を支えてくれたすべての人に感謝したい気持ちでいっぱいだった」
──それは嘘じゃなかった。
夜、家に戻ると親戚や昔の塾の先生から連絡が来ていた。
「すごいじゃないか!」
僕は、言葉を返した。
「ありがとう。……本当に、努力の結晶だと思ってる」
誰かに褒められるたび、自分の中の何かがすうっと溶けていく。
硬かった心が、少しずつ「春」に近づいている気がした。
そしてその夜。
自室の机に座り、京大の合格通知を見つめる。
シンプルな白封筒。けれど、重みが違った。
「あのとき、諦めなくてよかった」
心の底から、そう思えた。
その夜、僕は、机の前に座っていた。
合格通知の白い封筒を、何度も手に取り、また置いた。
ただの紙にしか見えない。でも、そこに至るまでのすべてが詰まっていた。
手のひらに残る、父の封筒の温もり。母の涙。正くんの優しい言葉。
そして、僕自身が何度もくぐり抜けてきた、あの静かな戦いの日々。
スマホには、次々と通知が届いていた。
その中に、一通のメッセージがあった。かつて同じ塾で、僕の一年後に入ってきた後輩からだった。
〈京大合格、おめでとうございます!! 本当に尊敬してます〉
僕は一瞬、返信に迷って、それからこう打った。
〈ありがとう。努力の結晶だな。そう思ってる〉
少し照れくさい。でも、それが今の僕の本音だった。
外からは、少しずつ春の気配が忍び寄っていた。
梅の香り。あたたかな空気。制服の下に着込んだセーターを、ようやく脱げそうな気がした。
僕は、まだ何者でもない。
でも、あの門の向こうに行ける。
京大の赤門。いや、正門か。
その向こうで、僕は何を見て、何を思い、何を書くのだろう。
心の奥で、そっと、声がした。
「さあ、次のページを開こう」
――ありがとう。
心の中で、もう一度呟いた。
親へ、友人へ、僕を支えてくれたすべての人へ。そして、見えない何かに。
──ここからが、本当のはじまりだ。