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10/31

十 クライマックス:試験当日

 試験当日の朝は、意外なほど静かだった。

 カーテンの隙間から、まだ眠っているような曇り空がのぞいていた。

 ホテルの部屋は暖房の音が少しうるさくて、僕は夜中に何度も目を覚ました。そのたびに、机の上の受験票を確認し、もう一度、深呼吸して布団に潜った。夢を見た記憶はない。ただ、寝ていたような気もするし、ずっと起きていた気もする。

 朝食は喉を通らなかった。母に言われた通り、無理に詰め込んだパンと、ぬるいミルクティーだけが胃の奥で静かに重たかった。

 京都大学の時計台の前で、僕は足を止めた。

 何人もの受験生が、緊張した顔で門をくぐっていく。

 僕もその一人に紛れ込み、何気ない風を装いながら歩を進めた。数ヶ月前にひとり旅で見た風景が、今度は別の顔をして僕を迎えている。あのとき感じた高揚感は、今はもうない。ただ、無言のまま、胸の奥にひたすら何かが積もっていく。

 試験室に入ると、白い机と椅子が整然と並び、空気はピンと張っていた。

 一番前の時計が、まだ開始まで五分あることを示していた。机に受験票と筆記用具を並べる。ポケットに入れたままだった北野天満宮のお守りに触れ、ポケットの奥に戻す。周囲を見渡す余裕はなかった。というより、目を合わせたくなかった。

(中略:最初の科目である国語は、細かな記憶があまり残っていない。とにかく必死だった。ただ、筆は止まらなかった──)

 次は、数学の試験だ。

 そして、試験開始の合図。紙が配られた瞬間、僕の手は自然に動いた。

 最初の問題を見て、僕は息をのんだ。

……これは、なんだ? 一見、平易な誘導。だけど、その先に何が待っているか、まだ見えない。慎重に誘導に乗る。少しずつ、確かめるように。気を抜いたらすぐに落とし穴に落ちそうな構造だ。

 二問目。数列。形式はオーソドックスだけど、最後の帰着部分にひっかかる。証明の穴を埋めようと、何度も式をなぞった。でも、完璧な形にはならなかった。

「こんなはずじゃない」と思う。だけど、それがどこから来た感情なのか、自分でもわからない。

 三問目。手が止まった。問題文の意味は分かる。使うべき定理も、おそらく当たっている。だが、あと一手が見えない。迷っているうちに、時計の針がひとつ、またひとつと進んでいく。焦り。体温が少しずつ上がる。額にじんわりと汗がにじむ。

 四問目。確率。これは得意な分野。だが、時間が足りない。分かっていても、書く手が追いつかない。焦燥の中で、雑な図を書いた。途中計算で詰まって、結局、最後まで書ききれなかった。

 終了の合図が鳴ったとき、僕はペンを置いた。

 あまりにも静かだった。その静けさに、少しだけ怖くなった。

 試験を終えた直後、教室の外の風が冷たくて、僕は自然と空を仰いだ。

 あの空は、ひとり旅のときと同じように、淡くて、どこまでも続いていた。

 自信? ない。全然ない。

 悔しさ? ある。確かにある。

 でも、それでも──

「ここで、自分は闘った」

 ただ、それだけは、嘘じゃない。

 英語の試験は、文章量の多さに気圧された。けれど、どこか静かな集中の中で、自分なりに読めた。自由英作文では、用意していた表現よりも、ふと出てきた素朴な言葉を使ってしまった。採点者に伝わっているかどうか、不安は残った。

 理科は、物理は誘導に救われた。けれど、化学では計算が合わず、途中で確信が揺れた。時間も足りなかった。けど、「もしかしたら、あのミス以外は繋がっているかもしれない」と、自分をなだめるように席を立った。

 国語では、小説の世界に引き込まれた。人物の心の揺れが、自分の不安と重なって胸が苦しくなった。評論は難解だったが、なんとか要点を拾おうと粘った。「正解」かどうかはわからない。でも、手は止まらなかった。

 改札を出ると、スマホに正くんからの通知が来ていた。

「君なら大丈夫」

 文字だけの言葉なのに、まるで目の前に本人がいるような気がして、しばらく立ち止まってしまった。声はない。でも、ちゃんと聞こえた。

 ホテルに戻る途中、僕はふと、今朝のお守りにまた指を触れた。

 この勝負の結末は、まだ誰にもわからない。

 でも──負けたくはなかった。

 京大の問題は、やっぱり美しかった。たとえ解ききれなかったとしても、その問いに向き合えた時間は、僕にとって、確かにかけがえのないものだった。

 春は、まだ遠かった。

 けれど、僕はその日、少しだけ春の匂いを感じた気がした。

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