第五話 『ガーデン』
「いやぁ〜、あのまま、ずっと彼に睨まれ続けてたら、俺っち、ちびってたかもしれないなぁ〜」
「……」
僕たちは、教会の入り口にある古びた柵を“見えない境界線”と見立て、彼との間に厳重な距離を保ち続けていた。まるで、その線一本が、世界の常識を隔てるかのように。
「……悪いけど、あなたの無駄話に付き合うつもりはないわよ。もし、その柵の境を越えた場合、あそこに居るアースが飛んでくるから。」
ハヴァは腕を組み、微動だにしない。その瞳には警戒の色が深く宿り、こちらに屈する気は一切ないと態度で示していた。彼女の言葉は冷ややかで、一歩たりとも譲る気はないと告げている。
「くひゃはははは、そりゃあ……恐ろしいなぁ〜。アースって子は、君たちの用心棒か何かかな?」
彼は怖がる様子を一切見せず、両手をひらひらと軽やかに動かしている。その仕草は、まるで僕たちをあざ笑うかのような態度を示しており、こちらの緊張をさらに高めた。彼の奇妙な言動一つ一つが、僕たちの神経を逆撫でする。
僕は気を引き締め、重い口を開いた。
「ふぅ……さっそくだけど、話をしよう。でも、その前に君は“誰なのか”、そして――いったい君が“何処”からやってきたのか、まず教えて欲しい」
――実際、この《箱庭》で、ルイフ様や僕たち七人以外の“誰かが存在する”なんて、考えたこともなかった。僕らの世界は、僕たちだけで完結しているはずだったのだ。
それに……彼が最初に言っていた、あの台詞が、ずっと胸に引っかかっていた。
《 まぁまぁ、落ち着きなよ。俺っちは怪しい者でも、君たちの“敵”でもないからさ? 》
少なくとも、彼には“敵”がいることになる。
この閉ざされた世界に、僕ら以外にも敵対する存在がいるのか…?
まだ推測に過ぎないけれど……もし仮にその“敵”がいて、場合によっては僕たちも“敵”と認識される可能性すらある。その想像が、僕の心を重くした。
「……君の名前、ハヴァ…って言うのかい?」
僕の問いには答えず、彼はハヴァに奇妙な視線を向けた。その瞬間――この場の空気が一変する。
まるで時間が止まったかのような、異様な静けさが訪れた。
「…ッ?!」
「…なっ?!」
――その瞬間。
「……あ……へぇ〜〜〜〜、なるほど。」
突如、彼が顔をグッと僕たちに近づけてきた。距離は変わっていないはずなのに、彼の首だけが、まるでゴムのように不自然に伸びきったように“見えた”のだ。僕の目が変になったのか、それとも彼の異様さがそう見せているのか――まるで空間そのものが歪んだかのようだった。
その伸びた首の先端は、ハヴァの顔すれすれでぴたりと止まる。その距離は、息がかかるほどだ。
「……な、なにやってるんだ!!」
僕は叫び、慌てて彼とハヴァを引き離そうとした。だが、それはできなかった。
なぜならそれは――彼の瞳を、覗いてしまったから。
(あ、……あれはダメだ……い、いけない)
彼の瞳は、真っ黒だった。光を一切反射しない、深い深い黒一色だ。
その奥では、“何か”が渦巻いているようで、ただ見ているだけなのに精神が削られていくような感覚に襲われた。それは、体の芯から冷え込み、背筋に悪寒が走る。
正直、彼から離れて今すぐにでも、逃げ出したい――そう思わせるほどに。
その――異様さは、さらに増していく。
彼の顔が、ただ“笑う”。それは喜びでも、戯けでもない。顔の筋肉を無理やり動かし、“笑顔の形に歪めている”だけだ。
口角はこれでもかというほど鋭く吊り上がり、三日月のように裂けている。それは人間の表情ではなく、まるで仮面を貼り付けたような、不気味な形相だった。
「ッ……あなた!!」
――彼は、僕たちとは、根本的なものが違う。同じ人間ではありえない。その事実が、僕の思考を麻痺させた。
「おぉ〜、ちょいちょい!! 俺っち、“境界線”は超えてないってばぁ〜」
ハヴァが声を上げた。その声には、微かな動揺が混じっていた。
彼女ですら、咄嗟に一歩引いている…彼の異常性を間近で見て、本能的に危機感を抱いたのだろう。
そんな中、両手を広げるようにして、彼はおどけた仕草を見せる。だが、その軽薄な態度すら、皮一枚だけを取り繕ったものに見えて仕方なかった。
彼の言葉も、動きも、僕らと同じものなのに――ただ、その本質だけが別の場所にあるような、そんな形容しがたい異質さがそこにはあった。
「あれぇりゃ〜、そんなびっくりさせちまったか、俺っち反省。」
彼はわざとらしい声でそう言ったが、その瞳の奥には何も映っていなかった。
「……あなた、何がしたいの?」
彼の挙動に動揺していたが、ハヴァはすぐに気持ちを立て直し、鋭い目線を彼に向ける。その瞳は、まるで剣のように鋭い。
だが、それは虚勢にすぎなかった。
ハヴァが放ったその声は冷静を装っていたが、身体の震えや、指先が白くなるほどの緊張が滲み出ていた。僕が知るハヴァとは、まるで別人のようだ。こんな姿を、僕は初めて見たのだった。
「いやぁ……君は色々“知っている”んだなぁ〜って…まぁ、ぶっちゃけ俺っちは君達の事情なんか、これっぽっちも興味ないけどねぇ〜」
その言葉に、ハヴァの目が細められる。彼女の表情は、一瞬にして硬直した。
「……」
「ハヴァ……」
もはや、ハヴァが何か知っているのは、ルイフ様の遺体が消えた教会でのあの微笑みから感じていた。彼女だけが、僕らの知らない真実を抱えている。
「わたしには、あなたが何を言ってるのか、分からないけど……いいわ。単刀直入に聞くわ」
「おや……?」
ハヴァが鋭く言葉を突きつけ、一呼吸置いて――誰もが息を呑むような、衝撃の一言を放った。
「…ルイフ様を殺したのは、“貴方”のようね」
その声は、震えていながらも、確かな決意が宿っていた。ハヴァの瞳は真っ直ぐに、その異形の男を射抜いていた。
そしてようやく、彼の表情がまた違うものへと変わっていく。三日月に裂けていた口元はわずかに引き結ばれる。
バーンは少し落ち着いた様子ではあったが、その顔は、まるで“やってくれたな”とでも言うように、ハヴァを冷たく睨みつけた。
「えっ……?! いや…ちょっと、待ってくれ!」
僕は、ハヴァの突然の発言に頭が追いついていなかった。思考が完全に停止する。
(どういうことだ…?! コイツがルイフ様を? でも、それだと……もしかして、ハヴァが言っていた“嘘”…って)
僕は、動揺を隠すことができず、ハヴァに視線を向けた。彼女の背後に、僕らの知らない深い闇が横たわっているような気がした。
「ごめんなさい、アイム。……今は、まだ何も話せない。 でも――はっきりしていることは、“彼”がルイフ様を殺した。それだけは事実! そう断言できるわ!」
――――
一方その頃。少し離れた場所で――
ユウ、ヒューズ、マインは、教会の扉の前で固唾を飲んで集まっていた。
アースに限っては、少し離れた位置で、アイムたちに何かあればすぐに駆けつけられるよう、全身に気を張り詰めて待ち構えていた。彼の鋭い眼光は、決して柵から目を離さない。
「アイツら大丈夫なのかよ。俺も見に行こうかな……」
ユウが、ぼそっと口を開く。その声には、不安と苛立ちが混じっていた。
「やめろ。テメェが行っても意味ねえし、何の役にも立たねぇ……まぁ実際、あの道化ヤローが何かしようもんなら――我らが最強、アース様がすっ飛んで行くんだから楽勝だ。」
扉に背を預けていたヒューズは、普段の軽口を叩きながらも、どこか必死にユウを止めていた。その言葉には、ユウを行かせたくないという本音が滲んでいる。
「それに、“最強”さんもここなら聞こえねぇだろうし、ちょうどいい機会だ。……マイン!!」
「…え?……な、なッによ?!」
突然、ヒューズから名を呼ばれて、驚きと怖さのせいなのか……マインの身体は大きくビクッと震え上がった。彼女の顔色は、一瞬で青ざめる。
ヒューズは、そのままマインに有無を言わさず問い詰めた。その瞳は、鋭く、そして真剣だった。
「…いい加減、隠し事は無しにしようぜ」
「は、はぁ?……き、急に叫んだと……お、思ったら、いったい何のことよ…」
マインは必死に白を切ろうとするが、視線は泳いでいる。
目の皺が強まり、ヒューズはマインを睨みつけたまま、問いを続けた。彼の声は、低く、しかし感情のこもった響きを帯びていた。
「まだ、ことの重大さが分かって無いようだな、マイン! テメェが、教会で何を見たのかを教えろ……」
「ッ?!………」
詰め寄られたマインは、明らかに動揺する。身体が硬直し、言葉が出ない。
「はぁ? な、なんだよ今さら。……確か、あのときって……あれ……そういえば、なんだったけ?」
一瞬、ユウが否定しようとしたが、何も言えなかった。マインの言葉に、彼自身も疑問を抱いているようだった。
実際――あのとき、マインの悲鳴がなければ、教会の扉は開かれることもなかっただろう。そして、ルイフ様の遺体を目にすることも……。
ヒューズの鋭い眼差しに、マインは沈黙する。いつもの横柄な態度は影を潜め、彼女の身体はわずかに震えていた。その顔には、恐怖と、何かを隠し続けることの重圧がはっきりと見て取れた。
「フンッ、テメェは相変わらず、アースが側にいねぇと……ビクビク怯えやがって…まぁいい。……なら、俺が代わりに答えてやる。」
「お、おい、ロバ! ちょっとは優しさってもんがないのかよ!」
あまりにきつい物言いに、ユウがマインを庇うが、その声はヒューズには届かない。ヒューズはマインから視線を外し、まっすぐユウを見据えた。
そして、ヒューズの口から放たれた言葉に、ユウは目を見開いた――
「お前が、小窓から中を覗いたとき……そこにいたのは……もしかして、《ハヴァ》だったんじゃねぇのか?」
「は? お前……何言ってんだよ?!」
ユウが信じられないといった表情で叫ぶ。
ヒューズの問いに、マインは何も答えられない。しかし、その顔はみるみるうちに青ざめていった。
だが、そのときのヒューズの表情はいつものしかめ面ではなく、真剣な眼差しでマインを見つめていた。そこには、微かに優しさが滲んでいる。彼の言葉は、マインを責めているのではなく、真実を明かすことで彼女を助けようとしているように見えた。
その瞳を見たマインは、ふと俯き、自分が腰掛けていた教会の石段を見つめた。彼女の脳裏には、あの時の光景が鮮明に蘇っているのだろう。
そして、決意を固めたように、ゆっくりと立ち上がる。その震えは、恐怖から、別のものへと変わろうとしていた。
「……ひ、ヒューズ。ま、前から言おうと思ってたけど……い、いつも声が……大きいのよ! びっくりするんだから!」
「……フンッ」
二人のやり取りに、ユウは呆気にとられたように見ていた。
さっきのヒューズの発言も衝撃的だったが、それ以上に、珍しいものを見たかのようにニヤニヤしている。
「……チッ! テメェはなんでニヤニヤしてんだ?!」
「うんにゃ〜、べっつに〜……」
いつものような掛け合いが交わされるなか、マインが決意したように口を開いた。彼女の表情は、覚悟を決めた者特有の、清々しいものに変わっていた。
「……ヒューズ、ユウ……ちゃんと話すわ。…し、信じられないかもしれないけど……」
その声は少しずつ小さくなっていく。だが、二人の顔を見れば――その視線は、真剣そのものだった。彼らは、マインの言葉を真摯に受け止めようとしていた。
「マイン、大丈夫だって! 俺たちは《箱庭》で一緒に暮らす仲間であり、《家族》なんだからさ!」
「……フンッ。マインや他はともかく、お前みたいな猿を家族とか。……ハハ、どんな罰ゲームだよ?」
「はぁ?! なんだと、このロバ…ぶっ飛ばすぞ!!」
マインは、二人のやり取りを見て、ふっと笑みがこぼれた。顔を合わせれば怒鳴りあって、喧嘩ばかりして怖かったけれど――案外、この二人って仲がいいのかもしれない。彼らの表面的な衝突の下に、確かな絆があるのを感じた。
「あはは……ありがとう。ヒューズ、ユウ」
「……フンッ」
「あぁ、気にすんな!!」
これまで互いに深く干渉しなかった関係性のなかに、少しずつ、しかし確実に絆が芽生えていく。彼らは、ルイフ様の死という共通の悲しみを乗り越えようとしていた。
今日一日で、ルイフ様の死、ユアの失踪、そしてこの謎の人物の登場……不安なことばかりだけど、それでも皆で協力すれば――
一人じゃ弱くても、きっとみんなとなら。
マインは、空を見上げる。
いつのまにか陽は傾き、空の端がうっすらとだが、美しい茜色に染まりかけていた。一日の終わりが、刻一刻と迫っている。
(私も、強くならなくちゃ……そしたら、“アース”だって、きっと私のことを分かってくれるはず…。)
そう思いながら、マインはそっと視線を向ける。
そこにいたのは――警戒を怠らず、皆を守ろうと孤立して立っている《アース》の姿だった。
彼の背中は、いつもよりも大きく見えたが、そのとき――
「アース…ッ?!」
マインが叫んだ。その声は、驚きと、そして確信に満ちていた。
さっきまでハヴァとアイムから「何かあればすぐに飛んできて」と頼まれていた。
――そして、ついに“その時”が来た。アースの体が、微かに震える。
視点がアイムたちに切り替わる。
だが、そこに僕らの目の前にあったのは、あまりに“あり得ない光景”だった。
「……ッ?! あなた、なにしてるの?!」
ハヴァが、彼にルイフ様の事を問い詰めると、彼は――先ほどまでの道化めいた表情から、まるで別人のように無表情で静かにただただ不気味な空気を纏っていた。
今、彼の顔には、一切の感情が読み取れない。その沈黙が、かえって異常さを際立たせる。
――そして、その狂気は、突然に爆発する。
突然、彼は、自らの右手で片目を抉り取ったのだ。
「ゴリッ」という嫌な音が、静まり返った空間に響き渡る。その動作には一切の迷いがなく、まるで日常的な行為であるかのように淡々と行われた。
「…くひひっ、アヒャヒャッヒャァ!! まさか、くひ……もうすでに、《“ガーデン”》が来ていたなんて思わなかったよ。そうか……なら…」
足元に滴る血の音が「ボタボタ」と響く。
目のない穴からは、黒い液体がとめどなく流れ落ちていた。その異常すぎる行動に、僕は恐怖で身体が凍りつき、まったく動けなかった…。胃の腑が締め付けられ、吐き気を催す。
まるで心臓を掴まれたかのように、ただ立ち尽くす。彼の言葉の「ガーデン」という響きが、耳の奥で不吉にこだました。
でも――僕は、震える拳に力を込めて、必死に彼に問い詰める。
「……き、君は、僕らに対してこう言った。《君たちの“敵”ではない”》って……なら、君がいう“敵”は存在するって事なんじゃないかい?」
「………」
「……アイム、やめて! あまり彼を刺激しない方がいいわ、何をしでかすか……!」
ハヴァが、僕を止めようとする。
その彼女の顔には、絶望にも似た焦りの色が浮かんでいた。
だが、もう遅かった。彼の歪んだ唇が、ゆっくりと弧を描く。
「……くひ、あぁ…“敵”ねぇ。…オマエらだ!」
「……えっ」
「アイムッ…!!」
ハヴァの叫びが、僕らの《箱庭》に――恐ろしく、そして悲しい響き渡った。
その声は、絶望の始まりを告げるように、永遠にこだまするかのようだった。