第四話 『証明』
「ィ…ムッ……アイムッ!」
「…ッ?」
深い闇の底から、誰かの声が僕を呼ぶ。意識が朦朧としていた。
「よかった……ずっと目を覚まさないから、このまま目覚めないんじゃないかって、心配したわ」
「ハヴァ……?」
一体、僕はどうなったんだ?
あの時、突然視界が奪われるような、灼熱の光に襲われて――それから、意識が途絶えたはずだ。
起き上がろうとした途端、視界がはっきりと戻っていくのと同時に、頭を叩き潰されるような激しい痛みが襲ってきた。
「痛っ……。ぼ、僕はいったい……」
「少しの間、気を失ってたみたいよ。私もさっき、ヒューズに起こされたばかりだから」
そう話すハヴァの顔色は、蝋のように青白く、彼女自身もひどく消耗しているようだった。
彼女の背後、壁にもたれかかっているヒューズも、普段の荒々しさは鳴りを潜め、どこか気だるげな様子で目を閉じている。
「フンッ……どうやら、てめぇも無事だったみてぇだな」
「ヒューズ、君も……」
「まぁ待てよ。気になることも、言いたいこともあるだろうが――まずは、この状況について話し合わなきゃならねぇようだぜ」
ヒューズは黙ったまま、顎で足元をしゃくった。その仕草に、彼の焦りが滲んでいた。
その視線の先に気づいて、僕もつられるように目を向ける。
「……ッ?!」
――そこに、あるはずのものが、なかった。
それは、ルイフ様の遺体だった。
あれほど生々しく、僕らの目の前で冷たくなって横たわっていたはずの存在が、まるで初めから何もなかったかのように、跡形もなく消えていたのだ。床には血の跡も、争った形跡すら見当たらない。
「な、なんで……」
「えぇ、ほんと……何でなのかしらね」
僕の呟きに、ハヴァも同じように答える。その声は、驚きよりも奇妙な納得が混じっているように聞こえた。
けれど――その唇が、ほんの少しだけ、薄く弧を描いて微笑んでいるように見えた。
こんな表情、彼女で見たことがなかった。冷たく、そして何かを悟ったような、ぞっとするような不気味さがあった。まるで、触れてはいけない深淵に近づいたような感覚に陥る。
頭の痛みに耐えながら、僕はゆっくりと体を起こし…そして、恐る恐るハヴァの肩に手を伸ばそうとした――その時。
教会を揺るがすような勢いで、扉が勢いよく開かれた。
「おいッ! お前ら、大丈夫か!?」
声を荒げて、ユウが飛び込んでくる。その顔には、安堵と焦りが入り混じっていた。
「……チッ」
その姿を見た瞬間、ヒューズは露骨に顔をしかめ、舌打ちした。
「ふぅ……こっちは大丈夫。三人とも無事よ」
ハヴァが大きく息を吐きながら答える。
「本当か?! なら良かった……いや、違うんだ! さっき、ユアが――」
「……」「えっ?!」「ッ?!」
ユウの言葉に、僕とヒューズは同時に顔を上げた。
「ユウッ!! ユアはどこ!? ……痛っ……!」
慌てて立ち上がろうとした僕だったが、再び鋭い頭痛に襲われて、膝から崩れ落ちる。目の前がチカチカと点滅する。
「アイム、無理しないで。少し横になってたほうがいいわ」
すぐにハヴァが駆け寄って、心配そうに僕の体を支える。その声には、先ほどの不気味な微笑みは消え失せていた。
「おいおい、本当に大丈夫なのかよ……?」
ユウがさらに心配そうに声をかける。
「コイツは平気だ。ただ、さっきの強い光にやられただけだ。――それより、ユアがどうしたって?」
ヒューズは、ユウの質問に焦りの色を滲ませた。
「あぁ、お前たちが教会に入った少し後に、ユアが現れて……それから――」
「それから……?」
「急に、教会がいきなり光り出したから、それに気を取られてるうちに――また、ユアがいなくなったんだ」
「……なるほどな」
その話を聞き終えると、ヒューズは何かに納得したように小さく頷き、ゆっくりと教会の奥へ歩を進めた。まるで、何かを確かめるかのように。
「それと、アイム……」
ユウが何かを言おうと、教会の中へ足を踏み入れようとした――その時。
「ユウッ、だめッ!!」
「えっ?!」
ハヴァが突然、魂を削るような叫び声を上げ、ユウの動きを制した。その声には、かつてないほどの切迫感がこもっていた。
しかし――何も起きなかった。教会の内部は、ただ静寂に包まれている。
「……おい? な、なんだよ」
「……」
ユウも僕もヒューズも、困惑してハヴァに目を向ける。
だが彼女は何も言わず、額から汗を流し、青白い顔でうつむいているだけだった。その肩は小刻みに震えている。
「……ハヴァ。テメェ、何を隠してやがる?」
ヒューズが静かに、しかし有無を言わせぬ声で問いかける。その眼差しは、鋭くハヴァを捉えていた。
けれど、彼女はただ俯いたまま、固く口を閉ざし、沈黙を続けていた。
「チッ……」
「……ヒューズ、今はそれどころじゃない。ユウ、ユアはどこ? さっき、何か言いかけていたけど?」
僕が再度、ユウに問いかける。ユアの行方の方が、今は重要だと感じた。
「あ、ああ! ユアが消えたんだ! 教会の光に気を取られてる隙に、また突然……!」
「……ッ?!」「はぁ?」
それから僕たちは、ユウから外で何があったのかを詳しく聞いた。
ユアが現れて、別行動を取ると唐突に宣言したこと――そして、教会の光に紛れて、再び姿を消したこと。まるで、彼女自身が光の一部になったかのように。
一度、僕たちは教会の外に出て、混乱した状況を整理するために皆を集めた。アースとマインは、教会が光に包まれた様子を呆然と語る。
「なんだよ……それ」
ルイフ様の遺体が消えたと聞いたとき、ユウの口から自然とこぼれた言葉。その声には、理解不能な事態に対する諦めと、途方もない喪失感が入り混じっていた。
それはユウだけでなく、他のみんなも同じだった。ルイフ様の死という現実、ユアの謎めいた行動、そして教会の異変――あまりにも多くの、信じがたい出来事が一度に僕たちに降りかかっていた。僕らの《箱庭》は、急速にその姿を変えつつあった。
「それで……アイムが気を失っていた時、何を見たの?」
ずっと沈黙を保っていたハヴァが、ふいに口を開いた。その声は、まるで僕の記憶の深層を探るかのようだった。
「……うん。実は……あ、あれ?」
「……?」
僕は確かに、“何か”を見たはずだった。頭痛に耐えながら、必死に記憶を辿る。
けれど、それが何なのか、思い出せない。誰かと会った――そんな漠然とした感覚だけは残っているのに、その人物の姿も、どこで会ったのかも、まるで濃い霧の中に隠されてしまったようだ。
まるで、そこだけ記憶がぽっかりと抜け落ちてしまったようだった。深い穴が開いたように、その部分だけが空っぽなのだ。
「それは――“思い出さないほうがいい”よ!」
「……え?」
「……ッ!?」
「……アァ?」
「……だ、誰?」
「……」
突如、聞き覚えのない声が、僕たちの背後から響いた。その声は、どこかからかうような、しかし底知れない不気味さを秘めていた。
驚いた僕たちは、アイム、ユウ、ヒューズ、マイン、ハヴァの順に、次々と声を上げた。誰もが予期せぬ声に凍り付く。その声に引き寄せられるように、皆が一斉にそちらを振り向いた。
――そこに立っていたのは、見たこともない人物だった。
その姿は、あまりにも異様な姿。
先の尖った、黒ずんだ帽子を深く被り、全身は古びた茶色の衣服に身を包んでいる。上衣の裾はギザギザに不規則に裂けていて、まるで道化のようにも、不気味な異形の者のようにも見える。顔の半分は影に覆われ、表情は読み取れない。
この時、僕たちは初めて、この《箱庭》で“見知らぬ誰か”と出会ったのだった。
「……貴様……ッ、何者だ?」
アースが一歩前に出て、鋭く睨みつけながら問いかけた。その表情は、今まで見たことがないほど険しく、強い警戒心に満ちていた。彼の全身からは、戦闘態勢に入ったような緊迫したオーラが発せられている。
「まぁまぁ、落ち着きなよ。俺っちは怪しい者でも、君たちの“敵”でもないからさ?」
明らかに、彼のセリフと、その道化めいた格好、そしてまとっている不気味な雰囲気とが、全く噛み合っていない。彼は教会の入り口に集まっていた僕らに歩み寄ろうとしたが、それをアースが鋭い眼光で牽制した。
「ダメだ。お前が誰であろうと、一歩でもその柵を越えてみろ? オレが貴様を排除する!!」
「うぇええ??……怖っ! なんなのその人?!
目が据わっちゃってるんだけどぉ〜」
マインが、アースのただならぬ気迫にたじろぐ。アースの決意は固く、僕には武術の何たるかは分からないけれど、アースはその“型”と思しき構えを完璧にとっていた。彼の筋肉が、いつでも飛びかかれるように緊張しているのが分かる。
もし彼が柵を越えたなら、間違いなく一目散に撃退にかかるだろう。
――空気が張り詰める。
誰も動けず、ただ互いを睨み合ったまま、静寂だけが響き渡る。時間は、まるで止まってしまったかのようだった。
しかし――その均衡を破ったのは、ハヴァだった。
「待って、アース! 私は、彼に話を聞いてみたいわ!」
「なッ?!……ハヴァ?」
アースが驚きに目を見開く。ハヴァはアースに歩み寄り、その構えた腕を下げてほしいと頼むように、優しく手を当てた。
「おっ! よかった〜。お嬢ちゃんは俺っちの話を聞いてくれるかい?」
謎の男は、にやけ面で答える。
「…でも、アースの言った通りにはしてちょうだい。
その柵を越えて、こちら側へは入らないこと。――それを破れば、その時はアースにお願いするわ」
ハヴァの表情は、どこまでも冷静だった。しかし、その言葉の裏には、揺るぎない覚悟と、相手への明確な警告が込められていた。
「…ッ?……フゥ〜、まぁそれでも、俺っちは構わないぜ!」
そう答えた彼は、腕を組んで仁王立ちのまま、僕たちの前に立っていた。まるで、彼自身が何かの境界線であるかのように。
「おいおい!? あんな怪しいやつの話なんか、聞いて大丈夫なのかよ?」
ユウが心配そうにハヴァに声をかけたが、当の本人は何も答えず、ユウを置き去りにして彼の方へと迷いなく進んでいった。その足取りには、確固たる意志が見えた。
僕は少し考えたが、すぐにハヴァの元へ歩み寄る。頭の痛みはまだ残っていたが、彼が持つ情報への好奇心と、ハヴァの意図への興味が勝った。
(どうやら、彼は僕たちよりもいろんな情報を持っている、それに……)
「ハヴァ、僕も行くよ……」
僕がそう口にすると、彼女は小さく頷いた。その瞳は、深遠な光を宿している。
そして、二人で進み出そうとしたとき――
「アイム。一つだけ守って欲しいことがあるわ」
彼の方へ向かうその途中、ハヴァが僕にだけ聞こえるような、小さな声で呟いた。その声は、まるで秘密を打ち明けるかのようだった。
「…ん? どうしたんだい?」
僕が彼女の言葉に耳を傾けると――彼女は、僕の目をまっすぐ見つめ、答えた。
「これから、彼と話し合うけど……例え、私が嘘をついたとしても、それに合わせてちょうだい」
「…え?」
僕には、ハヴァが何を言っているのか分からなかった。驚きと混乱が頭の中を駆け巡る。
なぜなら、この《箱庭》では“嘘をついてはいけない”という、絶対的な決まりがあるからだ。
僕らがルイフ様から、最も厳しく教えられてきたことの一つ。
動揺した僕がハヴァを見ると、それは冗談ではなさそうだった。彼女の目が、確かにそう訴えかけていた。その瞳の奥には、僕の知らない覚悟が宿っている。
――ハヴァは、何か“証明”しようとしているのかもしれない。
この《箱庭》での、本当の“決まり事”を。