第二話 『死の爪痕』
何が起きたのか。どうしてルイフ様が、あの温かい笑顔を失い、冷たい床に倒れているのか。
僕は、その場で言葉を失い、呼吸すら忘れていた。
「アイム、帰ってきたのね…」
凍り付くような沈黙を破ったのは、ハヴァのいつもと変わらぬ声だった。
「これは……いったい、何があったんだい!? ルイフ様は……!」
動揺で震える僕に、ハヴァは感情の読めない瞳でまっすぐ僕を見つめる。
「見ての通りよ。あの様子じゃ……もう、ルイフ様は生きていないでしょうね」
「おい、ハヴァ、てめぇ……!! まだ、そんなのわかんねぇだろうが!」
その辛辣な言葉に、普段は飄々としているヒューズまでもが、激しく反応した。怒りに任せて、彼は勢いよくハヴァの胸ぐらを掴み上げる。彼の指が、ハヴァの服の生地を深く食い込ませるのが見えた。
当然だった。ルイフ様は、僕たち孤児にとって親であり、光であり、この荒れた世界で唯一の安らぎだった。彼の死を、そう簡単に受け入れられるはずがなかった。
僕たちから、明日を生きる意味を奪い去られたような、そんな喪失感が胸を締め付けた。
「ヒューズ、やめるんだ!」
「うるせぇっ!! あのルイフ様が、こんなあっさり死ぬなんて……俺は、信じられるかよ!!」
驚いた。ハヴァの胸ぐらを掴んだヒューズの手は小刻みに震えていて、彼の目には、こらえきれなかったであろう大粒の涙が、いくつも溢れていた。だが、それは彼だけじゃなかった。
周囲を見れば、ユウも、マインも……皆、それぞれの表情で、涙を浮かべていた。教会全体が、重苦しい悲しみの空気に包まれていた。
「ごめん、ヒューズ……僕は、戻ってきたばかりで、何も状況が分かっていない。…気持ちは痛いほどわかる、でもせめて、何があったのか、君の口から話を聞かせてほしい」
僕は震える彼の腕にそっと手を添え、懇願するように伝えた。すると――いつもならぶっきらぼうな一言でも返してくる彼が、今回は無言のままハヴァの胸ぐらをすっと離してくれた。
「何があったのかは、そいつ(ハヴァ)から聞けよ……」
そう答えたヒューズは、そのまま静かに背を向けて教会の入り口にある古びた柵の方へと、ゆっくりと歩き去っていく。その背中は、普段の彼の豪胆さとはかけ離れていて、ひどく小さく見えた。
「……彼、泣いていたわね…初めて見たわ」
「僕もだよ、もしかしたら……。いや、まずは……ハヴァ、いったいあれから何があったんだい?」
「そうね……でも、貴方は大丈夫なの? 」
「……正直言えば、まだ混乱してるよ。ルイフ様のあんな姿…でも…だからこそ、しっかり知っておきたいんだ! 何があったのかを」
僕はまっすぐにハヴァの目を見つめ、決意を込めて思いを伝えた。ルイフ様の死を直視することから逃げてはいけない。それが、彼への最後の敬意だと感じた。
「……本当に、相変わらずね。こんな時でも真面目で……分かったわ、ちゃんと話すわね」
「ありがとう、ハヴァ。……君だって、本当はつらいはずなのに」
僕がそう答えると、彼女は小さく視線を伏せるだけで、それ以上の返事はなかった。
しかし、その短い沈黙の中に、彼女自身の悲しみと、それを受け止めようとする強い意志が滲んでいるように感じられた。
それから、僕たちは教会の裏手に回り込んだ。ひっそりとしたその場所には、積み重ねられた藁の俵があり、ハヴァはその上にそっと腰を下ろす。ひんやりとした風が、僕たちの頬を撫でていった。
「ほら、あなたも座って。立ったままじゃ、こっちも話しづらいわ」
「ああ…」
僕も、ハヴァの隣にある俵にそっと腰を下ろした。藁の感触が、かろうじて現実との繋がりを感じさせてくれる。
「…じゃあ、話すわね。――あなたがユアを迎えに行った後のことよ。つまり、ほんの数刻前の出来事…」
「うん。……頼むよ」
――数刻前。
「ったく、アイムのやつ、すごい勢いで走ってったな。神託が遅れたくらいで、あんなに焦ることないだろ」
「……でもさ、ほんとはお前もルイフ様が心配なんだろ?」
「はっ、心配だぁ? 冗談言うなよ、ルイフ様に限って何かあるわけねぇだろ――ってか、俺はともかく、お前らには百年早ぇよ」
そんな他愛もないやり取りをしながら、わたしたちは教会の古びた扉の前に着いた。けれど――どこか、様子がおかしかった。教会の周りに漂う空気が、いつもとは違う。妙に静かで、いつも聞こえるはずのルイフ様の歌声も、話し声も、全く聞こえない。
「ルイフ様ー!!」
ヒューズが戸惑いながらも、扉を叩き、大声で呼びかける。だが、中からは何の反応もない。勝手に入るわけにもいかず、わたしたちは不安に戸惑いながら、ただ様子をうかがっていた。
「……なぁ、本当に大丈夫なのか?」
「弱気になってんじゃねぇよ。嫌なら帰れ! 俺はルイフ様に会うまでここを離れねぇよ」
「はあ? 誰が帰るかよ!」
「…ほんっと、あなたたちって子供ね。親の顔が見てみたいくらいだわ!」
マインが呆れたように言い放つ。彼女の口元には、呆れと微かな苛立ちが混じっていた。
「ねぇマイン、それって……ルイフ様のことだけど、いいの?」
「……ッ?! ち、違っ、そういう意味じゃ…」
ハヴァの冷たい指摘を受けて、言い終わる前に自分の失言に気づいたマインは、顔を青ざめさせ、額には脂汗が浮かんでいた。ルイフ様は、私たち皆にとっての親だったからだ。
「マイン、大丈夫だ。オレがいる」
どこかズレたアースのフォローは、相変わらずだったが、その言葉にわずかながら場の緊張が和らいだように感じられた。
それから、わたしたちは中の様子を覗けそうな所がないか、手分けして教会の周囲を見て回ることにした。
――――
「はあ……ルイフ様にさっきの発言、聞かれてたら……本気でまずかったかも」
ぶつぶつ言いながらマインは、教会の中が覗ける様な場所を探した。そして、教会の裏手、普段はあまり意識しない場所に、小さな、埃にまみれた小窓を見つけた。
「……あっ、小窓、あるじゃない!」
自分の背丈より少し高さのある窓を見つけ、マインは期待に胸を膨らませ、背伸びして顔を近づけた。
「うーん……暗くてよく見えないけど……ん?」
目を凝らすと、室内の奥にぼんやりと影が二つ。まるで、闇に溶け込むように見えにくかったが、確かに誰かが中で話しているようだった。外からだとその声は、ほとんど聞くことはできなかった。
だが……次の瞬間。
「えっ――!」
ふたつの影が突如、重なり合った。その直後、片方の影がまるで命の糸が切れたかのように、崩れ落ちるように倒れた。
そして――
「きゃああああああああああっ!!」
マインの悲鳴が、教会の静寂を切り裂き、周辺に響き渡った。その声は、恐怖と絶望に満ちていた。
「どうした!? 何があった!?」
悲鳴を聞きつけ、真っ先に駆けつけたのはユウだった。そのすぐ後ろには、普段の軽口を叩く余裕もなく、顔を真っ青にして走ってくるヒューズの姿があった。
二人が目にしたのは、腰を抜かして地面に座り込んでいるマインの姿、そして彼女は震える指で、あの小さな小窓の方を指し示していた。
恐怖で言葉にならないマインの表情は、まるで悪夢を見たかのようだった。
「な……なかで……ひ、人が……!」
二人は、マインの指が示す小窓に視線を向けたが、中は相変わらず真っ暗で、何も分からない。しかし、マインの尋常ではない様子が、ただならぬ事態が起こったことを雄弁に物語っていた。
「おい、マイン。中で何があったんだ!? 」
「チッ……クソッ!」
うまく話せないマインを見て、ヒューズは居ても立っても居られず、教会へと向かって駆け出した。その目には、焦燥と、かすかな怒りが宿っていた。
その少し後、アースとハヴァも駆けつける。アースの表情には、不安と戸惑いが浮かんでいた。
「マイン、大丈夫カ!?」
「はぁ、はぁ……今、すごい顔のヒューズとすれ違ったけど…」
アースがマインに駆け寄ったが、ユウがアースに向かって叫んだ。
「アースッ! ヒューズを止めろ! アイツ、無理やり中に入る気だぞ!!」
「……?!」 「なっ……?!」
「その後はユウにマインを任せて、私とアースは急いで教会の正面に回ったわ。でも――もう扉は開いていて、それからのことは…あなたも見ての通りよ」
「……そうだったんだね」
ハヴァの話を聞き終えた僕は、俯いてそう呟くしかなかった。胸に去来するのは、ルイフ様への悲しみと、そして、マインが目撃した「二つの影」への拭い切れない疑問だった。
マインはいったい何を見たのか…そして何があったのか。おそらくルイフ様の死に直接関係する″何か″だ。とても気になるけど、それは後回しだ。
――今は、みんなのもとに戻って“決まりごと″を守らないと。それが、ルイフ様が生きていれば、きっと僕たちに望んだことだろうから。
「ありがとう、ハヴァ。……戻ろう」
「ええ、そうね。このままじゃ、“決まりごと”まで破っちゃいそうだものね、それと……気になってたんだけど、ユアは農園の丘にいなかったの?」
「…辺りを探したけど見つからなかったんだ。もしかしたら、こっちに戻ってきてるかと思って……」
「そう……でも、あの子なら平気よ。さ、行きましょう」
「うん、そうだね…」
僕たちは立ち上がり、みんなの元へと戻った。教会の前に集まった仲間たちは、皆、沈痛な面持ちで立っていた。すでに全員が揃っていて、今何をすべきか、それぞれが理解しているようだった。僕らの間で、無言の合意が交わされたかのように。
「アイム……俺たち……」
「ユウ、ハヴァから話は聞いたよ…でもまずは“決まりごと”を守らないとね。みんな、果実は持ってきてる?」
「お、俺はちゃんと持ってるぞ!」
僕と一緒に農園の丘にいたんだから、ユウは持ってて当たり前なのだが、その声はどこか強張っていた。
僕はユウの発言は流して…視線を他に向ける。
どうやらヒューズも果実を採ってきたばかりらしく、その手にはしっかりと果実が握られていた。でも彼の顔はルイフ様の事がよっぽどショックだったのだろう、未だに浮かない表情だった。
僕は二人が果実を持っている事に安堵して、次にアースとマインに視線を向けるが──
「マインとオレは……持ってない。家に置いてきたままなんだ……」
マインは俯いたままで、何も答えず…その隣にいたアースが、申し訳なさそうに代わりに答えた。その言葉に、再び重い空気が流れる。
「うーん…」
どうしよう…と悩んでいると、ハヴァがすっと前に出た。彼女の瞳には、一切の迷いがなかった。
「じゃあ、アイムとユウが一個ずつ、持ってきてない人に渡せばいいわね?」
「えっ?それだと俺たちの分が減るんじゃ……」
「簡単なことよ。食べたあとに取りに帰って、返してもらえば済む話しだから」
「な、なるほど! …あ、ああ、もちろん分かってたけどな!」
……きまずい。ユウの言葉に、僕の親友に対して、黙ったままで皆の視線が突き刺さった。僕も思わず、視線を逸らしてしまった。
「ってことで、アイム」
すると、ハヴァが突然、掌を上にして手を差し出してきた。その行動に、僕がよくわからないでいると……。
「何してるの? 私も持ってきてないわ! ほら、時間がないんだから、早くくれないかしら?」
「………」
僕は無言でしぶしぶ、ハヴァにも果実を渡す。そして、ユウも同じようにアース、マインに果実を手渡した。
少し遅れたが、こうして僕たちは“決まりごと″である、果実をようやく口にすることができた。瑞々しい果汁が、乾いた喉を潤す。普段ならホッとする瞬間だが、今はただ、その行為が儀式のように感じられた。
「なあ……アイム」
「ん?」
それから僕たちは、果実をその場で食べ終えて、これからの事をどうするか考えていた。だが…突然ユウが、ぽつりと呟いた。彼の声は、不安と迷いに満ちていた。
「俺たち、どうなっちまうんだろうな…」
「正直、分からない…でも、これからはみんなで協力して生きていくしかない。ルイフ様がいない今、皆んなで支え合わないと……」
(そうだ、下を向いてばかりじゃダメだ。もう、ルイフ様の様に導いてくれる人はいないんだから……ん…導く?……)
「……あ」
「どうした、アイム?」
七日に一度の神託は――これまで、ルイフ様が欠かさず続けてきた。僕たちの未来を照らす、唯一の道標だった。
──だが、その神託を行う存在は、もうどこにもいないのだ。そして、誰もその方法を知らない。