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「それじゃあ、行ってくる」

「やっぱり葬祭場まで車で送るよ」

「そう?」と妻は言う、「仕事の邪魔にならない?」。

「ならない」、ぼくは頷いて、「そこらへんはうまくやるから、気にしなくていい」。

「だったらお願いしようかしら」

「オーケー、車のキーを取ってくる」

 我々はマンションの地下駐車場に停めてあった空色のフィアットに両サイドから乗り込むと、ドアを閉め、シートベルトを締め、エンジンをかけると、ぼくは手早くシートとバックミラーの位置を調節した。妻はダークブラウンのロングヘアを首のうしろで纏め、こざっぱりとしたセットアップの黒いスーツに身を包み、首もとには一連のパールのネックレスをつけている。そうして車の助手席で流れゆく景色を眺めながら、手のひらで口もとを隠し、小さな欠伸をした。それを見て、ぼくはハンドルを握りながら尋ねた。

「ゆうべ、あまり眠れなかったの?」

「ん、ちょっと、不規則な仕事だから、一度変な時間に目が覚めちゃって、ニキビとかできてたらやだなあ」、そう言って、妻はハンドバッグから手鏡を取り出して、肌の調子を入念にたしかめる。それから前髪を何度も丁寧に整えた。

「着いたら起こしてあげるから、すこし寝なよ」と、ぼくは前方に顔を預けたまま横目に言った。

「ありがとう」、彼女は手鏡をハンドバッグにしまって目を瞑る、「じゃあ、目だけ閉じとく」。

「うん、それがいいよ」

 助手席で妻は膝の上にハンドバッグを載せ、その上にきちんと両手を重ねて黙りこんだ。もう眠っているのかもしれない。カーラジオをつけるとバッハの〈無伴奏チェロ組曲〉が流れてきて、ぼくはチェロの響きを聴くともなく聴きながら、ほどよくリラックスして、目的地に向かって運転をつづけた。いまから妻が参列する予定の葬儀は市内で行われるので、それほど長い道のりではない。到着まで一時間もかからないだろう。日がウィンドウから差し込んで、青空には大きく膨らんだ城のような雲が前方に浮かび、建物や電灯などの風景は過ぎ去り、人々は行き交う。なんの変哲もない当たり前の光景が、幻想的に思える瞬間がある。そういったとき、この瞳は、この五感は、とても冴えわたっていて、ぼくはただ、完全にこの世界の一部として化している――、歓びに充ちた鳥の囀りや、儚くも風に吹かれる花のように。

「ねえ」

 妻の突然の呼びかけにぼくはびっくりした、「起きてたの?」。

「半分寝てた」、妻は眠そうに顔の半分を手で押さえていた。

「そう?」

「ところで私の目、赤くなってないかな?」

「あー」とぼくは間延びした声をだした、「昨日の晩、けっこう泣いていたもんねえ」。

「仕方ないでしょ? そりゃ泣くわよ。だってあまりにも突然の訃報(ふほう)だったもの、突然すぎて通夜にも行けなかったくらいなんだから。それに、とてもいい子で、あんなにも努力していたのに、こんなことになるなんて」、彼女はそこで言葉を切った、「ねえ、私の目、腫れたりしてない? 大丈夫かしら」。

「大丈夫」とぼくは答えた、「いつもどおり今日も綺麗だよ」。

気障(きざ)ねえ」、そう言いつつも、妻は笑った。


 でかい葬祭場だった。

 だだっ広い駐車場のまわりは人目をはばかるように椎の木に囲われ、その一角にフィアットを停めると妻は腕時計を見て言った。

「それじゃあ、行ってくる。長くなるだろうから、お昼ご飯は適当に食べちゃって。終わったら電話するけれど、無理せずに先に帰ってくれてもいいからね」

 ぼくは手をあげてそれに応じた。

 ほどなくして白いマイクロバスが入ってきて、そこから黒服を着た集団が順番に降りてくると、多少乱れた列となって、白い大きな建物の入口にぞろぞろと吸い込まれていく。ぼくはフィアットの運転席でハンドルに身をもたせかけながら、その光景をぼんやりと眺めていた。カーラジオはいつしかドビュッシーの〈夢〉を奏でている。なんとも儚げな、幻想的な調べだ。

 とくにやることもないので、お昼ごろ、車から降りて、自動販売機で温かい缶コーヒーを買った。決して美味いとは言い難いが、こんな市の端っこにあるような辺鄙な場所だ、カフェなんてものも見当たらないし(コンビニエンスストアくらいは探せばあるだろうが)、贅沢も言えまい。そうしてフィアットの傍らでルーフに肘をかけて、空を見上げた。青かった。

 いつしか葬祭場の建物の上部には煙のような雲が漂っていた。まるで火葬された魂が立ち昇っていくみたいに。


「驚天動地、天変地異、私、とんでもない事実に気づいちゃった」


 あの日、あのとき、彼女は一体なにが言いたかったのだろう? 多少強引にでも訊いておけばよかったな。そう思いながら缶コーヒーを飲み干し、自動販売機の横のダストボックスに空き缶を棄てると、ぼくの携帯電話の着信音が鳴った。




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