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 彼女がぼくのもとを去って、もう十年と二か月という歳月が流れた。彼女の抱える難病の症状がひどくなり、どこか山奥の療養所に移ったということだけは聞き及んでいるが、反対に、それ以上のことは医師も看護師も、彼女さえ、なにひとつ教えてはくれなかった。野良猫みたいにひっそり行方をくらませたのだ。それに対して、当時のぼくはもちろん困惑したし、動揺もした。なにをするにも彼女の顔が頭から離れず、無駄なこととはわかってはいても、堪え切れず、町中を捜し歩いてみたりもした。しばらくは仕事も(なげう)った。でも事態が好転する気配はなかった。以来ぼくは、自身の影のような喪失感を、足(かせ)みたいに重く引きずって生きている。

 ガールフレンドが転院して四年ほど経ったある日のこと、ぼくは以前彼女の看護を受け持っていた看護師さんと、都心にあるホテルのバーで偶然出くわしたことがある。看護師さんはシックなドレス姿で、ヒールの高いエナメルのパンプスを履いていた。ナース服の恰好しか知らなかったので、声をかけられたときは、最初は誰だかわからなかった。そしてお互いを認めると、ぼくらはカウンターの隅で語りあった。

「それにしても奇遇ですね」と、看護師さんはあご先に手を組んで言った、「こんなところでお会いするなんてね」。

「まったくです」とぼくはそれに同意した、「でもよく私だとわかりましたね? 約四年ぶりなのに」。

「当然です。じつはいつか教えてくださったラジオの『朗読』の番組がすっかり気に入ってしまい、いまでもヨガをするときなんかに欠かさずに聴いていますもの」

「ヨガ?」とぼくは聞き返した、「なるほど、どおりでスタイルがいいわけだ」。

 事実看護師さんは健康的にほっそりと痩せていた。それに溌溂として若々しい。四年前と見た目がまったく変わっていない、むしろ若返って見えるくらいだ。彼女は微笑し、その細い指でグラスをつかむと、 ゆっくりとウイスキーを口にして、それからグラスをコースターの上に丁寧に置いてから、首を微妙にかたむけて尋ねてきた。

「今日はお仕事で?」

「ええ、もう終わりましたが、ちょっとこのちかくで打ち合わせがあったので、新快速に乗ってやってきました」

「スーツ姿」、看護師さんは微笑したまま、「よく似合っていますよ。ダークブルーのネクタイも知性的で、まるで有能な政治家秘書さんみたい」。

「まさか」、ぼくはその言葉にびっくりした、「それとは程遠い職種ですよ。こういう服もめったに着ないんだけどな」。そう言って、ぼくも看護師さんの服装を褒めようと試みた。でも彼女のあまりにも隙のない着こなしに、内心ではただ驚嘆するばかりで、かえって閉口してしまった。人は完全なる見目を前にすると、まず息を呑んでしまい、しばらく言葉は出てこないものなのだ。譬えば美術館の名画――モネでもフェルメールでもいい――を眼前に鑑賞して、いったい誰が無粋な歓声を捧げよう? だいいちぼくは歯の浮くような台詞が好きではない。だから黙って自分のグラスをかたむけた。

 そんなぼくを看護師さんは頬杖をついてじっと見守っていた。

「ご結婚はされてらっしゃる?」

「いえ」、ぼくは首を振った、「ずっと独り身です。結婚とはほとほと縁遠いですね。もはや結婚というか、結婚という『概念』そのものから、自分は嫌われているのかもしれない」。

 看護師さんは口に手を当てて笑った、「私も同様です。結婚は『勢い』が大事だとか世間ではよく言われますが、自分の人生ですもの、それはもう慎重にもなります。ある程度のところまでは順調にことが運んでいても、いずれ糸がほつれるみたいに、些細(ささい)なことがきっかけで破綻(はたん)してしまい、結局はうまくいかない。理想が高いのかしらね?」。

 ぼくは驚いた、「理想もなにも、それほどまでに魅力をお持ちならば、引く手数多でしょうに」。

 看護師さんは眉をしかめてぼくの目を見つめた、「それ、本心で言ってる?」。

 ぼくもしっかりと視線を受け止めた、「むしろ本心しか言わない」。

 看護師さんは目を見開いたあと、相好を崩す、「ありがとう、お上手ですね」。

「いえ」

「でも孤独に年齢を重ねたからこそわかったこともあります」と看護師さんは遠い目をして言った、「時間は例外なくしっかりと取り分を持っていくということ。だとしたら神様はいじわるだと思いませんか?」。

「そのとおりですね」、ぼくは頷いた、「それに自分にとって大切なものに限って、もしかすると、なにひとつ守れないかもしれない。それでも我々は、雨の日も、風の日も、前へ前へと進みつづける必要がある。多少なりとも正しい方向へと向かっているという希望、たしかな感触が、ちっぽけな勇気をも奮い立たせてくれるんですよ」。

「素敵な考え方ですね」

「まあ、ほとんど古い小説や詩の受け売りですが」

「そうなんですね」、看護師さんは微笑して、「小説といえば、昔、よく病院にお見舞いにいらしていたとき、いつもなにかしらの本を読んでらっしゃいましたよね? いまでも熱心に読書をなさっているんですか?」。

「読書はしていますが」、ぼくは苦笑した、「あまり熱心とはいえない」。

「どうして?」

「そうだな、当時のガールフレンドが私の前から姿を消して以来、彼女のために大切に保管しておいた自分の心の中の神聖なスペースが朽ちてしまって、ラブロマンスがまったく受けつけなくなったからです。だからいまではハードボイルドな小説ばかりを読んでいます」

 看護師さんはただ唇を結んで黙っていた。口紅は薄く塗られていて、明らかに品よく自然だが、グロスによって艶がある。まるでキスを求めているかのような。やがて試すようにその唇が開いた。

「彼女さんに会いたいですか?」

 一瞬ぼくは看護師さんがなにを言っているのかまったく理解できなかった。彼女さんに会いたいですか?

 そして問われるまでもなく、ぼくの意志は昔からずっと固まっていた。ぼくは瞼を閉じ、大きく息を吸い込むと、今度はそれを深く長く吐き出した。それから目を見開いて断言した。

「会いたいです」

「いまでも彼女さんのことがお好き?」

「ええ」と、ぼくは答えて、「もしかして彼女の所在をご存じなのですか?」。

 そこで蝶ネクタイを結んだ顔色の悪いハンサムなバーテンダーがやってきて、我々の空になったグラスをさげた。看護師さんは彼にジョニーウォーカーをトワイスアップで注文し、ぼくはI.W.ハーパーをオン・ザ・ロックで注文した。それから看護師さんは「ちょっと失礼」と言って席を立ち、化粧室に消えた。独り残されたぼくは狼狽を覚えながら小鉢(こばち)に盛られたメープルナッツを(かじ)った。看護師さんの質問の真意がわからない。二つ隣の席では中年のカップルが高笑いをしながら煙草に火をつけて、それをさも美味そうに吸った。紫煙が宙を舞い、ゆっくりと空気清浄機のほうへと流れていく。窓ガラスには深い藍色が張りついていて、その向こう側からは厳然たる常闇(とこやみ)の気配がした。

 先ほどのバーテンダーが酒の入ったグラスをカウンターに置いていき、間もなく看護師さんが化粧室から戻ってきた。カツカツという小気味よい足音を立てながら、ゆっくりとした動作でカウンターチェアに座り、白魚のような指でごく自然に髪を耳にかけて、(ひか)えめに微笑した。露わになった耳たぶには花を()した小ぶりのイヤリングが微かに揺れる。素敵な眺めだった。もしぼくが四年前に行方をくらませたガールフレンドとの件を引きずっていなければ、そしてまた真から酒に酔っていたならば、いま隣で微笑みかけてくれる美しい女性を、洗練された仕草や着こなしでジョニーウォーカーをトワイスアップで飲む女性を、おそらく吸い込まれるように熱っぽく口説(くど)いていたに違いない。看護師さんはウイスキーをひとくち飲むと、そっとグラスを置き、辺りを眺めまわしてから、「一本だけ、煙草を吸ってもかまわないかしら?」とぼくに尋ねた。「もちろん、ここはバーです、なんの気兼ねもいらない」とぼくは快く答えた。看護師さんはバッグからアメリカンスピリットを取りだして、ボックスケースから一本抜きとると、口に咥えて店のマッチで一息に火をつけた。煙草の先端が赤く光り、煙が黙々と排気口に立ち昇っていく。

「さっきの質問ですが」、煙草の火を灰皿でそっと消すと看護師さんはそう言った。

「さっきの質問?」

「私が彼女さんの所在を知っているのかということです」

 ぼくは息を呑んで首肯した。そして話のつづきを待った。

「答えはイエスです」、看護師さんははっきりそう言った。それからすこし躊躇(ためら)うように、「ただこう言うのもなんですが、正直、彼女さんの現状はあまり知らないほうがいいかもしれない。あなたにとっては辛い事実かもしれない」。

「だとしても」、ぼくは押し寄せる感情を必死に抑えた、「知らないよりは知ったほうがいい」。これまでの人生で唯一心の底から愛した女性の近況をつかめるかもしれないのだから。

「彼女さんはいまシドニーにいます」と看護師さんは抑揚を抑えた声で言った。

「シドニー?」とぼくは聞き返した、「オーストラリアのシドニー?」。

「そうです」、看護師さんは神妙に頷いた、「結婚して子供もいます。元気な女の子です」。

 内心ぼくは愕然(がくぜん)とした。一瞬にして、光が遠ざかっていくような、底知れぬ闇に落とされるような、逃れようのない、やりきれぬ孤絶感を覚えた。それでもなんとか平静を装い、意識を正常に保つように、一心に努めた。事実を段階的に身の内に馴染ませるために。

「どうしてそれを?」

「彼女の看護をしているうちに親しくなって、いまでもときおりメールで連絡を取っているからです。絵葉書なんかもたまに送ってくれます」

「またどうしてシドニーに?」、声がかすれて、自分の声にはまるで聞こえなかった。

「彼女の旦那さんはオーストラリア人です。日本に転勤で訪れているときに知りあったそうで、旦那さんの熱烈なアプローチにより、交際を経て結婚をし、転勤を終えるとともに、彼についていったそうです。でも病気の治療は向こうでも受けているそうなので、そこらへんについては心配なさらないで」

 ぼくは言葉を失った。看護師さんは反応をうかがってから、そんなぼくの目をまっすぐに見つめて言った。

「彼女はあなたのことを心から愛していました。だからあなたの足手(まと)いになることがなによりも心苦しかったのです、つまり病気のことでもうあなたに迷惑をかけたくなかったわけです。気丈に振る舞ってはいるけれど、ええ、誰よりも繊細な人です。そしてあなたにはあなたの人生がある。あなたには自由でいてほしかったし、その重荷にだけはなりたくなかったようです。だからどうか、彼女の意志を尊重してあげてください」

 そのあとどうやってホテルの自室に帰ったのかは、どうしても思い出せない。ただ目が覚めると日は昇っていて、洗面所の鏡を見ると、昨日までとはまるで別人のような、刃物のように鋭い顔が映っていた。心なしか淀んだ目つきの奥は仄かに力強くなっている。ぼくは顔を洗うと、鏡を覗きこむようにして洗面台の縁に両手をついて、しばらく茫然自失として立ち尽くした。




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