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 やっと退院したと思ったら今度は風邪だ、自宅で寝込んでいるらしい、ガールフレンドの話である。インターホンを押すと、彼女は口もとにマスクをつけて、ベージュのフリース姿でドアを開き、すぐさま奥の部屋に引っ込んだ。どうやらリビングで籠城を決め込むつもりのようだ。

「インフル」と、磨りガラスのガラス戸越しに彼女はどなった、「うつすといけないから、あなたは隣のキッチンにいて」。

「辛そうだ」

「前みたいに入院するよりはマシよ」

「ちゃんとご飯は食べてる?」

「ちゃんとお菓子食べてる」

「それはよくないな」

 ぼくは調理台の上のコーラの空き缶なんかをゴミ袋にまとめて部屋の隅に置くと、ちゃんと洗った手でコンロ脇の片手鍋をシンクで洗い、そこに水と持参したレトルトの米を入れ、その米を菜箸でむらなくほぐす。蓋をして強火にかけ、ぽこぽこと沸騰したらすぐに弱火にして微妙に隙間を空けるようにして蓋を閉じる。そのまましっかり火加減を見ながら、ビル・エヴァンス・トリオの演奏する〈カム・レイン・オア・カム・シャイン〉をハミングした。

 完成したお(かゆ)は彼女の要望によりトレイに載せてガラス戸の前に置かれた。30センチメートルほどガラス戸が開き、リビングから両手がのびる。トレイはあちら側に消え、ガラス戸はさっと閉じられた。

 しばらくすると、「とろみがあって最高に美味しいわ、添え物の塩味もたまんない、味が引き締まる、感動的」と彼女はぼくに感想を述べた。

 ぼくらはガラス戸を挟んで背中合わせに座っていた。互いにぴったりともたれかかるように。

「光栄だね」と、ぼくはそれに返事をした、「でも食べきれなかったら残すといいよ」。

「残すわけないよ」、彼女はだらしなく笑った、「じつはさっきからお腹が空いて死にそうだったから」。

「それならお粥にして正解だったね。無理に掻きこんでも喉に詰まらない。でも、そうだな、もしお粥が喉に詰まるなんてことがあったら、この前みたいに、すぐに病院に担いでいってあげるよ。未知の病気かもしれない」

「アハハ、馬鹿ね、まったく、おかしな人」

 ぼくは抗議した、「くだらない冗談は人生のビタミンなんだよ」。

「ところで」と彼女は切り出す、「お粥を作っているとき、その、あなたは愉快になんの鼻歌を歌っていたの?」。

「ああ、60年代あたりのジャズをいくつかね。当時は3分ほどの曲が多いから、時間を計るのに丁度いい」

「どうしてその頃のジャズには3分ほどの曲が多いの?」

「それは元々の録音技術の問題だよ。昔はレコードの一面に3分半くらいしか、音声を記録できなかったんだ。だから結果的に曲は3分に縛るように定着した。もちろん飛躍的に技術が向上した現代に至っては、そんなことを気にする必要もないけれど」

「でもあなたは3分くらいのジャズをちゃんといくつか覚えている」

「そのとおり」とぼくは肯定した、「まあ、お粥が吹きこぼれると大変だからね。それで退屈しのぎに歌でも歌って鍋から目を離さないように心懸けているんだ」。

「殊勝な心懸けね」と、彼女は感心したように言った、「それがお粥の味の秘訣かな?」。

「そうだよ。以前ちょっとコンロの傍を離れているあいだに鍋が吹きこぼれてしまったことがあってね、あれはやるせなかったな。お粥はすっかり台無しだし、コンロはどろどろのびしょびしょで、それはもう、掃除が大変だったなあ。それ以来、お粥を作るときには、鍋の前から片時も離れずに、お粥をずっと見張るようにしているんだ」

「なるほど」と彼女は唸る、「楽しげだったから、てっきりあなたはお粥を作るのが大好きなのかと思った」。

「嫌いではないけれどね」と、ぼくは苦笑を洩らしながら微妙に訂正をする、「ねえ、そろそろ休まなくちゃいけないよ? 食べ終わったらトレイをこっちに寄こして、片付けるから」。

 すると磨りガラス越しに後頭部がコツンと接触する。

「もうすこしだけ、こうしてていい?」

「いいよ」

 ぼくはガラス戸に頭を預けたまま、片膝をたて、買ってきていたジンジャーエールのキャップを外すとひとくち飲んだ。炭酸が喉の奥でシュワシュワッと弾けて消えた。瞼を閉じ、息をつく。ぼくと彼女はガラス戸によって分断されていて、こちら側とあちら側では、時間の進み方が、その進行の具合や度合いが、不思議にもなんだかまるきり違うような気がした。


 帰路につく。散歩がてら人気のないシャッター通りを歩いていると、路地裏の壁と電柱の狭い隙間で、身体を横向きにしながら、大きな顔が挟まっている男を見かける。どうせ酔っ払いだろう。そう思い、目をあわせないように素通りしようとすると、大きな顔に呼び止められる。

「もし、そこの青年、ちょっと助けてはくれまいか? このとおり、近道をしようと思い路地裏のあいだを抜けようとしたら、いかにも、私のほんの幾ばくか大きな面が引っかかって、どうにも身動きがとれそうにない。もはや2時間もこの調子で、いよいよ尿意にまで襲われ、一刻の猶予も許さない始末――、ああ、思えばあのとき、誘惑に負けて紅茶を何杯もおかわりするんじゃなかった。それはそうと、もう限界寸前で、心底かなわぬ。是非とも寛大なるお慈悲をくれまいか?」

 犬や猫がコンクリート塀の隙間に挟まってしまった映像は何度かTⅤショーで見たことはあるが、見たところ、中年の男性がそれと似たような状態にあるのは、あまり同情できないどころか、もはや滑稽ですらあった。ぼくは立ち止まり、呆然とその様子を見ていた。

「必ずや恩は返そう」と、顔のでかいおじさんは真剣に言った。「悪いようにはせん」、その額には玉のような脂汗が滴っている。

 仕方がないのでぼくは顔のでかいおじさんを救助した。結局は力任せに腕を引っ張ると、顔ごと全身がすぽんと抜けた。それからすぐに彼は近隣の公衆便所に駆け込み、途方もなく長い小便をした。ぼくはすぐにでも立ち去りたかったのだが、顔のでかいおじさんは綺麗に折りたたまれたハンカチで手を拭きながら、生真面目な顔をして大きく首を振った。

「きみは恩人だ、礼をさせてくれるまでは帰すわけにはいかない」

「いや、ほんとにけっこうです」とぼくは再三断った。

「遠慮は無用だよ。うちにくるがいい。おじさんがとてもいいものを見せてあげよう」

 今度はこっちの立場が面倒くさい事態になった。知らないおじさんについていっちゃいけないのは幼子でもママに教わることだ。それも、ただでさえ知らないおじさんなのに、その上、壁と電柱のあいだに2時間も挟まっているような変人ときたもんだ。帰りたい。

 ただ敢えて好感の持てる点をあげるとするならば、顔のでかいおじさんはきちんとした身なりをしていた。きちんとした身なりというのは、地味で清潔な恰好のことだ。服はデザインが古く、いくらか色もくすんではいるが、汚れやしわは一切なく、さっぱりとしていて、非常に大切に扱われているのが見て取れる。服も心なしか居心地が良さそうで、ぱっと見、悪い人には見えない。

「このすぐ近くに私の住まいがあってね」

 顔のでかいおじさんの言うとおり、シャッター通りを抜けた先の住宅街に白壁の立派な屋敷があった。日の光をふんだんに浴びて眩しく、ぼくは思わず目を細めた。塀は(そび)え、門は頑健だ。おまけにきれいに刈りそろえられた青い芝生が庭いちめんに広がっている。本当の金持ちは服とか余分なところに、あまり金をかけないとはよく耳にするが、この顔のでかいおじさんもその内の一人なのかもしれない。ガレージには年季の入った、でもピカピカの、ダークグレーのゴルフがお行儀よく、顔を外に向けて熟睡している。

 屋敷にあがる。お香の匂いがする。なんだか懐かしい気持になる。家の中は外観から予想されるとおり広かったが(二世帯家族でも余裕に暮らせるだろう)、基本的にはこざっぱりとして簡素である。二十畳はあろうか応接室に通され、ソファに座らされると、顔のでかいおじさんは一旦席をはずし、正面の壁の上方には立派な角をはやした牡鹿(おじか)の頭部が飾られ、その牡鹿の頭部の骸骨の剥製(はくせい)が、なんとも書物に見るデーモンのようで、周囲に異様な存在感を放ち、物言わず不気味になにかを見つめていた。

「その壁の獣は私がハントしたんだよ」と、部屋の入口から声がした、「草陰に潜んでライフルで急所をバーンってね」。

 顔のでかいおじさんは迷彩柄の布の覆いをした1メートルくらいの太い棒状のものを抱えて応接室に入ってきた。

「そのあときれいに除肉し、剥製にしたんだ」

「ライフル?」とぼくは聞き返した。

 顔のでかいおじさんは得意になって人差し指を立てる。「狩猟は私の趣味のひとつでね、ああ、もちろん免許も持っているとも」、そう言うと彼は絨毯(じゅうたん)の端で足を滑らせて一瞬仰向けに宙を舞い、それからすぐに床で背中を強打した。

 その瞬間、部屋に号砲が轟く。

 つぶてのようなものが部屋の四方八方に跳ね返り、しまいに牡鹿の頭部の剥製に痛烈に命中して、その深い空洞をたたえた目の骸骨は壁からガタッと落ちて、床に打ちつけたはずみで無惨に砕け散った。

 顔のでかいおじさんの抱えている布の覆いから、天井目掛けて弾丸が発射されたのだ。転んだ拍子に慌てて発砲したらしい。布の先からは煙が立ち昇り、薬莢の焦げた臭いもする。顔のでかいおじさんは目を丸くして固まった。

「なんてことを」とぼくは憮然としつつどなった、「人に当たっていたらどうするんですか? その胸に抱えているのは猟銃ですね?」。

「おかしいな」と顔のでかいおじさんは声を振り絞るように呟いた、「なぜ弾が入っている? それに安全装置は?」。

「どんくさいってもんじゃ済まない。近所に知れたら警察沙汰になりますよ」

「しかしだね、私はちゃんと――、」

 ぼくは堪え切れず口を挟んだ、「いったいなにをしているんですか? なんだってそんなものを持ってきたりしたんですか?」

「だから、きみにいいものを見せてあげようと――、」

「帰らせてもらいます」

 これ以上関わりあいになるのはごめんだ。そう思い、ぼくは玄関に行って靴を履き、その豪邸をあとにした。背後に顔のでかいおじさんの、怒りとも、歓喜とも、嘆きともとれぬ叫びが響く中で。


 家に帰ると真っ先にシャワーを浴びて、服を着替えた。どっと疲れた。とんだ茶番だった。冷蔵庫から冷えた缶ビールを取り出して、栓を抜き、その琥珀(こはく)色の液体と微量の泡を喉の奥に流し込む。それから缶詰のオイルサーディンの油を半分捨て、トースターで加熱し、レモンを絞って食べた。一息つき、さらにソファに横になって瞼を閉じると、仄かな光が暗闇の中で揺らいでいて、フォークダンスの幻影のように、様々な記憶が浮かんでは消える。それらはやがて輪郭を持ち、体を成し、一つの塊となって、強引に、また暴力的に、行く手の正面に居座って、冷酷に立ちはだかる。ふと、光は散っていた。

 どうして根は親切で可哀そうなおじさんを独り屋敷に置き去りにしてきちゃったのよ?

 薄れゆく意識の遠くでは、なぜだか彼女が、ぼくをそう責め立てているような気がした。




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