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この町にきて、ぼくがガールフレンドに出会ったのは、これまでのおおよそ半年前の夏、火曜日の午後だった。ひどく暑い日で、あの鬱陶しい陰惨な蚊さえもどこかへ避難するくらい、容赦のない日照りのもと、ぼくはカフェ〈アラベスク〉の化粧室のすぐ横の席で、熱いブレンドコーヒーを飲みながら、スピーカーから流れるバッハの〈イギリス組曲〉を聴きつつ、ドストエフスキーの〈貧しき人びと〉を読んでいた。店内にはまばらに客がいてなかなか賑わっていたが、ぼくはそれを気に留めなかった。というのは、誰の演奏かはいまひとつ見当が及ばなかったが、ピアノの音色はとても心地よかったし、それに本を読むことに集中したかったから。5分くらい経つと入り口のちかくの席の女の子が立ち上がった。こちらに向かってコツコツコツと律儀な音をたてながら一定のリズムで歩いてくる。年はぼくと同じくらい、しみひとつないノーカラージャケット、アイロンのかかったシャツ、ぴっと縦に折り目のついたテーパードパンツ、そしてローヒールのパンプスをごく自然に身に纏い、背筋をのばして歩いてくる。化粧室に用があるのだろうとぼくは思った。
視界の端で女の子を注視していると、彼女の歩調がぼくの席の横でぴたりと停止した。驚いて顔をあげると、彼女はこちらを向き、腰に手をあてて言った。
「読書中申し訳ないんだけれど、あなたK高校の卒業生よね?」、艶っぽい一対の瞳がぼくを見ていた。
「K高校の卒業生だけれど、それがなにか?」
「いつも図書室の隅っこで熱心に本読んでた」
彼女の言うとおり、ぼくは高校生のとき、暇があれば本ばかり読んでいたし、図書室の奥まった角の席がお気に入りのスペースだった。
「驚いた」
「私って無駄に記憶力はいいから」と女の子は前髪を指に巻きつけながら言った。
「素晴らしい特技だ」
「ありがとう、そんな風に言われたのは初めてかも」と女の子ははにかみながら言って、「ねえ、向かいの席に座っていい? いま私、かくれんぼしている最中なの」。
「かくれんぼ?」とぼくは呆気にとられて聞き返す、「その年で?」。
彼女は腕を組んで、ぼくの顔をじっと覗き込んだ。
「そ。事情があって身を隠しているところなのよ。あなたといたほうがカモフラージュになるわ。それにあなたにもちょっと興味あるし」
「かまわないよ、きみがそれでいいなら」とぼくはすこし考えたのち答えた。
「ちなみに私もK高校の同級生よ、そのことは知ってた?」
ぼくはまた考えた。それから首をかしげた、「いや、知らなかったな、ごめん」。
彼女はゆっくり首を振る。
「いいのよ、クラスは違ったし。それにあなたはついさっきみたいにいつだって読書に没頭していたから。自分の世界に誰も入りこめないくらい夢中になれる『何か』があるって素敵ね、よろしく」
「よろしく」とぼくは言った。
彼女は艶やかななめし皮のハンドバッグとソーサーに載せられたコーヒーカップを持ってきて、コーヒーカップとソーサーをテーブルの上に、それからハンドバッグを椅子の脇に置いた。彼女のハンドバッグは奇妙に膨らんでいた。
ぼくはそれを見て、「ずいぶんとハンドバッグがパンパンだけれど、いまから旅行にでも行くの?」。
「まさか」、女の子は頬杖をついて遠い目をした。それから溜息をついた。どんよりと虚ろな表情をしている、「むしろ行けない。もしどこか遠く、それこそ海外なんて行けたらどれだけ素敵だろうとは思うけれどね」。そして彼女もブレンドコーヒーを飲んだ、「私の鞄がぎゅうぎゅうなのはね、盛りのついた雌猫の出産みたいにぽんぽんと大量の精神のおクスリをクリニックの先生に処方されるからだよ」。
「精神のお薬?」と、ぼくは言った、「それって大丈夫なの?」。
彼女はしばらく首をかしげて黙っていた。それから小さく首を振った。
「よくわからない。原因不明の脳の病気だから。でもおクスリがないとパニックになっちゃうし、実際何度かそういう目にあった。だからどこへ行くにも、常に肌身はなさず持ち歩いてる」
ぼくは慎重に言葉を選んだ、「どうやら辛い経験を思い出させちゃったみたいだ。謝るよ」。
彼女は手を振って鷹揚に笑った、「全然平気、話したくないなら最初から話してないし」。
それからぼくらは飽きずに色んな話をした。高校でのできごとや、そのあとの進路、現在の暮らしぶり、趣味、食べ物の好き嫌い、好きな動物、使っている柔軟剤の話にいたるまで、淀みなく円滑に会話は弾み、途切れることはなかった。そのあいだ、彼女はよく笑った。彼女が笑うとまるで瑞々しい光が差し込んだみたいに、場が明るくなった。素敵な笑顔だった。途中、二人ともブレンドコーヒーをおかわりし、彼女はそこにミルクを一滴だけ垂らす。コーヒースプーン(柄にはシンプルな花の細工がしてある)でゆっくり掻き混ぜると、優雅にそれを口にした。彼女は左の手首を持ち上げて折り、その銅色の腕時計を眺める。
「ヤバ、もうすぐ仕事の面接だった」と彼女は言って席を立つ、「料金ここに置いておくからもう行くね、ありがとう、楽しかった」。
ぼくもとっさに立ち上がって声をあげた、「ちょっと待って」。
立ち去ろうとしていた彼女の足が止まり、どうやら五里霧中、振り返ってぼくを見やる、「なに?」。
ぼくは思い切って言った、「また会えないかな?」。
今度は疑心暗鬼、女の子は左手で右肘を押さえ、右手のこぶしで口もとを押さえる。それから小火を目撃しているような顔つきで首をかしげた。目を凝らし、ぼくを見ている。貫かれそうなほど鋭い眼差しだった。やがて(途方もなく長く感じられた)彼女は諦めたように溜息をつき、怪訝な表情で言った。
「それってつまり――、あなたが私に対してなにかしらの好意を抱いていると受け取ってもよろしい?」、歪んだ目の焦点を合わそうと試みている人のように。
ぼくは正直に言った、「きみの言うとおりだよ。ぼくはきみに対して特別な好意を抱いている」。
じっくり異物を咀嚼するように考えを巡らせたあと、女の子はぼくに尋ねた。
「どうして?」
「話していて楽しかった」
「それだけ?」
「きみのことがもっと知りたい」
娘は口を結びうつむいてしまった。しばしの沈黙があり、ぼくはその沈黙に黙って耐えた。カウンターちかくの客が、新聞を手に、ぼくらの様子を興味深げにうかがっている。バッハの〈イギリス組曲〉が終了し、モーツァルトのピアノソナタが流れると、彼女は顔をあげ、微妙に唇を震わせた。
「深く私を知ったら、あなたはきっと私に幻滅する。私はどうしようもなくわがままで、とりとめのない人間だから」
「かまわないよ」とぼくは落ち着いて言った、「ぼくにとってきみは、十全に魅力的だ」。
いつしか彼女は神妙な面持ちで佇んでいた。ぼくの瞳から、しかと目を逸らさずに。
そのあとぼくたちは携帯電話の番号を交換する。そしてそれを機に、連絡を取り合い、デートを重ね、急速に親密になっていった。