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 彼女の容態は日増しに悪化していった。それに伴い、彼女の睡眠時間もどんどん長くなっていった。よく顔をあわす看護師さんいわく、いまや半日以上は寝て過ごしているらしい。ぼくは彼女のいる病室に入ると、室内を仕切る薄い水色のカーテンをめくり、そっと中に身をすべりこませ、しばしその愛らしい寝顔を見下ろした。表情は健やかで、耳を澄ましても、寝息は聴こえない。底意地の悪い魔女に呪いをかけられた眠り姫のごとく、なんだか仮死状態みたいだ。どうにか救う手立てはないものか。ベッドの枕もとの横の狭いスペースには、背の低いチェストがしゃんと収まっていて、その上ではつるりとした林檎の実が二つ肩を寄せあい、そんな風にして五分経過すると、ようやくぼくは傍のスツールに腰掛けて、持参したトルーマン・カポーティの〈ティファニーで朝食を〉のページを開いた。

 午後三時を過ぎると、受け持ちの看護師さんが、ぼくの彼女の面倒を見にきた。いつもどおりぼくが挨拶を投げると、看護師さんも、にこやかに挨拶を寄こしてくれる。きっぱりとした、おおよそ三十歳前後の女性だ。それくらいの年齢に差し掛かると、女性は(さなぎ)から羽化した蝶のように、見違えて、ぐんと顔つきがたくましくなることがある――、試練ならさんざん搔い潜ってきたと自負しているかのように。きびきびと患者の身のまわりの世話を焼き、容態をチェックしているこの看護師さんもまた、その(たぐい)なのかもしれない。手際がいいどころか、仕事にそつがない。すると看護師さんは看護記録をとりながら、折に触れて、ぼくに視線を向ける。目があうと朗らかな表情を顔に浮かべて訊いてきた。

「当病院にお見舞いにこられる方はたくさんいらっしゃいますが、皆さんお忙しいのか、割とすぐにお帰りになられるんですよ。まるでそれが強制的な義務でもあるかのように。だから毎日熱心に付き添っておられる方をお見掛けすると、こちらとしても正直いたく感動します。彼女さんのことが本当に大切なんですね?」

「ええ」とぼくは言った、「大切です、代わりに病気を引き受けたいくらいに」。

「そんな風に想ってもらえるなんて」、そこで看護師さんは感慨深げに、「彼女さんは果報者ですね」。

「そうだといいんだけれど、ご存じかもしれませんが、なにしろ彼女は誰にも迷惑をかけたがらない人だから、実際の気持は量り兼ねます。ただぼくは仕事がら、集中力を切らすと不味いので、これくらいの時刻には、普段なら5キロメートルほど散歩するんですよ――、ラジオなんかをイヤホンで聴きながら」

「ラジオ?」、そう言いつつ、看護師さんは自然な笑みを絶やさない。おそらくは、毎日欠かさず長時間、ぼくが見舞いに訪れるので、ぼくに対して、特別な親しみ、親近感を覚えているのだろう。連帯感すら持たれているのかもしれない。

「たいてい一週間、過去に放送されたラジオのプログラムが聞き逃し配信をやっているんです、携帯電話などのアプリケーションで」

「どんなチャンネルをお聴きになられるんですか?」

「最近はもっぱら『朗読』の番組ですね、散歩にはまずうってつけです。つい先日は太宰治の〈ヴィヨンの妻〉を知った声優が読んでくれて、なかなか味わいがあった、他にも検索すると面白いものがたくさん埋もれている――、海底の化石みたいに」

「素敵」と看護師さんは小さな感嘆を洩らしながら、機敏に支度を整える、「今度お勧めのものがあれば、ぜひ教えてください」。

「もちろん」

「できればもっとお話をしていたいのですが、そろそろ他の患者さんのところに移りますね」

 ぼくは頷いて手を振る、「お仕事がんばってください」。

「ありがとう」、看護師さんもそう言って手を振り、カーテンをすこし開くと、その隙間に消えて、すぐにカーテンを閉じた。


 ぼくの机の抽斗(ひきだし)には、彼女とともに鑑賞する予定だったコンサートのチケットが二枚、ぴたっとチケットホルダーにしまわれていて、それはなかなか入手困難な経緯(有名なオーケストラのものだ)もあり、運よく席も二階の中央付近が抽選で当たったし、曲目もぼくの大好きなプロコフィエフの〈ロメオとジュリエット〉が選ばれていることも手伝って、彼女は入院したままだが、他に誘える友人といえる友人もいないので、一人でコンサートホールに足を運ぶことにした。チケットの払い戻しはしない、隣の空席は彼女のものと思い込むことにする。襟なしのシャツ、オリーブ色のチノパンツ、通気性の良いダウンジャケット、防水のビジネスバッグ、タフなバスケットボールシューズ、それらをこの身に従わせたなら、大学病院まで川沿いを歩いてのぼり、病棟をのぼり、病室ですやすやと眠る彼女の耳元で、いまからコンサートに向かうことを告げた。

 とっさに彼女が瞼を開いた気がした。でもそれはぼくの思い過ごしで、はっとして耳を近寄せると、彼女は谷間の洞窟を渡るそよ風のようにひゅーっと長い息を洩らした。もしかして夢でも見ているのだろうか? それから彼女はもそもそと向こうに寝返りをうち、「もう心配しないでえ」と訴えかけるように寝言を溢した。

 ぼくは身を乗り出して、乱れた毛布を彼女の首もとまでちゃんとかけなおす。そして腕時計で時刻を確認したあと、脇のビジネスバッグを両肩に背負った。

「行ってきます」とぼくは言った。

 電車を乗り継ぎ、開演時間の10分前にコンサートホールに到着すると、ぼくは座席で舞台上をしげしげと観察した。ヴァイオリン、チェロ、クラリネット、フルート、ティンパニ、多様な楽器が扇を描くように整列し、熱心な信徒のごとく指揮台のほうに顔を向けている。天井は高く、窓はない、広さは中程度。そして暖かみがある。予定より5分遅れて、演奏者の一団、そのあと間をおいて白髪の指揮者が舞台袖より現れると、観客は待ち望んだ様子で手を叩いて歓迎した。拍手の中、指揮者が指揮台にあがる。そのとき、ぼくの前を痩身の男が通りがかった。こつんと膝が接触し、男(ぼくと同じくらいの年頃に見える)は「失礼」と言って手をかざし、ぼくの隣の席に腰をおろした。

 その席はぼくのガールフレンドのためにある席だった。

 でもぼくはなにも言わなかった、言えなかった。

 お陰でぼくは、演奏が始まってもコンサートに意識を集中することができなくなってしまった。何度か隣の男に、そこはぼくが予約した席です、と証拠のチケットを手に注意しようかとも思ったが、その都度溜息まじりに肩を落とす有様。たとえそんなことをしていったいなんになるんだろう? 事実席は空いていたんだ。座りたきゃ座ればいい。おそらく席を間違えたかして、ここに居ついているだけだろう。でも周囲をそれとなく眺めまわしても、どこもぎっしり来場者で埋まっていて、彼の振る舞いに対して、腑に落ちる説明がとんと見当たらないのも事実だ。瘦身の男の髪はセミロングで、よく見ると二枚目俳優のように、端正な顔立ちをしている。コートを膝に抱え、厚手のカーディガン、年季の入ったジーンズに身を通し、いくらか挑戦的に、椅子に前屈みになっている。

「ブ、ラ、ボ」。すべてのプログラムが終了すると、彼はいの一番に立ち上がって大きく手を叩いた、場に舞い降りた静寂を破るように。

 それを皮切りに会場内は拍手喝采、歓声を浴びて、白髪の指揮者は堂々とお辞儀をし、それから指揮台を降りて体格のいいコンサートマスターとがっちり握手を交わす。ぼくもシートの背にもたれながら冷静に、手を、パチ、パチ、パチと鳴らし、その様子を眺めていた。そして演奏の余韻に浸る。しばらくして、ふと気になって隣の席に視線を移すと、痩身の男はなんの予兆もなくふっと姿を消していた、朝日を浴びて消失する、死者の幻影みたいに。


 その男の話をすると、ガールフレンドは無邪気に笑った(翌日病室に見舞いにいくと珍しく起きていたのだ)。

「ふふ、奇妙な話」と、彼女はベッドの枕もとに背中をもたせかけながら言って、「いいじゃない、どうせ席は空いていたんだし、そんなにクラシックコンサートに情熱的な人だったら、私も喜んで、進んで喜んで、席をお譲りするわ」。

 ぼくはスツールに座って、引き寄せたゴミ箱の上で林檎をペティナイフで剥きながら、「きみがそう言うのならきっとこれでよかったんだろう」。

「よかったのよ」

「そうだね」

 皮を省いた林檎を八等分にカットすると、プラスチックの皿に載せ、その一切れに小ぶりのフォークを刺して彼女に手渡そうとした。彼女はわずかに首を振った。

「食べさせて」

「うん」、ぼくはこくりと相槌をうち、その要望に応える、「今日は機嫌がいいんだね」。

 彼女は林檎をよく噛んでから呑み込んだ、「たくさん寝ると頭がすっきり爽快になるんだよ」。

「だったら病棟の下に庭園があるんだけれど、食べたら腹ごなしにすこし散歩しないか?」

 彼女はにっこりサムズアップの仕草をした、「いいね」。

 30分以内ならと主治医の許可がおりた。点滴が固定された点滴スタンドはぼくがつかみ、ひさしぶりに体を動かすようだから、すぐに躓くんじゃないかと内心はらはらしながら彼女の傍に控えていたのだが(おくびにも表情には出さなかったものの)、案外、彼女は自分で歩くと言い張って、さらにけろっとした表情を顔に浮かべ、パジャマの上から手早く白いダッフルコートを着込むと、無邪気にすたすたと前を歩いて行く。元来運動神経がいいのだ、メンタルも人並み以上に優れている――、これだけ我慢強いのだから。エレベーターに乗ると彼女は楽しげに一階のボタンを押す。

「その庭園ってどこにあるの?」と彼女が尋ねてきた。

「この病院のちかくだよ、もしかすると個人で管理されているものなのかもしれない」

「念のため障がい者手帳を持ってきたんだけれど、いくらか入場料割引してくれるかな?」

「どうだろう?」、そう言ってぼくは首をひねった。

 でもそれどころか目的の場所にきてみると、庭園の入場料は(はな)からタダだった。入り口の看板にそう書いてある。どうやら察するに、庭園は至極プライベートなもので、どこかの資産家の思いつきの道楽で運営されているらしい。なんでも株で2千万失っても、けろっとしているような人物だとか。ゲートをくぐる際、雇われの人懐っこい老人に食い気味にそう説明されたし、説明書きの看板の隅にも公益法人の名前まで認められたし、仕組みや成り立ちはいまひとつ理解できないが、つまりはそういうことなんだろう。庭園はどうやら閑古鳥が鳴いている様子で、いみじくも都市開発の一環というわけでもなさそうだ。あるいは単に形骸化しただけなんだろうか? 彼女はうんと背伸びをするとルンルン気分でお花畑に視線を向けて軽く飛び跳ねた。危なっかしい。ぼくは肝を冷やしてすぐにその傍を付いてまわった、従者として、点滴スタンドを胸の前に掲げながら。なんだかTⅤショーの音響スタッフみたいだ。

 ビオラ、パンジー、スイセン、アリッサム、ノースポール、色とりどりの冬の花を、彼女はじっくり丁寧に眺めてまわった、離島にやってきた親切な医者のように。さながらぼくはその助手といったところか。彼女は膝を折りたたんで、赤いシクラメンの花弁を指でさすりながら、何事かを口にしている。花と会話しているのだ。

「あなたきれいね、そのまま丈夫に育つのよ。なにがあっても私みたいに不治の病なんてもらっちゃだめよ。一生肩身が狭くなるだけだから。わかる?」

 いつかぼくも同じようなことを彼女に言われたことがあった。

「わかった」とぼくは言った、神妙な顔で。

 彼女が目を細めてぼくを見上げる、「まったく、眩しすぎるな」。

「今日はいつもより日がよく照ってる」

 彼女は地面に膝をついて立ち上がり、膝についた砂を手で払った、「そうね」。

 それにしても管理のよく行き届いた庭園だ、心地良さげに生い茂る花々を見てぼくはそう思った。感心したと言ってもいい。誰が、なんのために? 本当にこの施設を運営している酔狂な資産家なんて実在するのだろうか? 仮にいたとして、それにしては、この庭園の存在感は異質だ、どうにも敷地内だけ時間が止まってしまったみたいな――。

 やがて最奥の一本の白樺(しらかば)の枯木に彼女は手を当てる。

「この人、死にかかってる。もう寿命なんだわ」

 ぼくはそれについて考える、「幹が腐っているね、このまま枯れたらどうなるんだろう?」。

「おそらく伐採」と震える声で彼女は言った、「でも切り株はずっとここにとどまりつづける、それこそ去勢されたペニスみたいに」。

 ぼくは笑った、「この前のレストランでのリップスティックの話を覚えていたんだね?」。

 彼女も笑った、「私って無駄に記憶力はいいから。でももし仮にあなたが私を裏切ったとしても、べつに恨んだりなんかはしないわよ」。

「どうして?」

 彼女はおもむろに天を仰ぐ、「あなたには自由でいてほしいから、勇壮な翼をもった鳥のように。鳥籠はあなたには似合わないわ」。

「誠意努力するよ」、ぼくはそう言って頭を掻いた。なんとも気恥ずかしかった。

 ずいぶん動いたから眠たくなってきちゃった、と彼女が言いだしたので、ぼくは彼女に肩を貸して、病棟のエレベーターをのぼった。コートを剥ぎとり彼女を病室のベッドに寝かしつけると、すぐに熟睡しだし、ぼくも大きな欠伸(あくび)がでて、たまらずスツールに腰掛け、彼女のお腹のあたりに腕をクロスさせ、それを枕みたいにして休憩することにすると、すぐに夢が舞い降りた。ガールフレンドが裸で寝転んでいて、その身体を、ぼくが隅々まで舌で愛撫していく。やさしく足の爪先まで舐めまわしている。そして温かい膣。丁寧に指を差し入れたら、じっくりクリトリスまわりをさすり、いじり、弄び、入り口がしっとり開くと、息をついて挿入した。あとはそのままの状態で、ぼくたちは飽きずに終りのない時間を抱きしめあっていた。時間を掌握したかのように。

 目が覚めると、ぼくはまだ彼女の腹部のあたりに上体を預けたまま、西日を、有終のオレンジを首筋に感じていた。彼女はすやすやと眠っていて、それとは対照的に、ぼくのペニスは屹然と勃起していた。そしてぼくは立ち上がり窓の外を眺めた。

 なんだか彼女の双子の妹(もちろん象徴的な(たと)えだ)と浮気でもしたようなうしろめたい気分だ。

そのとき彼女がすっと身を起こして、「セックスは嫌い」と前方に向かってはっきり口にした、誰に言うでもなく、でも明らかなる敵意を持って。それから脱力したようにストンとまた一人で眠りに落ちた。

 どうして彼女がセックス嫌いなのか、その訳は、事情は、真相は知るべくもないが、いままでぼくは、一度たりとも彼女と寝たこと、つまりセックス(彼女の表現どおり)をしたことがなかった。でもぼくは、彼女の心の準備が整うまで、勝手にも、待つことを、とうに決意していた。





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