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枯葉を踏むと乾いた音がした。パリッという、遠慮深げで、小さく爆ぜるような耳触りのいい音。するとガールフレンドが「あ」と声をあげ、すぐにこちらを振り返った。
「驚天動地、天変地異、私、とんでもない事実に気づいちゃった」
「は?」
「どう、知りたくない?」
「え、ああ、うん」
彼女は不満げに、「その反応じゃ物足りない、もっと興味津々に尋ねて」。
仕方なくぼくは大袈裟に、「いったいどんな?」。
「ふふん」、彼女はなんとか満足した様子でがっちり両腕を組み、鼻を鳴らす。でもどうして彼女はそのままじっと黙り込んでしまった。微動だにせず、まるで神聖な石膏像みたいに、辺りにオーラをまき散らしながら、ただ溌溂と身構えている。
ぼくも閉口した。どうせ他人の言うことを聞かない性分なのだから気の済むまで我意に任せればいいさ。そう思って彼女のやや等間隔に離れた両目や、ややアンシンメトリーに建造されたむきだしのほお骨を、もっぱらぼんやりと、でも無遠慮に眺めまわした。とくに美人とは言えないが、その顔立ちの奥に、特段その瞳の中に、人々を魅了する何か品性のようなものがどんと鎮座しているのをぼくはよく知っているし、然るにそれは、神からのギフトか、彼女が努力して備えた特質か、どちらの側にも推し量ることが可能なようでもあり、結局そのプレシャスな輝きの出どころはまるで見当がつかないのではあるが(ある夜突然ほうき星が彼女の手のひらの上に降ってきて、つかむ否や、覚悟を決め一息に呑み込んでしまったのではあるまいか)。
なんにせよ彼女は彼女だ。彼女が隣にいること、ただそれだけで、ぼくはよかった。
そんなぼくの気持も知らないで、彼女は人懐っこい猫のようにこの左腕にしがみついてきた。すこぶるご機嫌麗しく、その奏でも清らかで、表情も豊かだ。ハミングまでしている。おまけに彼女の短い髪(ぼくはその黒いショートボブスタイルがめっぽう好きだ)の漂わせる爽やかな、でも飾り気のないシャンプーの匂いだって、こうして微かにかがせてくれる。たまらず胸がいっぱいになる。弾みで一応訊いてみた。
「さっきの、結局なんだったんだ?」
「内緒」
「内緒かあ」
「そ」
歩道の反対側にはつつじがびっしり植わっていて、くすんだ葉の下にすすけた枝を寒そうに晒している。春になれば、景観もさぞ華やかであろうに。
それを横目にぼくたちはゆっくりと目的地に向かう。進路は北東、座標はテトラポットひしめく海辺の一角のレストラン。とくに記念日というわけでもないが、ぼくとガールフレンドは月に一度、決まって月の終りの日曜日、日常の潤いの維持のために、多分に資金を奮発して〈美味なるものを食らう条約〉を締結していたので、そこにあるレストランのシートを二週間前からリザーブしておいたのだ。ふと仰ぎ見る空には、城のように聳え立つ雲が何食わぬ顔で太陽を覆い隠していて、隙のないぴしゃりとした態度で、ぼくらを真正面に見下ろしていた。
一見うらぶれたレストランに到着したのは午前十一時半ぴったりだった。彼女がそっとぼくの背を押し、ぼくも扉を圧す。店内は小さく、内装はモダンで、客は一人もおらず、すこしやつれた女性が笑顔で近づいてくる。
「いらっしゃいませ」
「予約をしているのですが」
「ご予約のお名前を伺ってもよろしいでしょうか?」
ぼくは名前を伝えた。
ウェイターとおぼしき女性は微笑んで頷く、「奥のソファ席へどうぞ」。
あらかじめインターネットでこの店のホームページを同伴者に見せて、うきうきしたご様子の女の子に(いじらしくもある)、お気に召すか、ちゃんと食欲をそそられるか否かを検証していたので、さっさとオーダーを済ませる。
彼女は壁際のソファのシートの上に、木から滑り落ちたナマケモノのごとく、どさっとトートバッグを肩から降ろした。彼女の鞄はいつだってぱんぱんで、繁忙期の郵便配達夫のそれみたいだ。そうしてぼくも彼女の向かいの席に腰掛ける。それからビールで乾杯した。二人ともビールに目がないが、ムードも手伝ってか、せっかくの褒美のようなものだからか、じっくり味わって飲み、食事が到着するころに、ちょうど示しあわせたかのようにぼくらはビールをぴたりと飲み干した。
「グラスワインの赤をお願いします」とぼくは注文した。
「私も同じものをお願いします」と彼女も注文した。
「無理に付き合わなくていいよ」
「無理に付き合ってないよ」
「それじゃあ、せっかくだから冷めないうちに食べよう」
先ほどのすこしやつれたウェイターの女性が、控えめな笑顔を引き連れながら、料理をサーブしにくる。手際よくテーブル上に皿を並べる。料理だって丁寧にひとくちサイズに切りわけられているご様子。それとなく観察した結果、どうやらフィレステーキの身はすこし赤身がかっているくらいがこのレストランの流儀らしい。
美しく盛り付けられた皿を目の前に、彼女は手を合わせて、「いただきます」。
ぼくも、「いただきます」。
噛むと濃縮されたうま味があとから口の中に広がり、夢心地、ワインで流し込むと、ぼくは試しに左の頬をつねった。
「ちょっとなにしてるのよ?」、彼女が動揺気味に顔をしかめる。
「いや、現実かどうか確認しているんだよ」
「ハハ、おかしな人」
ふと気がつけば、店内にはジョン・コルトレーンの〈至上の愛〉が仄かに流れていて、ぼくは妙な心持になる。ジョン・コルトレーン? というのは、この店のBGMとして選択するには、没入感のあるジョン・コルトレーンのテナーサックスの音色は、とりわけ神秘的な〈至上の愛〉というレコードは、いささかヘヴィにすぎるし、だから店内のムードにも似つかわしくはないが、仮に有線放送を流しているとして、大方のやり口に倣うならば、もっとお気楽な音楽を仕掛けたほうがいいのではあるまいか。でもそうしないのは店主かオーナーの拘りってやつか、あるいはただの気まぐれなのか。
「いま気づいたんだけれど」と、彼女は言って右の眉をしかめる、「あなた、唇乾燥しているみたいよ。下のほうがちょっとひび割れて、血も出てる」。
「ああ、この時期は毎年そうなんだ」
「駄目よ、放っておいたら」、彼女はトートバッグを脇に寄せて中を漁る。ポーチというポーチ、ポーチの中からもポーチ、保育園の昼寝時間が終了した園児みたいに、次々ポーチが眠りから叩き起こされて、そこかしこに広げられ、並べられる。途端にポーチの見本市が催される。心なしか、ずんぐり口を開けて、くたっとした態度のトートバッグも、なんだかしおれて見えた。やがて、「あった、あった」とガールフレンドは言って、一本のリップスティックをぼくに手渡す、「使いさしだけどあげる、家にリップスティック山ほどあるから。どういうわけか、性欲旺盛な放し飼いのうさぎさんみたいに、ぽんぽんと増殖するんだよね」。
「ありがとう」、そう言って、それを受け取り、彼女の心遣いに感謝する、「だったらリップスティックにも去勢が必要だな」。
「わお、強烈、熾烈なご意見」
「部屋がリップスティックに占拠される前に、こちらも打って出ないと」とぼくは真顔で言って、もらったそれの蓋を取って唇にひとぬり。
彼女はぽかんと開けた口を手のひらで覆い隠し、次第にくすくすと笑いはじめた。
「やっぱりおかしな人」
いつしか店内は満席になっていた。人々の嬉々とした話し声が辺りに充満し、食器の重なる音もする。どうやら接客は一人体制なのか、ウェイターの女性がメニュー表を胸に抱えたり、料理やドリンクを手に持って、忙しそうに厨房や方々の客席を巡る。その熱心な仕事ぶりにぼくは感心した。
間もなくすると、向かいの席の彼女の箸がぴたりととまり、その手はワイングラスをつかんでいる。
「ねえ、悪いんだけれど、残した分を食べてくれない?」
300グラムのフィレステーキは50グラムほど、皿の隅で居心地悪そうに縮こまっている。
「ダイエットでもしてるの?」とぼくは言う。
「してない」と、彼女は簡潔に言う。そしてワインをひとくち、「もう満足、ただ食べ切れないってだけ」。
「だったら持って帰るといいよ」、ぼくは忙しそうなウェイターの女性を呼ぶ。少しするとウェイターの女性は足早にテーブルの前にやってきて、慎ましやかにお辞儀をした。ぼくは言った、「余った料理を持って帰りたいので、容器かなにか用意してもらえませんか?」。
「かしこまりました」、そして女性はまた慎ましやかにお辞儀をして、厨房の奥に消えた。
盛況な海辺のレストランをあとにしたのは正午過ぎだった。ぼくの手には食べ残しの肉が、輪ゴムを嵌めたプラスチックのフードパックとレジ袋に入れられてぶら下がっている。彼女はまた重そうな鞄を肩に提げ、またその鞄の把手には赤いヘルプマークが下げられている。彼女は障がい者だった。
あるとき彼女が、ぼくの手をぎゅっと握りしめながら、こう言ったことがある。
「――、以前駅の通路で突然胸が苦しくなって、その場に座りこんでしまったとき、誰ひとり『大丈夫ですか』って声をかけてくれないの。みんなせっせと通り過ぎていくだけ。息も詰まって自分からも助けを求められなくて、その、まるで社会から見捨てられたような気分だったな。ねえ、わかる? それってどうしようもなく孤独よ? こうして思い出すだけで、正直、足がすくんで、くじけそうになる。結局たいていの人は、自分のことだけで精いっぱいなのよ。他人に手を差し伸べる勇気も度量もない。それは障がい者だって同じで、障がい者同士だから痛みや苦しみを分かちあえるかと思えば、全然そんなことなくて、えっと、障がい者だろうと人が集まるところには、げびた縄張り争いが絶え間なく繰り広げられるし、陰湿な嫌がらせだってちゃんと存在するの。私だって臆病で、余裕なんてまったく持ちあわせていないけれど、一人の人間として、そういう意図をなんとなく目の当たりにしていると、ほとほとうんざりしちゃう。病院のリハビリ、つまりグループセッションに参加するとね、その、他の患者さんと顔をあわすのもどぎまぎと緊張して、かえって心が変になりそうだったから、もう通うのもやめちゃったんだ。そしたら気分もかなり安定するようになったわ」
ぼくの前ではおおむねリラックスしたように振る舞うが、本当は誰よりも機微に聡く、繊細なのだ。微小な針のように。だから『安心』を必要としている。それがどれほど不確かで、脆い砂の城であろうとも。
「ちょっと待って」と彼女が息を切らして言う、「だいぶと疲れたみたい」。
「荷物を持とう」、ぼくは彼女のトートバックをすくい上げる、「どこかで休憩する?」。
公園のベンチに並んで座ると、ぼくは肩をすくめながら上着のポケットに両手を突っ込み、彼女もまたそうして身を寄せてきた。巨大な雲は立ち去り、代わりに雨の匂いをもたらしている。降りたきゃ降ればいい、そのくらいコンビニエンスストアで傘を買えば済む話だ。彼女はあどけない表情で瞼を閉じていて、もしかすると眠っているのかもしれないけれど、光栄至極、そっとしておいた。しばらく前方のブナの木を見るともなく見ていると、隣で「ぜえぜえ」と息を洩らす声がする。ぼくは彼女のおでこに手のひらを当て、その体温をたしかめた。熱い、不味いやつだ。辛抱強いとも形容できるが、彼女は弱音を吐けないところがあるので、ぼくは荷物を纏めて片側に持ち、その反対側で彼女の肩を強引に担いだ。そして病院に到着するまでのあいだ、彼女は押し入れに閉じ込められた子供みたいに、際限なく震える声で謝りつづけた。ごめんね、せっかくの休みなのに、台無しにしちゃって、ほんとにごめん、私がしっかりしていないから、こうやってあなたにいつも、迷惑をかけるんだよね、もう消えてしまいたい。
大学病院の待合室のベンチで独り、じっくりスコット・フィッツジェラルドの〈冬の夢〉のページを繰っていると、外来治療室の奥からガールフレンドが点滴スタンドを押しながら姿を現した。
彼女は足下を十分にたしかめ、それからぎこちなくぼくの隣に腰を下ろす、「しばらく入院だって」。
「うん」、ぼくは本に栞を挟みながら首肯する。彼女の瞳を見つめると、いつもよりいくぶん翳っていた。
彼女は天井を仰いで溜息をつく、「やだな、また飲まなきゃいけないおクスリ増やされちゃう。これじゃクスリ漬けのモルモットだよ」。
「見舞いにくるよ、なにか欲しい物はある?」とぼくは尋ねた。
「んー、今のところ、とくになにも欲しくないかな。気持だけもらっておくね、ありがとう」
その帰り道、彼女を病院に残して、帰宅すべく久方ぶりにバスに乗車すると、前の座席では定年を迎えたであろう老夫婦が、登山ウェアに身を包み、仲睦まじげに会話をしていた。ぼくはその様子を漠然と眺めた。
「30で死ぬの」と、愛しきあのコは、いつか恍惚とした表情を顔に滲ませて言った、「そしたら夜空の塵になるの」。
窓の外を見ると、暗雲垂れ篭め、細かい雨が降りだしていた。下車したら、八百屋かスーパーマーケットに立ち寄って、いくつか林檎を見繕おう。彼女のバッグにくっついた、ヘルプマークみたいに真っ赤なやつを。移り行く街並み、アンブレラの花弁、そんなありふれた光景をこの眼に投じつつ、ガラス窓の縁に頬杖をついて、ぼくはただ、そう思っていた。