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第5話 夏の太陽の下へ (3)

 洋が名前を当てても、特に彼の動揺は見られない。始めからわかるのが当然なのか、もしくはわかってこその犯行なのだろうか。

 どちらにしても、恵美香の身が危ないのには変わりない。ナイフを喉元に当てられた少女は何も言わずに、歯を噛みしめている。

 青年――戸田明裕はサングラスの奥から洋を睨みつけた。

「こんなところで喫茶店を開いているなんて、知らなかったよ。君はとても有名で偏差値の高い大学に進学したから、その後も大手企業に就職したかと思った」

「明裕、何が言いたい。そんな話、こんなことをしなくてもできるだろう。お願いだから、彼女を放してくれ」

「断る。おおっと、あまり近づかないでくれ。可愛い小娘の顔に傷が付くよ?」

 ナイフの先端を恵美香の頬に触れさせる。冷たくも恐ろしいものが、彼女を恐怖ですくませていた。

「……何が目的だ。悪いが微々たるものしか金なんてない。だがそれでもし彼女が助かるのなら渡す」

「――そうだな、とりあえずお前と話がしたい。他は邪魔だ。とっとと出ていけ」

 そう明裕は言いながら、ぐるりと店内に残っている客を見渡す。見られた人々はぎょっとしながら、急いで支度をし始めた。

 一方で水菜は動こうとしない。何を言われても最後まで残っているつもりなのだろう。

 明裕はナイフを使って指図をしながら、残っていた客に外に出るよう促している。

「警察には連絡するなよ。連絡したら、この小娘の首に赤い線が走る。どうせお前たちには関係がないことさ。何もしなければ、俺もお前らや小娘に対して何もしない。それで十分だろう」

 びくびくとしつつも、首を縦に振って肯定の意を示す。そして残っていた客は足早に去っていった。

 ふと視線が座っていた光二たちに向けられる。

「お前らも出ていけよ」

「……断るわ。大切な友人に何かしないよう、見張っていなきゃいけない」

 手に汗を握りつつも、勢いに負けないように水菜は答える。

「ふうん、友達か。まあいい。時間も無いし、すぐに終わるから、大人しく傍観していろよ。そこの男も」

 逆らう気などあるわけない。固い表情で頷いた。そしてようやく明裕の視線が洋へと戻ってくる。サングラスを外すと、一同は目を丸くした。そこには以前営業に疲れてやってきた青年の顔があったのだ。そんな驚きも気にせず、明裕は言葉を発した。

「さて、久しぶりだな、洋。葬式以来だから、三年ぶりか?」

 その言葉を聞いた晴美の表情が強ばる。洋の過去話から推測すると、明裕が言っているのはかつて恋人であった夏美のことだろう。洋の表情はさらに険しくなった。

「そうだね。三年前はあまり話さなかったから、正直よく覚えていなかった」

「そういえば、ずっと暗い顔をしながら、立ちすくんでいたな。――まったく、俺が晴美から手を引いたがために、あんなことになってしまったなんて、何て不運な女性だったことか」

「手を引いた……?」

「はあ、何も知らずに付き合っていたのか? 俺は彼女から告白されたが、お前のことを知って、断ったんだぜ?」

 洋の表情が豹変した。それを見つつも、光二は晴美の様子を垣間見た。彼女の表情はなお怪訝そうであった。

 どうやら今の発言は嘘の可能性が高い。だがなぜこんな嘘を吐く必要があるのだろうか。

 そんな考えを巡らしている中、明裕は洋の過去に背負っているものを深くえぐる、決定的な言葉を放った。

「どうせ夏美はお前と一緒にいたがために事故にあったんだろ。お前のせいで夏美は死ん――」

「いったい何を根拠にして言っているのよ!」

 突然の大声に、びくっとしながら光二は隣を見ると、水菜が机を叩いて、その場に立ち上がった。

「あれは事故だったと聞いたわ。その原因は事故を起こした人にあるでしょ!」

「君はまだ人生を歩んできた道が少なすぎるようだね。あまりすぐにかっとするはよくないよ」

 明裕は面白くなさそうな表情をして、ぐいっとナイフを恵美香に近づけた。それを見ると、彼女は悔しそうに口を閉じる。

「……それで、何がお望みなんだい?」

 洋は視線で水菜を静かに宥めながら、感情を抑えた声を出した。

「いや、別に。幸せそうに生きているお前がただ憎たらしかっただけさ。その人生をちょっといじってやろうと思って。……そうだ、よかったら紅茶でも淹れてくれよ」

 明裕はそう言いながら、ちらりとカウンターの方へと視線をやる。それに対して洋は大人しく従い、カウンターへと行くと、水を入れて温め始めた。

 火をじっと見つめながら、洋は明裕に背を向けている。考え込みながら、泡のように吹き出るものを抑えていた。

 いったいこの状況をどうすればいいのか。彼の目的がはっきりとわからないし、恵美香もいるため迂闊に動けない。

 だがその時、場違いなことにドアベルの音が鳴り、それと同時に少年が一人入ってきた。

「恵美香ちゃん!」

 思わぬ珍客に明裕や他の人の気がそっちに向く。

 その時、ふいに明裕の体が宙を舞った。

 そして音を立てて、背中から床に叩きつけられたのだ。

 一瞬の突飛な出来事に一同は唖然としてしまう。

 よく見ると、恵美香が彼の腕を両手でしっかり持っていた。

「え、池中……?」

 思わず小さく声を零してしまう。呻き声を上げている明裕を険しい目で見ていた恵美香は、急に手を離し、彼を飛び越えて義樹の元に駆け寄った。

「義樹君、急にどこに行っちゃったのよ」

「ご、ごめん。つい勢いに乗って」

「みんな心配していたんだから!」

「だ、だから、ごめんって」

 義樹が半分おどけながら恵美香と話している。しかしどこかぎこちない。心ここにあらずといった様子にも受け取られる。

 光二もよく状況が把握できず、頭の中がパニックした状態で、何気なく水菜を見ると、彼女は溜息を吐いていた。

「えっと、あれは……」

「見た通り、恵美香がやったのよ」

 どうやらさっきの出来事は見間違いではないらしい。つまり恵美香は明裕を――背負い投げしたのだ。

 緊迫していた空気が緩み、穏やかな雰囲気が流れる。だが次の瞬間、晴美が息を呑んだ音が聞こえた。その先には、いつのまに起き上がりカウンターの向こう側へと飛び越えた明裕が、洋に向かってナイフを突きつけているのだ。

 その先端を洋はただ無表情に見つめている。

「どうして、どうしてお前ばっかり!」

「何か不満があるのなら、僕に当ててくれて構わない。それで気が済むのなら――」

「その偽善者ぶる様子がムカつくんだよ!」

 一声間を置いて、明裕は続けた。

「自分が犠牲になればそれでいいのか。それなら晴美はどうして、死んだんだ!」

「それは僕が悪い――」

「違うわ、洋さんのせいじゃない!」

 少女の悲痛な声が洋の言葉を遮った。

 義樹は叫んだ少女の背中を驚きながら見る。その背中は震えていた。

「あの時の事故を何も知らないで、勝手に考えを巡らさないで! それに洋さんも洋さんよ。どうして事実をはっきり言わないの。そんな風に生きて欲しいなんて、夏美さんは思ってない!」

 恵美香はいつも着ていたカーディガンを脱いだ。その右腕には生々しい傷の跡が残っていた。そしてそこの部分をさすりながら、顔を青くして口を開く。

「あの時の事故――、今でも覚えている。轟音が鳴り響く中、夏美さんたちがとっさに私を押してくれた。そのおかげで私は軽傷で済んだわ。けど洋さんは重傷、そして夏美さんは――。……本来なら私が責められるべき立場よ」

 だが二人に対して鋭い視線を送った。

「だけど私はその得た命を大切にしたい。そして悔いた過去を、これからのために生かしていきたい。過ぎ去ったことはもう戻れない。だからいつまでも引きずっていたり、勝手に自分の妥協点を見つけたりして、さらなる高みを持って未来へ目を向けられない人がいていいはずがない!」

 その言葉はぐさりと光二の心に刺さった。周りを見渡してみれば、義樹や洋も唇を噛みしめている。

 恵美香にとって、その事故の出来事は衝撃過ぎてかなり精神的にも参っただろう。それでも前を向いて歩いているのが、本当に眩しすぎた。

 大人にも成りきれていない彼女なりの持論を出すまでに、様々な想いの交錯があったはずだ。もしかしたらまだ迷っている途中なのかもしれない。しかし、その等身大の真っ直ぐな想いは、そのまま人々の心に焼き付いた。

「戸田さん……でしたよね」

 ずっと黙っていた晴美が急に口を開いた。

「夏美姉さんのこと想っていらっしゃったみたいですが、それは片思いだったのでしょう? それなら、彼に当たるのはお門違いかと思います。それとも――」

 数歩近づき、はっきりと明裕の表情が見える範囲まで行った。

「ただ単に自分が持っている不幸を、当てつけにばらまこうとしているのですか? お仕事や交流関係で上手く行かなくなったために」

 明裕の眉間にしわが寄る。図星なのかもしれない。前に会った時の彼は非常に疲れている様子であった。何かあったに違いない。

 しばらく黙りこんでいたが、やがて明裕は息を吐き出し、やれやれと肩をすくめる。

「そうさ。自分一人だけ不幸なのも嫌だから、少しだが幸せそうに生きているこの男を見て、無性に腹が立ったのさ」

「特に人を傷つけようとしないところを見ると、せいぜい評判落ちを狙っていたのかしら」

「それもあるが、もっと根本的なところもある」

 すると目を見開き、呆然と立っていた洋に向かってナイフを振りあげた。

 洋は思わず避けようとしたが、狭いカウンター内ではよく動けない。反射的に横に逸れるしかできなかった。

 気が付けば後ろから義樹や恵美香が、明裕を取り押さえようとしている。

 それに続けと、光二も勇気を振り絞って近づこうとした。

 だが二人の争いの最中に、火を沸かせていたポットが床に落ちた。

 その衝撃で炎も共に、床のマットへと飛び散ったのだ。

 すぐに火はマットを燃やし始め、さらに大きくなろうとしている。

 異変に気づいた光二や水菜、そして晴美はすぐに消そうと試みた。だが水があるカウンター内では、洋と明裕が対峙している。他に消すものと、辺りを見渡した。

 一方で、二人も炎には気づいているはずだが、動こうとしない。

 そして義樹と恵美香も炎に妨げられて、彼らに近づくに近づけなかった。

 ナイフの出方を見ている洋に明裕は囁きかける。

「いいのか、大切な喫茶店がなくなってしまうよ」

「大切……か。確かに思い出も詰まった大切な場所だが――」

 何かに対して躊躇った洋は視線を下ろしたが、それによって隙が生まれる。明裕はその隙を突こうと、ナイフを突きだした。

 恵美香が声を最大限使って叫んだ。

 義樹も必死に手を伸ばそうとしたが、間に合わない。

 瞬間的に水菜は目を瞑った。 

 だが、ただ呆然とその光景を見ていた光二は、一部始終をじっくりと見ていた。

 ほとんど抵抗しなかった洋が、その切っ先に向かって左手を伸ばし、ナイフをしっかり握りしめたのだ。

「――それ以上に大切なものは、僕の心の中にいつまでも残っている」

 その言葉共に、洋の瞳には迷いが消え去ろうとしていた。

 握られたナイフからは血が滴って床に落ち、次第に量が多くなっていく。だが洋は顔を歪ませることなく、握っている。

 予想外の抵抗に明裕はナイフを引き抜こうとした。だが強く握っているためか、さらに血が溢れでるだけで、引き抜けない。

「な、何するんだ。放せよ。大人しく刺されろよ!」

 動揺が言葉となってすべて流れ出てくる。洋はただ静かに呟いた。

「別に僕に恨みがあるのは構わない。でも、君が犯罪者にはなっていけない。どんなに辛くても、どんなに苦しいことがあっても、それだけは進んではいけない道だ」

「わかったような口を叩くな。所詮こんな喫茶店で人生を終えるやつにはわからないことさ! 社会がいかに残酷で、救いもないことに。使えないと思えば、切り捨てられる。――そんなことをわからないお前が、何を言う権利がある!」

「そのことを言う権利は僕にはない。でも、君がしていることはやってはいけないことだ。それを止める権利ならある。きっと夏美もこうするはずだから」

 夏美という言葉を出すたびに、苦い顔をしていたが、今は少しずつ変化が生じていた。しっかりと現実を見つめなおそうとしている。そして、絶望を感じつつも、少しだけ前を向いて生きようとし、それを他人にも共有して欲しいと気持ちも伝わってきた。

 しばらく拮抗状態が続いたが、やがて明裕はナイフから手を離し、憑き物が取れたように、その場にしゃがみ込んだ。洋が握っていた血みどろのナイフは床に音を立てて落ちる。

 そして晴美はようやく見つけた備え付けの消火器の元に飛びつき、急いで火に対して振りかけた。大きく成りつつあった炎だったが、少しずつ小さくなり、ようやく消えた。それを見届けると、晴美は近くの机に寄りかかりながら、ほっと一息吐いた。

 一区切りついた所で、戦意が消失している明裕を飛び越えて、恵美香が焦ったように洋の元へと近づく。

「洋さん、なんて危険なことをするんですか!」

 滴る血を見ながら、青ざめた顔で言う。

「恵美香ちゃん、そういう君だって危ないよ。いくら柔道で段を持っているからって、ナイフを持っている相手に技をかけるなんて。一歩間違えれば、君自信が傷ついたかもしれない」

「あれはきちんと計算してやりました。とにかく止血しましょう。そして救急車を」

「いや、大丈夫。自分で病院には行く。なるべく騒ぎにはしたくないから」

 視線を下げつつ、うなだれている青年に視線をやる。その意図を汲み取った恵美香は軽く頷いた。

 そして洋を近くの椅子に座らせ、適当なタオルを持ってきて、巻き付けようとする。だがそれを晴美が制し、タオルを恵美香から取り上げた。不思議そうに恵美香は彼女を見ると、そこには憂いの表情を浮かべている。そしてタオルを巻きつけながら、言葉を漏らした。

「意外に無理をなさるんですね、あなたは」

「昔、よく言われました、お姉さんに」

「気をつけてください。今のあなたには、きっとかつての姉以上に慕っている人が多くいるのですから」

「……ありがとうございます」

 そう微笑みながら、優しい声で返す。やっと洋の顔に穏やかな表情が戻っていた。

 明裕の暴走も終わり、火も消し止められ、洋の応急処置をしているのを見ながら、どうにか本当に落ち着いたようだと光二は実感した。

 だが、よく見れば依然立ちすくんでいる少年がいる。腰でも抜けたのだろうか。いや、それにしては表情がおかしい。戸惑っているという方が正しいだろう。

「義樹、いったいどうしたんだ?」

 突然舞い戻ってきた少年の視線は恵美香の方に向いている。光二は首を傾げながら、質問を続けた。

「そもそもどうして戻ってきたんだ」

「たまたま店の近くを歩いていたら、この喫茶店に可憐な少女が人質に取られたって聞いて。それで慌てて戻ってきたら……、え、恵美香ちゃんが、お、男を、せ、背負い投げてして――」

 義樹の心の中で何かが崩れているのが、よくわかった。彼にとっては、衝撃すぎる、予想外の出来事なのだ。

 洋の応急処置が済むと、恵美香が笑顔で義樹の方に向いた。そして軽やかに足を弾ませながら、近寄ってくる。それに対して、彼は思わず一歩下がってしまった。

 だが、有無を言わせずに、ぎゅっと両手で恵美香は義樹の手を握ったのだ。

「義樹君、仕切り直しで、もう一度、光二君と話して」

 義樹の顔色が見る見るうちに赤くなっていく。照れの赤さではない。

「わ、わかりました。だから放して、もうお願いだから放してくれ!」

 そう叫ぶと、ぱっと放した。右手が真っ赤になっている。手を振りながら、痛さを和らげようとしていた。

「大丈夫? どこか痛いの?」

「近づかないでくれ。お願いだから、やめてくれ!」

 目を丸くしながら、恵美香は立ち止まる。彼女は何をしたか気づいていないようだ。

 そして義樹は光二ぐらいにしか伝わらないであろう、心の叫びを露わにした。

「俺のか弱きお嬢様との夏の青春を返してくれ!」




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