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第4話 角砂糖が溶けるまで (3)

 * * *



 八月の終わり、洋は夏美の誕生日に夏にとれるフルーツを中心に使ったタルトを作り、それをプレゼントした。彼女はそれを笑顔で受け取り、そして非常に嬉しそうに食べてくれた。

 ただし味に関しては少々厳しい内容で言及される。個人的にプレゼントをするくらいならいいが、もしお金を取って出すのなら、まだまだ出せるレベルではないと。

 だが、美味しそうに食べている顔が忘れられず、機会があるごとに、様々な種類のケーキを作り、それを試食してもらっていた。

 そのような感じで穏やかな日々を過ごしつつも、時はあっという間に過ぎ去り、三年生の後期へとなっていた。

 秋も深まる中、世間では就職活動を始める季節。建築学科に進んでいた夏美はそのまま大学院に進むため、特に就職活動はしていなかった。一方、洋は学部で卒業予定のため、少しずつは始めていたのだ。

 そんなある日、バイトの休憩中に洋は夏美から指摘をされた。

「どうしたの、何だか元気ないよ」

「そうでもないけど……」

「まだ就職活動も本格化していないのに、何だかやる気がないっていうか、諦めっていうか……。とにかく変」

 夏美にばっさりと切り捨てられ、表情が固まる。特に表面に出して意識はしていなかったが、洋の心の深淵では密かなる葛藤があったのだ。

「どこの業種に進むとかは決めてないの?」

「まだ……」

「そんなに内気だと、面接とかで押されちゃうよ?」

「夏美なら、どんな状況でも押し込むよね」

「私のことはいいから。――何か悩みでもあるんでしょ。もう何年付き合っているのよ。何かあるってすぐにわかるんだから」

 視線を逸らしている洋のあごを持ち、夏美自身の目線へと上げた。

「いい加減に自分の中に溜め込むのは、やめなさい」

 真っ直ぐな目で出される言葉。嘘偽りのない、ずっと洋が憧れていた目。

 それに促されるように、言葉を漏らした。

「就職活動とは別に……自分の興味と実力を試そうかどうか迷っている」

「実力を試す?」

 夏美は手を放し、口を開いた洋をじっと見た。真剣な目で見透かされ、自然と言葉が漏れてくる。

「――ケーキ作りやお菓子作りを本格的に勉強して、パテシィエを目指そうかと」

 誰にも言ったことがないこと。言ってしまえば、ほとんどの人には笑い飛ばされるか、反対されるか目に見えていたから、ずっと胸に秘めていた。だが、もっとも親しい女性になら言ってもいいと思ったのだ。

 すぐには返答がない。だが、しばらくして夏美は笑いもせず、そして驚きもせず、ただ静かに笑みを浮かべたのだ。

「本当の洋の胸の内はそうだったのね。言ってくれて――ありがとう」

 まったく予想外の返答だった。むしろ洋の方が呆然としてしまう。

「何となく気づいていたわよ。あなたが喫茶店でバイトを始めて、ケーキやお菓子作りに興味を持ち始めた頃から。――その様子だと、自分以外に言ったのは私が初めてかな」

 こくりと首を縦に振った。それを見るとまた嬉しそうに言葉を繋ぐ。

「目指してみれば、自分の夢に向かって」

「でも、そんな夢話、ほとんど無理に近いじゃないか。僕のことをよく知っている、夏美だから笑われなかったけど、たいていこんなことを言っても取り合ってくれない。普通の生活を過ごした方がいいって言われる」

「普通って、何?」

「だから会社に勤め、結婚して、ささやかな幸せを目指すことだよ。世の中には、もっとパテシィエに適した人がいるのに、ただ興味だけで進むのは……って思っている」

 景気はあまり良くない世の中で、また別の道を一歩踏み出すことをするには度胸が必要である。それがよりよい技術を要することになるのなら、尚更だ。

 躊躇っていた言葉を口にするだけで、後悔も生じてしまう。ずっと自分の中で夢として閉まっておけばいい。そう――、思っていたはずだった。

「諦めの言葉を吐いている割には、決めかねた表情をしているのね」

「だから、ただの夢だって。――やっぱり何でもない。就職活動して、自分に少しでも合う会社を探すよ」

 夏美から視線を逸らし、伝票を持って立ち上がろうとした。その時、急に手を捕まれた。華奢な手が必死に握りしめている。

「な、何するんだ。離してくれ」

「……諦めていいの。ずっとその大切な想いを一生無視し続けるつもり?」

 徐々に声が大きくなっている夏美を見て、慌てて押さえようとする。周りの視線が少しずつ集まっていた。

「夏美、とりあえず落ち着けって」

「落ち着いているわ。ただ、ようやく求めていた夢を放り投げている人を見て、腹が立っているだけよ!」

 さっと席を立ち、バックを引っ手繰って、足早に外に出て行ってしまう。そんな彼女の後ろ姿を見つつ、急いで会計を済まして追いかけ始めた。

 夕暮れの時間帯になっており、足早に家へ戻る人々の影がアスファルトに映し出されている。小走りをし、長く延びる夏美の影に、そして彼女本人にも追いつき、手首を握って止めさせた。途切れた息の中、言葉を出す。

「待ってくれよ」

 俯いたまま、彼女はぐっと口を閉じている。だが逃げようとはしなかった。

「……ごめん」

 何とか口を聞いてもらおうと、振り絞って出てきた言葉は、ひどく簡素なものだった。何を言えばわからない、そんな状況だ。

「――どうして謝るのよ」

 返された言葉に答えるのも困窮してしまう。

「ねえ、どうして」

 顔を上げた夏美は、何の曇りもない目で見てくる。

「何もしていないのに、謝らないで。まだ迷っている途中なのに、どうして謝る必要があるの?」

 そしてふっと顔を緩ませた。

「まだまだ私たちの人生はこれから。迷う日もあるけど、頑張っていこうよ。――ねえ、その夢、どうして追いかけないの?」

 夏美は手を握り返し、突っ立っている洋を歩くよう促した。引っ張られるように連れて行かれる。

「どこに行くつもりだ?」

「喫茶店のおじさんも昔パテシィエを目指していたんでしょ? それならまずは話を聞いた方が早い。だから行こう」

 少し強引で、不器用なやり方。だが、彼女なりの想いを込めているのだろう。その様子も洋が彼女に惹かれた一つだった。

 夏美に言おうと思った瞬間から、その後の道行きは決まっていたのかもしれない。夢を諦めきれない自分がいることも後押しして。



 * * *



 その後、喫茶店のおじさんに話を聞いてから、洋の気持ちは確実にパテシィエへと傾いていた。そしておじさんが昔勤めていたケーキ屋で、隙間の時間を使ってバイトをし始めることになる。

 とても素敵なところであり、パテシィエ志望の人もたくさんいたが、そこの店長はとても厳しかった。しかしその厳しさの中にも優しさが隠れており、誉められたときは嬉しく、毎日が勉強の日々だった。

 就職活動もしていたが、パテシィエを本気で目指したいと思い、意を決してやめたのだ。躊躇いがないと言ったらそれは嘘だろう。だが、そのおかげかすっきりした気分になったのも確かだ。

 やがて四年の夏、筋がいいと誉められていた洋は、約一年である一定のものが作れるようになったら、留学や他の店での修業も検討しておくと言われたのだ。もしそれが達成できなかったら、洋は今度こそその夢を諦めるつもりだった。

 親には上手く言いくるめて、卒業後は語学留学すると伝えていた。それが純粋な留学となるか、それとも他も付随した留学となるかは洋の力量次第だ。

 卒業論文の合間でひたすらケーキやお菓子作りの勉強をし、時間が確保できれば実際に作りもした。

 そのような忙しい日々のため、夏美と会う時間も必然的に減っていたが、何一つ嫌な顔をせずに、洋の夢を見守ってくれていた。夏の暑い日にはむしろ渇を入れたりと、本当に彼女の言動には、言葉にならないくらい感謝をしていたのだ。



 そして、無事に卒論も提出し、卒業式を迎え、また新たな生活が始まった。

 夏美は大学院へと行って自分の研究に更に没頭し、洋もパテシィエ留学を目標にひたすら頑張って、それぞれ充実した日々を過ごしていたのだ。

 そんな日がしばらく経った夏のある日に――全ては崩れた。



 * * *



 非常に暑い日々が続いていた中、突然前線が来て、雨が降り止まない日だった。そのため外に出れば、少し肌寒い状態。だがそんなのも脇に置いておけるほどに、二人の心は満ち足りていた。

 傘を並んで差しつつ、会話を弾ませている。

「本当におめでとう。無事に留学することが決まって」

「ありがとう。正直言って、かなり驚いているよ。僕が行っていいのかって、つい思ってしまう」

「いいのよ。少しはその謙虚さを置いといて、堂々と胸を張りなさい」

 洋の隣にはいつも支えてくれた小川夏美という、一人の女性。彼女のおかげで、留学まで辿り着いたと言っても、過言ではない。

 そんな彼女とずっと一緒にいたい。だが、留学をしてしまえば、物理的に会えなくなる。

 だから、その前に伝えたいことがあった。

 雨の中、赤信号を目の前にして立ち止まる。激しく往来する車が目に入った。

「なあ、夏美……」

「何?」

「僕がフランスに行っても、忘れないで、待っていてくれるかい?」

 言いながら、手をぎゅっと握りしめた。どうしてこのタイミングで言うのかよくわからないが、今言わなければいけない気がしたのだ。

 視線を夏美へと移した洋の瞳には、目を丸くした彼女が映っている。唖然とした驚きか。

 だがすぐに太陽のように燦々とした明るい笑顔を浮かべた。

「もちろん、待っている。だから、洋も私のこと忘れないでね」

 それは一生忘れられなそうな笑顔だった。彼女の名前の通り、夏のように明るく美しい表情。それは確かに洋の胸に深く残ったのだ。

 やがて信号が青になった。洋たちが渡り始める前に、愛くるしい一人の少女が飛び出し、楽しそうに横断歩道を渡り始めたのだ。その少女の後ろからは母親らしき人が、そして他にも大勢の人が歩いている。

 いつもと何も変わらない、一コマ――なはずであった。

 渡っている途中で、誰かが大声で叫んだのが聞こえたのだ。何を叫んだのかすぐにはわからない。何事かと思い、振り返ろうとしたが、その前につんざくような強烈な音が耳に入ってくる。

 その音の方向に向いたとき、洋と夏美の表情は固まった。そしてお互いの存在を確かめるよう、手をしっかり握りしめたのだ。



 そして――、その後の洋の記憶はしばらく途切れる。



 * * *



 次に洋が目覚めたとき、何重にも包帯に巻かれた右腕があった。そして心配そうに見つめている、横断歩道で見た少女のまん丸の目。その子も腕が包帯で巻かれていた。

 まず気づいたのは、ここが病院であるということ。そして何かが起こったということだった。

 しばらくは何も状況が掴めなかった。だが、目が覚めた後で洋が知ったことと、新聞で読んだことを合わせるとこういうことである。

 ある昼下がりの時間帯に、次々と人々をはね飛ばしていったトラックがあった。運転していた男の狂気は止まることを知らず、多くの人々に怪我を負わせ、そして命を奪いもした。その中に洋たちも含まれていたのだ。

 幸い命は助かった洋だが、腕に大怪我をしたためしばらくは以前のように使えず、ある程度リハビリが必要と言われた。

 それはまだよかった。事情を話して、留学を延期すればいい。

 だが、怪我など忘れてしまうことが起きていたのだ。



 ずっと憧れて、大切な人であった夏美はすでに洋の手の届かないところに行っていた――。






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