検査中の胃カメラが外的要因で破壊された。たぶん僕の胃の中に何かが居る
シグナル・ロスト
パソコンのモニターの画面が暗転し、そんな表記が浮かび上がっている。
横になりながら画面を見つめる僕は、動悸が止まらない。
モニターに映っていた画面は、僕の胃に入った胃カメラの画像だ。
そして、暗転する直前、僕は確かに見たのだ。
胃カメラのライトが照らした先にいた異形の存在――黒い外殻を有する謎の二足歩行生物を。
☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
「胃カメラのオプションを付けませんか?」
初めて人間ドックというものを受診してみた朝のこと。
受付のスタッフさんからそんな提案を受けた。
「一件キャンセルが発生して空きがあるんです。有償オプションになりますが、いかがでしょうか」
ふむ、と僕は考える。
値段は8,500円だそうだ。
この病院は僕の勤め先と連携しており、3,000円は会社負担分になる。
だから僕の実質負担は5,500円。
正直、高いと思う。
だけど胃カメラの検査がそれ以上の価値をもたらしてくれるなら、検討の余地はあるはずだ。
「胃カメラをするメリットはどんなものがあるんですか?」
まだ朝早くなので、僕の他に患者はいない。
だから僕の問いに対応する余裕もあるだろう。
そう思って聞いてみた。
「まず人間ドックでは胃部検診としてバリウムを飲みレントゲンを撮りますが、終わった後に下剤を飲んでいただき、体内のバリウムを排出する必要があります」
スタッフさんはそう前置いて、説明を続ける。
「人間ドックの検査自体は午前中で終了するのですが、下剤の影響で午後の時間を有意義に使えないことを不満に思う方もいらっしゃいます。そういう方は胃カメラを好みますね」
なるほど。
五千円少々を支払い、午後の時間を買うという発想か。
「胃カメラを受ければ、バリウムは飲まなくていいんですか?」
「はい」
「どっちの方が正確な結果が出るんですか?」
「胃カメラです」
即答だった。
オプション検査の販促用トークと言うよりは、医療に携わる者としての常識を語るかのような断言だった。
「あの、胃カメラって痛くて苦しいって聞いたことがあるんですけれど」
「事実です。痛くて苦しいです。嘔吐感が強く、オエってなります。だけど私は自分が受診する場合、毎回胃カメラを選んでいます」
スタッフさんは胃カメラ派らしい。
「脅すような言い方をしましたが、うちの胃カメラは経鼻内視鏡――つまり鼻から通すカメラです。これだと口から入れるものよりも負担感がとても少ないですよ。横になってモニターでご自身の胃を見ながら、ドクターに質問することもできます」
ふむ、と僕は改めて考える。
初めての人間ドックだし、少々奮発してもいいだろう。
胃カメラで今年問題なしと分かれば、来年はバリウムにしてもいいわけだし。
「じゃあ、胃カメラで」
僕が注文すると、スタッフさんが「わかりました」と応じた。
☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
胃カメラの部屋に通された。
鼻を拡張させる薬を嗅がされ、さらに麻酔薬の注入を受ける。
しばらくすると鼻がスーッとしてきた。
胃カメラを受け入れる準備を済ませ、ベッドの上で体を横たえていると、スニーカーを履いたドクターがやってくる。
「胃カメラは初めて~? ちょーっと気持ち悪いかもだけど、大丈夫だよ~」
間延びした声で語るドクターが「画面見える~?」と聞いてくる。
僕の視線の先には、カメラの映像が映し出されるモニターがある。
「じゃあ入れますね~。最初はちょっと痛いよ~」
鼻の奥に異物感。
なるほど、痛い。だけど耐えられないわけじゃない。
「喉のところに来たよ~。ここがいちばん苦しいところ~。過ぎちゃえば若干楽になるからさぁ」
ぐいっ。
喉のところに強烈な感覚が奔る。
「吐きたい気持ちを我慢して~、そう、そう、はいおっけ~」
おっけ~、と言う言葉の後には、僕の方でも状況を確認するだけの余裕が生まれた。
モニターを見ると、ぐんぐんとカメラがピンクの肉壁のエリアを進んでいく。
「食道はキレイだね~ このまま胃に行くよ~」
映像が少し広いエリアになった。ここが僕の胃らしい。
「ん~?」
ふと、ここで。
ドクターの手が止まる。
「なんだろうねぇ~? なんだろう? 今、何か影が動いたような気が――」
僕とドクターが画面を見つめた、その瞬間だった。
突如としてカメラの画面が揺れた。カメラが揺れ、僕の吐き気が増す。
そして画面に映る、異形。
黒い外殻を有する謎の二足歩行生物。地球上にはまずいない――いたとしても、深海だとか火山の中だとかくらいで……人間が在留できるエリアにはおよそ存在を許されなさそうな……そんなビジュアルの何か。
バケモノ。
そう呼称するが相応しい外見の何かの姿を、カメラはしっかりとらえて。
次の瞬間、カメラが死んだ。
「…………!」
急に無口になったドクターが、手を動かす。
そして再びの嘔吐感。僕の鼻から機械が引きずり出されて、ドクターが表情を強張らせる。
「……まったく、信じられんな。グラスファイバー製だというのに」
呟くドクターに、僕は聞く。
「あ、あの、さっきのやつはなんでしょう? カメラはどうなったんです? 僕の胃の中に何がいるんです?」
するとドクターは「大丈夫ですよ」と言う。
「ほ、本当に大丈夫なんですか?」
「大丈夫です。大丈夫。ただ、ちょっとだけ連絡をするんで、待っていてくださいね。大丈夫ですよ」
言葉の間延びを消したドクターは、壁際にあるボタンを押して、言う。
「院内各位に告ぐ! コード『ラプラス』、繰り返す、コード『ラプラス』! 総員第一種医療配置!」
ヴィーン! ヴィーン!
鳴り響く警報音。
僕の耳が正確であれば、この建物のあちこちで重い隔壁が閉じていくような音がしている。
「あの、これは本当に大丈夫なやつですか⁉ 僕の胃もそうですが、施設的な意味でも大丈夫ですか⁉」
焦りを込めて訊くと、ドクターは「ええ、大丈夫なやつです」と返答。
嘘つけ絶対大丈夫じゃないぞコレ。
明らかに大丈夫な放送内容じゃなかったぞコレ。
そして僕は思うのだ。
――これから一体、何が始まるんだ?
☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
十分後。
僕のベッドの横には、数多の白衣の集団が集っている。
彼らは先ほどまで僕が見ていたモニターを見ている。
寝たままの僕は、彼らに遮られてモニターが見えない。
「こいつは一体なんだ?」
「分かりません、一切のことは」
「専門的なことはともかく、こいつを野放しにしてはヤバいということは分かるだろう?」
白衣の面々が何やら喋っている。
さっき僕は「本当に大丈夫ですか?」と再度聞いてみたのだが、場にいる全員が「大丈夫です」と圧をかけてくるので黙るしかない。
と、そこに。
カツカツと刻み込むような足音が響く。
そして場に表れる、黒いスーツを着た男。
「――お待たせしました。お待たせし過ぎてしまったかもしれません」
スーツの男がそう言えば、白衣の者たちは不敵に笑う。
「来てくれたか、富士フイルムさん」
誰かがそう言って、スーツの男も不敵な笑みで応じる。
「ええ。必要とあらばどこにでも」
黒い男はスーツケースを手にしている。
それを開き、中から取り出したのは、トリコロールな配色の胃カメラだった。
「胃液環境下での戦闘は弊社としても未知の領域ですが、このEG-78-2ならば問題なく対応できるはず。課題があるとすれば、これを制御できる技量のある担当医がいるかという点ですが――」
「その点については問題ないよ」
白衣の集団のなかから、一人の男が前に出る。
天然パーマが特徴的な医師だ。
「僕がやる。僕が一番上手いはずだ」
彼がそう言うと、場の面々が頷いている。
「ああ、そうだな。お前に全てを託そう」
「あなたの腕に期待していますよ」
……なんか場の空気が納得方向に進んでいる。
ベッドで横たわる身としては、全然納得できていない。
この状況を構成しているあらゆる要素について説明を求めたいのだが、僕の体の話だというのに、誰も僕に興味を向けていないのが悲しい。
今、天パの医師がパラパラと取扱説明書を読んでいる。
そんな速度で読んで大丈夫なのだろうか。読み落としはないのだろうか?
僕の体と、何より命にかかわってくる状況だ。誰も説明してくれないけれど、多分そうだ。
念には念を入れてもらいたいんだけど――
「OK」
天パが呟いて、トリコロールの胃カメラを手にする。
「EG-78-2、行きます!」
ずぼっ!
遠慮も何もないインサートが、僕の鼻の穴を襲った。
「うおおおおおおおおっ!」
胃カメラの検診中とは思えない気合と声量で、天パの医師が胃カメラを繰る。
僕の鼻の穴が信じがたい勢いで蹂躙されているのだが、場の医者たちは誰も気にしていない。
こいつらは本当に医者なのだろうか。
医者のコスプレをしたヤバい奴らなのではないだろうか。
だいぶ荒んだ感想を持つ僕だが、すぐに場の面々が緊迫した。
カメラが到着したのだ。僕の胃のなかに。
未知なる存在が待ち受ける、決戦の舞台に。
「どこだ、どこにいる……」
天パの医師が画面を見ながら呟いて、次の瞬間。
「上か!」
天パがカメラを操作する。
モニターの画面に踊る、黒い影。先ほど僕が見た異形。
『キシャアアアアアアッ‼』
胃カメラにマイクがついているなら、きっとそんな声を拾っただろう。
鋭い爪と牙を剥いて襲い掛かってくるバケモノに、胃カメラが立ち向かう。
ガキィン!
相手の爪と、胃カメラの先端部に展開した刃が激突した。
「なんという奴だ……これまで数多の腫瘍を葬ってきた弊社特製のカメラ用ナイフと渡り合うとは」
黒スーツの男が、モニターを見ながら呟いている。
その後も数度、バケモノとカメラは互いに間合いを図りながら、刃と刃のやりとりを繰り返した――僕のお腹のなかで。
いや、もう本当に勘弁してほしい。
なんで僕の胃の中で戦争してるんだ。
僕が泣き出したくなっていると、戦況が大きく動いた。
「そこっ!」
集中力勝負で、バケモノよりも天パ医師が僅かに上回ったのだ。
勝負が硬直した一瞬の間隙を縫い、天パ医師が駆る胃カメラが、その先端部の刃をバケモノの頸部に肉薄させる。
バケモノは両手で懸命にカメラの刃を抑え込もうとするが、体勢を崩したため、カメラを押し戻せていない。じり、じりとカメラの刃がバケモノの首に迫る。いくら相手が未知の存在でも、首の上下を泣き別れにされたのでは、おそらく活動できなくなるだろう――
「‼」
ふと。
天パ医師が目を見開いた。
距離が縮まるにつれて大写しになるバケモノの顔。
その口がガパッと開き、その奥から何が鋭いものが顔をのぞかせたのだ。
「刺突用の舌か!」
気づいた時には、もう遅い。
鋭い一撃がカメラを撃ち抜いて、カメラの画像があやふやになった。
「やられた!」
誰かが叫ぶ。諦めのムードが漂う。
だが、まだ希望の光を消していないものが場にいる。
それが天パ医師と黒スーツの男だ。
「まだだ! たかがメインカメラをやられただけだ!」
天パが叫び、黒スーツが応じる。
「あの刺突舌の形状は銛のようでした! 一度打ち込まれれば抜けずに深手を負うものではありますが、それが逆に相手の仇になる! あの銛は打ち込んでしまえば相手も引き抜くのに時間がかかる諸刃の剣! つまり、相手は今、動けない!」
「だからこそっ!」
天パが吼える。勝利を掴み取るために。
「最後の一撃が必中する!」
サブカメラが展開し、不明瞭ながらも視界が回復する。
口から伸ばした銛を抜こうとやっきになっているバケモノに向け、カメラに搭載された何かがゆっくりと伸びていく。あれは――銃口?
「これが、最後の、一撃だぁぁぁぁぁぁぁっ!」
瞬間、強烈な光がモニターに溢れた。
光が胃の中を全て洗いつくした時、画面にはもう何も映っていない。
胃壁に散った黒い破片のようなものが、僕の胃の中に「何か」が潜んでいたことを物語っている。
だけどもう、あいつはいなくなったのだ。
「ふううううううううううっ」
天パ医師が大きく息をつくと、場が勝利の熱狂に包まれる。
僕としては「最後の一撃がもし外れていたら、僕の胃はどうなっていたの?」と考えて冷や汗がだらだらなのだが、場の熱狂は僕の肝の温度なんて知ったことではないらしい。
そして、みんなが英雄を称える中で、天パはポツリと呟く。
「患者の命が救われる……こんなに嬉しいことはない」
熱狂の気配のなか、その言葉だけは僕も耳にはっきりと聞こえた。
そして僕の「結局何が起きていたんです?」や「そもそもあなたがたは一体?」という問いは、その後も全て無視されてしまった。
☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
「君はまだ帰れないよ~」
「え?」
胃カメラ検査……というよりは胃カメラ戦争が終わったので、僕が帰ろうとしたところ、言葉の間延びを取り戻したドクターからそんな無体なことを言われた。
「当然でしょ~。胃カメラは十二指腸までしかのぞけないからさ~、君のお腹にいたあいつが腸にも潜んでいる可能性を排除できないんだよね~。やるなら徹底的にやらなきゃね~」
「じゃあどうやって……」
そう言って、僕はハッとした。
嫌な予感がする。
でも、僕の頭ではもう、その可能性しか思いつかない。
そして。
その医師は僕の顔を見つめて、真顔で言うのだ。
「大腸カメラって言葉は知っているかな~?」
その三日後。
僕のお尻の穴から、腸管戦争が幕を開けた。