010. イベントライブに向けて(7)
ライブ前日、優里は最後のレッスンを終え、僕は優里の家で先に夕飯を作っていた。
今日の料理はハンバーグ。ひき肉をボウルに入れて、塩コショウを振り、卵と牛乳、パン粉を入れて混ぜ合わせる。楕円形の大きさにして、温めたフライパンで中火で焼き色が付くまで焼いていく。出来上がったものを皿に移し、ソースをかける。付け合わせにポテトサラダを作って完成だ。
時計を見ると、もうすぐ六時になるところだった。そろそろ優里が帰ってくる頃だろう。
僕はテーブルの上に二人分の食器を準備していると、玄関の方から鍵を開ける音が聞こえてきた。優里が帰ってきたのだろう。いつものように元気な声で玄関から陽気な声が聞こえてくると思ったが、今日は違った。静かにリビングの扉が開かれる。
「ただいま……、龍之介」
無理に取り繕ったような笑みを浮かべた優里がそこに立っている。
「おかえり」
僕は何事もなかったかのように答える。
「今日、何かあったのか?」
「いや、ちょっと疲れちゃってさ……、ほら明日本番だからさ、早めに帰らせてもらったんだ」
優里は弱々しく笑った。
「そうか」
優里は再び僕の隣を通り抜けて、洗面所へと向かっていこうとする。
そんな彼女を僕は呼び止める。
「優里」
優里はゆっくりと足を止めてこちらを振り返る。僕は彼女の瞳を見つめながら言った。
「右足どうかしたのか?」
「っ!?」
僕の問いかけに優里は驚きを隠せない様子だった。
「なんで分かったの? 私、ちゃんと隠していたはずなのに……」
優里は信じられないものを見る目でこちらを見ている。
(分からないわけないだろ……)
僕は思わずため息をつく。何年一緒に居ると思っているんだ。感じた違和感の正体は歩き方だった。どこか右足を引きずるような動きをしているのを龍之介は見逃さなかった。
「痛めたのは今日のレッスン中か?」
「うん、でも大丈夫だよ。少し捻っちゃっただけだから……」
優里は申し訳なさそうな表情で俯く。
「とりあえず、座ってくれ」
僕は椅子を引いて、優里を席に着かせる。そして、冷蔵庫から取り出した保冷剤を持ってきて、それをタオルで包んで足首に当てる。捻った足は腫れて熱を持っていた。
(これは明日のライブに支障が出るかもしれないな……)
明日までに治ればいいが、おそらく難しいだろう。演者はステージに立たせず歌だけ披露するという手も考えたが……、やはりそれは違う気がする。僕は優里に気付かれないように、普段使っている業務用の携帯を手に取った。
だけど、携帯を持った瞬間――、優里が僕の手をギュッと掴んできた。
「お願い、最後までやらせて! このライブだけは絶対に成功させたいの!」
優里は必死に訴えかけてくる。優里にとって今回のイベントライブは今までの小規模なライブとは比べものにならないほど重要なのは僕も分かっている。
だからといって……、このままの状態でステージに立つのは危険すぎる。
「優里の気持ちは分かるけど、こんな状態で出るのは無茶だよ」
「無茶なのは分かってるよ。それでも私は歌いたいの!」
優里は強い口調で言い放った。こうなった時の優里は意外と頑固で、一度決めたことを曲げようとしない。そのことは僕が一番よく知っている。僕は深い溜息をついた。
「約束してくれ……。もし、途中で限界を感じたらすぐにステージから降りること。いいね?」
「うん、ありがとう……」
優里はほっとしたような笑顔を浮かべる。僕は苦笑いを浮かべた。
明日のライブのために練習してきた優里の努力を考えればやめるなんて選択肢はない。なら、精一杯僕がサポートしてやるしかないだろう。
それから、僕は優里の足のテーピングを行い、応急処置をした。
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ライブ当日――、会場である新宿『BLAZE』には多くの観客が集まっていた。
優里と僕は控室で出番が来るのを待っている。鏡の前で座っている優里は緊張しているのか体を強張らせていた。鏡の前に映る優里の顔は青白く、額からは汗が滲んでいる。
「優里、深呼吸しよう」
「う、うん」
僕が声をかけると、優里は大きく深呼吸をする。しかし、その顔色は良くならない。きっと、本番前のプレッシャーもあるのだろう。
僕は優里に向かってポケットに隠し持っていたパイン味の飴を放り投げる。
「えっ?」
優里は慌てて両手を伸ばして、その飴を受け取った。僕の行動の意味がよく分からなかったのか……、優里はきょとんとしている。
「昔さ……、演技の前によく飴なめてたんだよ。なんか落ち着くんだよな」
「そうなんだ……」
優里は小さく笑うと、包み紙を開いて口に含む。すると、少し落ち着いたようで、顔色が良くなっていく。
「そろそろ時間だな。行こうか」
「そうだね……」
優里は立ち上がり、ゆっくりと舞台袖へと向かう。僕は優里の後を追いながら、彼女の背中を押してあげた。まだ、足は完全に治ったわけじゃない。痛みもあるはずだ……。
だけど、彼女は弱音を吐かずにここまでやってきた。僕は優里を信じている。
やがて、観客席が見えてくる。満員御礼となった客席を見て……、僕は思わず唾を飲み込んだ。これだけの人が優里の歌を聞くことになると思うとなんだか不思議な気分になる。
「それでは、本日最後のイベントになります。今回はなんとサプライズゲストが来てくれています。どうぞ」
司会の声とともに照明が落ち、幕が上がる。そして、ステージの中央に設置されたマイクスタンドに西宮優里が立った。
「みなさん、こんばんは。今日は集まってくれて本当にありがとうございます。楽しんでいってください!」
優里はそう言うと、アニメ主題歌のイントロが流れ始めた。
優里は軽くステップを踏みながら、曲に合わせて踊り始める。観客は大盛り上がりで、その歓声が舞台裏まで聞こえてくる。僕はその声を聞きながら……、歌い踊る優里に視線を向けた。
その歌声はいつもよりも力強く感じられた。それはきっと気のせいではないだろう……。
ライブは順調に進んでいき、ついに曲は終盤を迎える。ギターの旋律とドラムのリズムが合わさり、優里の伸びやかな高音が響き渡る。
ラストのサビに入り、観客のボルテージは最高潮に達する。優里は歌いながら、一瞬だけこちらを見た。その瞳には力強い光が宿っており、彼女の想いの強さを感じさせる。
(あぁ、やっぱり優里は凄いな……)
僕は思わず笑みがこぼれた。
このライブを成功させたいという気持ちは彼女と同じだ。そして、優里は見事に歌いきった。優里は歌っている最中、ずっと笑顔で踊っていた。
僕はそんな優里の姿から目を離すことができなかった。
それは優里を見ている観客も同じだ。誰もが優里を食い入るように見つめている。
「ありがとうございました!」
優里は一礼をして、そのまま退場していく。僕は彼女の後を追いかけるようにして舞台袖へと戻っていく。そして、優里は控室に入ると、その場に座り込んでいた。
やはり、相当無理をしていたようだ……。
それでも、優里はステージの上では決して弱音を見せずに歌い切った。
「優里、お疲れ様……」
「うん……」
優里は俯き加減で答える。僕は黙って優里に肩を貸す。
そして、ゆっくりと歩き出す。優里は僕に体重を預けながら歩いていく。未だに熱が冷めない会場からのざわめきが聞こえる。
「ほら、これ羽織って帽子被って」
「うん……」
僕は自分の上着を脱いで、それを優里にかける。そして、彼女に変装用の帽子をかぶせる。これで少しはバレるリスクが減るだろう。
呼んでおいたタクシーに乗り込み、目的地を伝えると優里は疲れたのか眠ってしまった。