第七十五話 風波
第七十五話です。大変お待たせしてしまい申し訳ございません。区切りがつかずいつもより少し長めになってしまいましたが最後まで読んで頂けると嬉しいです。
今回は少し、少しだけ。感傷的に参りましょう。
心地よい涼風が肌を撫でる。噴水の水飛沫が首筋に跳ねて、照りつけた陽の暖かさがぼやけていった。
「行っちゃった。」
離れることを決めて送り出したのは自分なのに、寂しいなんて追いかけて裾を引くのは我儘なんだろう。
「本当に良かったのですか?彼を行かせても…」
「私に出来ることはありませんから。」
乾いた笑いが漏れだした。笑いたくないのにどうしても貼り付けてしまうのは誤魔化すのが下手だから。結局心配して欲しいのだ。自分以外の誰かに取り繕って欲しい、でも彼の傍に立つのは自分が良い。そんな強欲な愚かさが偽りの笑顔を吐き出す。
「…まったく、困った男です。貴女にこんな顔をさせるなんて。」
次合った時には説教ですね、そう言ったベルフィーナさんの顔は少し怒っていた。でもそんな彼女の顔も少しだけ寂しそうで、その感情に含まれた僅かな歪みを、綻びを私は知っている。
ああ、貴女もそうなんだ。羨ましい。
龍馬を想う瞳に表情、純粋な感情に嫉妬してしまう。なんで、なんで私が好きなのに。そんな顔私は出来ないのに、なんで私の。私の龍馬をなんでそんな目で追うの?
そこまで考えてハッとする。黒い感情が胸の内を染め潰していくのから逃げ出した。もう少しでベルフィーナさんを嫌いになって憎んでいた、彼女が憎いと醜いと蔑んでいた。鏡に映した彼女の全てが汚く見えて、もう少しでただ感傷的な闇に堕ちていくところだった。醜いのは自分で、穢れているのは鏡の方なのに。
「ただいま。」
その言葉が聞きたくて祈り待っていた昨晩。そう言って帰って来たのは、龍馬なのに龍馬じゃなかった。かけるべき言葉が見つからなくて、何があったのか聞く勇気もなくて、全てを受け止める覚悟も無くて、お帰りの言葉を震わせまいと精一杯の笑顔を浮かばせた。
あの時、なんて言ってあげれば良かったのか今でも分からない。微笑んでもくれるし頭を撫でてもくれるのにそこには何かが足りなくて、廃墟でただ一人ぼっち膝を抱えて座るような寂しさを見ないふりしていた。
ぽっかりと抜けた穴は底は暗くて大きくて、底を見たくもない程に怖かった。あの船で何を見て何を思って、何を忘れてきてしまったのか。知りたい、知りたくない。花占いでもできたらいいのに、なんて面倒くさい乙女のような嘲笑を自分に向ける。
私ってこんなに欲深い人間だったんだ。
港の喧騒に嫌気が差すのはその陽気さに自分の影が濃くなるから。大して役にも立てないくせに好きだとか独占したいだとか、ああもう本当に二人だけの世界だったら良かったのにね。どろどろに、境目も分からなくなるまで溶けてしまいたい。
嫌悪感を紛らわせるために吐き出した溜息が風に流れていく。木の葉が地面を這って目線を運ばせた隣のベンチ、白くて可愛らしい杖を脇に立てかけた少女が目を閉じて笑っていた。
白を基調に身を覆うワンピースは赤いリボンが施され、透明な彼女はまるで物語に出て来るお嬢様のようなとても可愛らしい少女だった。ふち付きの帽子は彼女の薄銀に輝いた長髪を美しく飾り付けている。
背格好から見てまだ幼いだろうというのに大人びた雰囲気で柔らかく笑う彼女は、両手で大事そうに本を包む。ゆっくりとページを捲るが読む気は無いのか、ただ紙の手触りを楽しむように撫でるだけ。
ビュゥッと強い風が彼女を攫うように吹きつけた。本が飛ばされないようにと屈んだ彼女が身に着けた帽子が、悪戯な風に宙で遊ばれてベンチの手前に着地した。せっかくの綺麗な帽子が汚れてしまう。しかし少女は目の前のそれを拾おうとせず、頭を触り帽子が無くなったのを確認すると杖を手に立ち上がった。それをみた桜もすぐにベンチから腰を上げて少女のもとへと駆け寄る。
「少し土がついちゃったから…はい、もう綺麗になったよ。」
目線を合わせるため少し屈んだ桜は微笑んで帽子を差し出した。両目を閉じた少女は恐る恐ると受け取ると、申し訳なさそうに頭を下げた。
「優しいお方、ありがとうございます。」
「うん!風が強くなってきたから気を付けてねっ。」
桜の言葉にもう一度感謝を述べた彼女は杖でベンチに触れ、再び腰を落ち着かせた。隣のベンチから心配そうに伺う二人に、大丈夫だと目線を送った桜は少女の真横に腰掛ける。
「海風は潮のにおいと海鳥だけを運んでくれれば素敵なのに、ちょっとだけ意地悪だね。」
「ふふっ。でもお姉さんとの出会いを運んでくれたわ。」
口に手を当てて笑う彼女は歳不相応なほど素敵な女性に見えた。上品な声に仕草が純白によく似合う。名をセリシアと、十の歳を数えたと、そして物心ついた時より前から暗闇の中にいると教えてくれた。
「今日は一人なの?」
「うんっ、お兄ちゃんのお仕事が終わるのを待っていられなくて…」
少し恥ずかしそうにはにかんだかセシリアは、髪の毛を耳に掛けて頬を僅か朱に染めた。仕草もさることながら十歳にはとても見えない。銀色はたくさん見て来たが、そのどれもが叶わない程美しい。
「お兄ちゃん、私のために毎日…少し前までは遊んでくれたんだけど、今は。」
彼女自身それが自分のためだとわかっているからか、切ない顔で言葉を殺す。十年、ただ妹の目を治すために働き続ける兄なんてこの世にいるだろうか。余程愛されているのだろうと、彼女が愛していることから分かる。
「そっか…」
少しだけ羨ましくて気の無い返事をしてしまった。こんな少女にも変な感情が湧いてしまいそうになった桜は話題を反らす。
「…それはお兄さんが買ってくれた本なの?」
「うんっ、私の宝物。前は寝る時にいつも読み聞かせてくれたんだ。」
そう言って開いた本は可愛らしい絵とこちらの世界の文字が並ぶ。点字が使われているわけでも無いのに、彼女はページを優しく撫でて微笑んだ。
「分かるの?」
桜の問いに首を横に振ったセシリア。我が子を見て昔を懐かしむ母のような慈しみの表情を浮かべ、でもと続ける。
「こうするとね、本の中身が頭の中で動き出すの。何十回も何百回もお兄ちゃんが読んでくれたから、こうしているだけで温かいの。」
その時を思い出すように、そして忘れないよう心に仕舞うように本を閉じたセシリア。風に揺れた長い、銀の髪が本の表紙に重なって流れ落ちた。
「セシリア。」
声がかかったのは談笑に花を咲かせていた時のこと。少し遠くから近寄るはセシリアによく似て端正な顔立ちの男性。彼女の横に人がいるのを確認すると歩幅を大きく、足を速める。
「お兄ちゃんっ。」
勢いよく手を挙げて声がした方向へ手を大きく振ったセシリアは、とても嬉しそうにはしゃいでいた。
「さっきお友達になったの、サクラさんって言うんだけど…」
「…何故こんな所に、危ないから家で待ってなさい。サクラ、さん。妹がご迷惑を。」
彼は少しだけ怒った様子を見せた。しかし口調も柔らかく彼女の手を引いて立たせるのも丁寧で、それが心配からの怒りだと分かる。確かに視覚が閉ざされたまだ十の女の子を一人、それが心配にならない兄などこの世には存在しない。
「帰ろう。」
短くそう切って桜へと軽いお辞儀をした彼は、セシリアの歩幅に合わせて歩き出す。
「あ、サクラさんっ。今日はありがとう、また会えたらお話の続きしようねっ。」
「またね!お兄さんもまた、お気をつけて下さいね。」
桜の挨拶に軽く頭を下げた彼とセシリアはゆっくりと広場を離れていった。彼女が熱心に語っていた兄とは違う。人当たりも良く誰にでも笑顔で妹の事を一番に考えている、とは最後を除いて正反対。
「すみません長々と…」
「いえ、私もベルも昨夜の疲れを癒すにはとても良い時間でした。」
レティシアの言葉にベルフィーナも深く頷いた。背伸びをした二人は微笑んで小さくなったセシリア達に目を向ける。
「私達も行きましょう。…そして早く混沌を見つけて、リョウマたちを驚かせてあげるんです。」
珍しく率先と意気込んだレティシアは、やる気満々と鼻を鳴らす。興奮した彼女の表情が少しだけ面白くて、ベルフィーナと二人顔を見合わせた桜は同時に笑った。
広場を後にほどなくして三人は馬車を捕まえると、手紙に記されていた場所へと向かう。その時御者が驚いて聞き返してきたのは、その場所が特別も特別大陸の中心だったからだろう。目の前には立派が過ぎる建物が聳え、門は厳重に兵士らしき獣人が見張っている。
人の踏み入れを拒むように立ちはだかった大門は、その後ろに存在感を示す宮に劣らぬような荘厳さ。そう、ここは王宮前。ハデルフロウの中心に構えた獣王の住まう城が手紙の示す場所だったのだ。
何度も確認をして願った間違いも泡に消えた。やはりこういう時は頼りになるレティシアの後ろを桜が歩く。ベルフィーナは当然二人の横、三人は固まって門番へと声をかけた。
対応は予想を裏返したように丁寧だった。一般人は立ち入ることが出来ないと説明されたが、封筒の紋を見せると快く開門を許してくれたのだ。
案内を申し出た兵に続き宮の敷地に足を踏み入れた三人は、敬礼を背中に受けて王の住処へ招かれる。白い宮殿は派手な装飾こそ無いが高貴さを漂わせている。かつそこに嫌味の色は見えない心地よさは、この国の性格を表しているようだ。
「中であなた方をお待ちです。」
案内されたのは一室の扉前。どうやら中に手紙の人物がいるようで、粗相のないよう身だしなみを整えた三人は扉を静かに開いて中を覗いた。
中で待っていたのは普通の、よりも一回りほど全てが小さい書斎だった。壁の本棚は桜が背伸びをしなくても容易に最上段へ手が届くし、机に椅子は大きさこそ通常と変わらないがどちらも足が短く地面に近い。それも彼に合わせてのことだろう、本を棚へなおしながら振り返った彼は長い耳を垂れさせて細い目を開いた。
「悪魔の贈り物がなにかとびくびくしておればなんじゃ、年若き女子が三人…まったく年寄りに何を指せる気なのじゃ。」
聞こえるか聞こえないかの声で呟いた彼は三人に正対してじっくりと視線を巡らせる。その時突然膝を着いたのは他でもない王女のレティシアだった。頭も下げて最敬礼の姿勢など、王に対するそれだ。流石は護衛騎士だろうかベルフィーナも理由は後にレティシアに続く。あたふたしながらも桜は膝を着き、レティシアの言葉を待った。
「お初にお目にかかりますレスレクト老公。ミルバーナ王国が第一王女、レティシア・ユルート・ミルバーナと申します。貴台のお噂は…」
「おおこれはまたミルバーナの、堅苦しい挨拶も下げる頭も要らぬよ。」
好々爺と言った様子の彼、レスレクト老公は何故だかホッと安堵したように息を吐いた。腰掛けるように客椅子に促された三人は老獣人を目の前に各々姿勢を正した。レティシアが躊躇うことなく最敬礼を見せるなど相当、もしや彼が国王なのか。なんて思っているのは桜だけ。
「改めて、シドじゃ。レスレクトなど古い呼び方、今じゃ昔を知るもんなどおらぬからのぉ。」
見たところかなりの歳よりだ、ではもしや前国王か。などなど桜の頭の中に巡る考えはあながち間違いでは無かった。
レティシアの簡単な説明が始まった。本人を前に語られるは長き獣人国の歴史において最も偉大な人物であるということ。現在、この先において彼がいないことなど考えられないと言うのだから、なるほど彼女の言うを信じるならば確かに目線を合わせて話すなど出来ない超大物だ。
それに彼女の説明を聞いてもほめ過ぎだなんやら、恥ずかしいなんやらなどの感情も見えない。湯気の立つカップを口に運ぶ彼の姿はただの腰曲がりの翁、しかしそれが元国王シド・レスレクト・ハデルフロウという大層な名前を持っていたとは。
「して、主ら何を求めに来たのじゃ。」
シドの手にはゼアリスの手紙が一枚。これを渡せば分かると彼女は言っていたにもかかわらず彼がひらひらと振った紙にはただ一言、
闇の淵へ
それだけが走り書きされていた。それだけでは分からないだろう当然桜たち三人にはなんのことかさっぱりで首を傾げる。ただとうの本人、手紙を渡されたシドは全てを知らないというわけでは無いようだ。何かを知りそして三人の目的を知りながらもなお問う。
「何を探しに来た。何を知りたい。」
「…既にお分かりの通り私たちが探しているのは、混沌の存在について。どうかお力を、並ぶ者なき【賢獣】のお智恵を欠片でもお貸しください。」
レティシアが誠意を持って深々と頭を下げた。王女である彼女でさえこの願いが身の丈に合っていないと分かっている、それでもあの夜の惨劇を二度と見たくない。ただでさえ鮮明な夢を見るというのに、今もどこかで同じことがと悪魔の想像が頭を過るのに。
残る二人もまた彼女に続く。レティシアの全身が震える。
「もう絶対に…っ繰り返してはいけないのです…!」
爪が食い込んだ掌に血が滲む。服の裾に皺を刻みながら、膝を雫が濡らしていった。
「…。」
黙り込んだシドの視線を頭上に感じる。何も言わずに一分、二分ほどが過ぎただろうか。熟考する彼の言葉をジッと待つ。
ビリッ ビリリィッ
しかし聞こえて来たのは彼の言葉では無く、紙を裂く音だった。反射的に顔を上げた三人はシドが手紙を小さくしていくのを目を大きく開いて見届ける。
「力も智恵も是非に、好きなだけ貸してやろう。だがそれはお主たちにじゃ。あの魔女にでは無い。」
紙くずを握り締めて微笑んだシドはそう言い放った。ゼアリスの願いを聞いた訳では無く、目の前で消えていく命を嘆いた少女の願いを聞くために。彼はそれを明確にしたかった。
混沌を探す理由などもう十分足りている。彼女の膝を濡らした雫をもうこぼさぬように。
「さて早速じゃが…と忘れておったわ。今夜は宮での宴が開かれるんじゃった。」
椅子からゆっくりと立ち上がった彼は些か厄介そうな顔をして溜息を吐いた。どうやらこの国に異国の者が入って来た時に開かれる恒例のものらしい。勿論中でも人は選ばれるが、要するに獣国へ害ある人間かを見分けるための姿見せとでも言おうか。
「忙しくなるのう。おおそうじゃ、滞在はこの宮を使うと良い。王には直接儂が…」
「いえそこまではっ。」
流石にそこまでの迷惑はかけられないと三人は断りを入れる。部屋が余って静か過ぎる宮にはもってこいとシドは返すが、いくらなんでも場所が場所だ。
「年寄りの言うことは聞くもんじゃ、それに都合も良いじゃろうて。」
確かに彼の言うことは正しい。連絡も取りやすい彼が住まう場所に近ければ近いほど協力も得られやすいのも確か。だがしかし仮に百歩譲って世話になることを決めたのならば王への挨拶は絶対だ。
「謁見の許可を。獣王への参上は必要です。」
「それがならんのじゃ…まったく困った王でのぉ。訳ありで今会えるのは儂だけなのじゃ、許せ。」
頭を下げようとするのを慌てて止めるレティシア。かの【賢獣】に詫びさせるなど誰かが知れば発狂ものだ。しかしこうすれば三人が素直に了承することも込んでのことだろう、結局彼の行動に甘える三人。
「そうじゃ、主らにはちと手伝ってもらおうか。」
喜んで、と三人は頷きシドの後へと続いた。静かな廊下を彼の背中を追って歩く。
「夜の宴に花を添えんとな。」
日も暮れの影を見せ始めた。王宮に四つの足音が響いて、迎えの準備へ急ぎ取りかかった。
迎えたゆるの宴には獣人に混じって他種族の姿もちらほらと、酒が降る舞われ音楽に舞う踊り子がまるで妖精のよう。
桜にベルフィーナは勿論のことレティシアも、客への料理の取り分けや飲み物を配るのに動き回る。王女である彼女をこんな風に扱えるのも片手で数えられるほどだろうに。
「先ほどから老公のお姿が見えませんね…」
辺りを見渡したベルフィーナが気づく。二人も真似るが確かに特徴的な長耳が見えない。それに、とベルフィーナは続いて何か遠くが騒がしいと。
宴も盛り上がりを少し落ち着きを見せ、皆情に酔いが回っている様子。今の内と抜け出した三人は静かで月明りだけが照らす廊下を小走りで、音の聞こえた方角をも目指す。
「主ら。…丁度いい、来なさい。」
角を曲がったそこにはシドが一人歩いていた。彼が昼間見せていた柔らかな表情はどこに消えてしまったのか、真剣と言うよりも少しだけ眉が吊り上がっている。加えて手には折れた杖。
ただ事じゃないのは分かった。だが誰も何があって自分達を探していたのか等は聞けなかった。
連れて来られた場所が王の間であることを理解するのには時間が必要だった。何故なら装飾も分からない程に扉は折れ曲がり、壁には無数の戦闘傷。窓は粉々、そして床には穴と、二人の怪我人。暗くて顔は見えないが片方は意識も無いのか、冷たい床で動かない。
「二人を治してやってくれ。」
シドに言われた通り負傷者らしきへと近寄った桜とレティシアは、割れた窓から差した月光に目を細めた。光が導いた先視界に入ったのは、会いたいと想い募らせた彼だった。
最後まで読んで頂きありがとうございます。戦争の方と大陸の方でいつ話をスイッチするかが難しく、正直悩みながら書いております。なるべく分かりやすく、楽しんでもらえますように頑張るので応援よろしくお願いします。いつも本当にありがとうございます。




