愛しい銀が尾を引いて
ある騎士の物語。
錆びてしまったから輝ける光を求めた。けれども穢れは落ちなくて、歩いては崩れていく。
手を引いて欲しい彼女はもうここにはいなくて。止めて欲しいのに、止めてしまいたいのに。
擦り拭おうとする指はこぼれてしまったから、流し過ぎた涙が皺を増やした。
膨らんだ激情に記憶が解れていく。醜い自分に思い出は微笑まない。
全て忘れてしまった、自分のことさえも。けれど貴女だけ、もう居ないお前だけ。
愛した彼女が消せない。重く想い、罪を名乗った錆だった。
「上手くいったろう?」
そう言った男の声を聞いている。少しだけ開いた扉から漏れる淡い光と言葉が、胸、心に届く。
「はははっ、しかし愚かだな。平民の分際で出しゃばるからこうなるのだよ。」
夜だというのに静けさが戻らない。煩わしいのは言葉か、悪意か。
扉に背を付けて二人の会話を聞いていた身体は震えて動かない。今すぐにでも乗り込んで、顔を身体を引き裂いてやりたい。しかしそれで満たされるのは自分の感情の浅いところだけで、掬い上げることが出来るのも濁った復讐という名の汚水だ。
「はっはっは…それでだ。あの男の確か、アイリスとかいう妹。」
「おお、聞かせてくれよ!最後はどんなだったんだ。」
もう聞いてられないと扉の前から離れた直後、愛する者の名が聞こえてくる。外道の口にして欲しくも無い名前、しかし中身の気になる会話。聞きたいわけではないが、聞かなければならない。
あの子は俺のせいで殺された。計画のため、無残にも短い生涯を奪われた。動かなくなった彼女の笑顔、殺されたいうのに優しいあの子は最後に自分を思ってくれたのだろう。
「首元をナイフで、ピッ!あっけない最後だぜ…」
そうか、苦しまずにあの子は逝けたのか。不幸の中、その事実が聞けただけでも良かった。流れる涙を静かに拭う。
しかし。真実は、甘く心を休めてはくれなかった。
「なんだつまらん。」
「く、ははっは…表向きは、な。あの男にもそう伝えられたが、本当は違うさ。」
不快な笑い声に心臓が締め付けられた。
「ほんっと、あれは笑えたぜ……」
「ちっ、こいつ。いい加減にしろよぉっ!!」
赤い頬が更に熱を帯びる。何度目か分からない平手打ち。力なく横たわる彼女は既に体力の底を見せている。しかし、まだその顔には笑みが消えていない。
「な、んど叩かれようと…わたしは呑みません。」
背名には服の上から皮膚を焼いた跡。脛を刻まれ、腕には小さな針が何本も。死なない程度に施された拷問の傷は、周りで見ている人間からしても痛々しい。
「あいつは特に疑い深い。いいか、お前だけなんだよあいつを真正面から殺せんのは。」
髪を掴み頭を上げさせられる。荒い口調の男は細く長い目で睨んだ。
天気の良いその日は珍しく兄の帰りが遅くなるらしかった。突然訪ねて来たのは、この国の高官と名乗るお方。勿論兄繋がりで顔を知っていた彼女は快く応じた。
「アイリスちゃん、お兄さんのことでお話が。」
優しい笑みを見せた彼はいつも食材や雑貨を持ってきてくれる。兄の事、そう言われたアイリスも普段聞けない話を聞こうと招き入れた。背中を見せた彼女の意識はそこまで、目を覚ましたそこには彼と彼の部下が数人。自分は跪かされ、手には枷。
聞けば、兄を陥れようとするのが目的らしい。ナイフを首に突きつけられて、命の代わりに兄を殺せと言う。普通の少女なら自分の命欲しさに、脅しに屈してしまったかも知れない。
「嫌です…っ。」
そう言ったのと同時に叩かれた頬。答えは決まっていた。愛する家族を売るような真似は出来ない。
男は苛ついた様子で何度もぶった。それでも足りないと、針やナイフで身体を傷つけ始めた。とても痛かった、苦しかった。それでも兄を手に掛けることに比べれば、涙を流して助けを請うほどじゃあ無かった。赤く変色した鉄の棒が背中に押し付けられた時には押し殺していた悲鳴が漏れた。しかし、涙は一滴たりとも流さなかった。
メキャッ
「あ、ぐぅ…っ」
「なあよぉ、これ以上は地獄だぜ?」
メキャッ
二枚目。
「…ふふっ、無駄ですよ。うぐぅっ!」
メキャッ
「…っめんどくせえ、おい!お前がやれ。」
男は部下であろう別の人間に器具を渡すと、椅子を持ってきて腰を落とす。肘掛に手を着いて退屈そうな顔でこちらを見下ろす。
「キ、キーティスさん、もういいんじゃあ…」
震え声でそう言った部下の男は、高官キーティスに恐る恐る申し上げる。
キーティスは立ち上がると椅子を持ち上げ振り下ろした。
「お前のっ、頭にはっ、何がっ、詰まってんだよぉっ!」
粉々に砕けた木の椅子。既に部下の意識は無いというのに、棒切れになったそれを何度も何度も叩きつけた。
「はぁ、はぁおい、お前やれ。」
別の部下に器具を投げつける。怯えた顔の下っ端はアイリスの前に膝を着き、泣きながら爪を挟んだ。
「ごめん、ごめんよぉ…」
キーティスには決して聞こえない小さな声。鼻水と涙を垂らした下っ端にアイリスは頷く。やらなきゃあなたも殺されてしまうんでしょ、と言うように覚悟を決めた彼女。優しい笑みを浮かべ、剝がれていくのに耐え続ける。
計二十枚。時間にして数十分、彼女は一度も弱音を吐かなかった。不満そうなキーティスが器具で頭を殴りつける。激しい痛みが走った、けれども負けることは無い。何故なら彼女には、愛する兄がいる。
「健気だなぁぁぁ…っ!その顔だ、その表情、目が気に食わねぇえんだよ!!!」
笑顔を歪ませた一蹴りで鼻の骨が軋んだ音が鳴る。絹のような髪の毛を掴み上げたキーティスは白い頬を殴りつけた。冷たい地面に転がる彼女、上からは怒号が響く。
「いいか教えてやるよ、お前らみたいな貧乏人の負け犬は道端で吠え面晒してんのがお似合いなんだ。それがぁ?名誉騎士だぁ?…お前らはヘドロ啜って天を見上げてりゃあ良いんだよ。」
静かに怒りに震えながら、充血した目で鋭く睨みつける。地面に押さえつけられた額が切れ、血だまりにまた滲んでいった。
「…計画変更、もうやめだ。興も冷めちまったしなぁ。」
キーティスは立ち上がると仲間の一人にアイリスの傷を治させた。みるみる内に塞がる火傷に裂傷。部下も皆、彼女を痛めつけるのに耐えきれなくなっていたのだ。拷問器具も凶器も全て片付けさせ、綺麗さっぱり元通りになった現場。枷を外された彼女は心身の疲労からかふらついて立ち上がる。
終わったのかと、アイリスも部下達もほっと安堵した、その時。
視界に走る、赤い線。
彼の手には硝子の破片が握られて、振るわれたのは白く陶器のように美しい首元。
「帰るぞ、そいつは用なしだ。」
崩れていく細い身体。塞ごうと手を当てても噴き出す赤が止まらない。
踵を返したキーティスの背中に声がかかる。命乞いかと振り返った彼は目を見開いた。
「兄、に…どうぞお伝えくだ、さい。あなたの妹、は最後まで……」
あなたを想っていましたと。
時間が止まったような感覚。アイリスという花が散る。女神は微笑んで眠りにつく。血だまりの海に沈んだ彼女は、とてもこの世のものとは思えないほど美しかった。
声も無く落ちる雫が地面を濡らしていく。何も知らなかった自分が、そして彼女の尊厳を踏みにじった者が許せない。心臓が張り裂けてしまったように堰き止めきれない感情が、心を頭を全身を浸していく。哀しさと憎しみに溺れてしまう。闇の中藻掻いた手は宙を掴むだけで、憐れに取り残された自分は激しい怒りに満ちていた。
アイリス、俺をどうか許さないで。復讐や仇討ちなんて君は望まないだろう、でも兄ちゃんは。
もう、こわれてしまったから。
闇に飲まれた銀の騎士。彼を突き動かしたのは感情を蝕んでいく錆だった。彼女に会いたいと想っているのに、彼女の姿、声、笑顔を浮かべながら命を壊していく。穢れていく思い出を晴らそうと必死に手を振るっても、気が付けば目の前は血に濡れていた。
キーティスを始めに何十とかかわった全てを破壊して、破壊して破壊して。夜、寂しくなった彼は涙を流して笑い声をあげた。星の輝きも分からない彼は、只管眩しい隣の相棒と共に生を絞る。
五年を費やした復讐劇は終わりを迎えたというのに、去ってくれない孤独がいつまでも冷たく肩を震わせた。逃げ続ける人生も終わりが見えて来た。森を出て街を目指す。
その日はついにやって来た。
とても良すぎた空の日差しが目に厳しい。安い宿屋の狭い部屋、開いた窓から抜ける風を心地良く感じたのはいつ以来だっただろう。ここ数年森に暮らしていたからか、質素なこの場所いつまでも居たくなる。
無意識に触れた顔、表情を変えたのも記憶に古い。今日はとても変な日だ。所々が擦り切れた灰色のローブを羽織って、いつものようにフードを被る。左腰には相棒を携え、猫背気味に歩き宿を出る。
「ふう…」
顔を隠すのにももう慣れた。何度目かの溜息を吐いて人波を歩き出す。戦場では勇猛に存在感を示すため声を上げながら走ったというのに、今や気配を殺して足音を潜める。誰にも触れないようにと気を使いながら歩く姿は、さながら殺し屋か追跡者のようだ。
何もやることは無い。ただ当てもなく気晴らしに行くだけ。自分の立場を考えれば外に出ることなど死に行く行為だ。だがそれはそれで怪しまれてしまうから、こうやって少しだけ散歩をするのだ。まあ仮に、捕まってしまったとしてもどうでもいい。
死を望むようになったのは最近だ。やること、べきでは無いただ成すことを成し終えた。俺にとってここは死後と変わらないのだ。人がいようといまいとどうでもいい、一番欲しいものが手に入らない世界はとても、とても退屈だった。
場所は選ばない、ただ早く俺を殺してくれ。
いつもより天気が良かったから天を見上げてみたが、眩しくてすぐに止めてしまった。だが気分が良かった、こういう日には何かいつもと違う事をするのが良い。
宿屋を出ていつもは二つ目の角を曲がるのを、今日は三つ目を越して四つ目の角を曲がってみた。薄暗く細い道が続く路地裏に、此方を導くように小さな虫が這っている。
哀れに見えた小さなそいつは、俺なんかよりも自由に生きているように見えた。お前にはどう見えているんだろう俺は無気力で、惰性の生を死ぬように過ごしているよ。
気の向くまま、そいつを追ってただ歩く。大通り、違う道。出たというのに変わらない景色。人の濁流が俺を攫って激しさを増していった。
馬車も通る道だというのに地面が見えないほどの足の数。耳が拾ったのは幼い鳴き声だった。目を細めて探すと彼はいた。道の真ん中蹲り、擦り剝けた膝を抱えて泣いている。
見て見ぬふりをしようとしたその時、人の海が急に割れていく。近く、車が迫って来ていたのが見えた。馬のいない車は速さを落とすことなく道を行く。だというのに誰も彼を助けようとしない。
「……ちっ!」
舌打ちを置き去りに身体が動いた。風が吹いたのを気が付いた人間も少ないだろう。道の真ん中に飛び出し、男の子を掴み上げると颯爽と道端に舞い戻った。
「大丈夫か、坊主。」
頭を撫でると、頷いた子供はお礼を言うと去っていった。転びそうな走り方の彼を見送って再び歩き出す。周りはとてもうるさかった、車の姿ももう無い。こんなにもいい天気だというのに溜息を吐くのも億劫なほど世界は冷えて寂れていた。
重い足を引き摺って歩き、辿り着いたのは結局この場所だった。昼だというのに光を隠した裏路地でひっそりと開いた店の看板を叩く。朽ちてしまった木の板が地面に木屑を落として揺れた。
「おや…まったくよぉく来るねえ。」
声にならない引き笑いで迎えたのは皺くちゃな顔で身を屈める婆さん。失礼だがいつ死んでもおかしくない程に歳を重ねた彼女は、もう何も無い俺が唯一信じられる人間だった。
「あんたの占いはよく当たるから来ていたのだがな…」
宿に泊まったのもこの婆さんが外は危険、などと言うからだったのに。昨日も無論何も起こらない、嵐が来るわけでも無く平穏な変わらない日だった。
もう来てやるものか、そう思っていたのに結局足が行き着いたのは此処だった。疲労した精神を癒す、休める場所。彼女は俺が人を殺した屑だと知った上で態度を変えずこうして話してくれる。
「けっけっけっ。いやあ、あまりにもお前さんがな…あまりにも、辛そうでなあ。」
慈しむような、それはそれは穏やかな笑顔だった。幼くして両の親を亡くした俺には、直視できないほどに優し過ぎる。愛情というのはこういうものなのだろうか、だとしたら俺はあの子に本当の愛を注げていたのだろうか。
いつも決まって雨の日は、寂しくて寝床に潜り込んできた可愛いあの子。背を向けて泣いていたことも、お父さんお母さんと寂しそうに繰り返していたことも全て、はっきりと覚えている。
瞼が震えた。しかし一生分の涙を枯らしてしまった俺から流れていくのは、掴んだ温もりと心の温度だけだった。
「どれ、今日も見てやろう。」
「これで最後だぞ。」
と言いつつもどうせまた来るのだろう。透明な水晶に手を翳す彼女は、真剣な表情でで未来を見始めた。
いつもよりだいぶ長い、退屈な時間が過ぎていく。険しい顔の婆さんが水晶を布で包むとこちらに目を向けた。眉は顰めて口を一文字に結んだ彼女が、重く閉ざしていた口を開く。
「お前さん、今日は真っ直ぐ宿へお帰り。」
「く…はははっ、またそれか?」
またも外に出るなと、直近で聞いた言葉に思わず笑いがこみ上げた。乾いたものだったが久しぶりに笑った気がする。しかし婆さんは変わらず真顔でこちらを見詰めている。
「……」
何も言わずただジッと、俺の奥底を見透かすような瞳。いつもとは違う、そう気が付くのに時間は要らなかった。隠すように早々包まれた水晶に目を配せ、もう一度婆さんに戻す。
「何が見えた。」
「何も。」
彼女の返しにまた笑う。教えないつもりなのだろう、勿体ぶりにも飽きてしまった。もういいと腰を上げた俺の腕を力ない手が掴む。生きた年数を表すように刻まれた皺が行くなと俺を離さない。
「…何も見えないんだよ、お前さんの未来が。今日から先の、お前さんの姿が。」
悲しそうな顔に震える声。未来が見えない、先にいない。それがどういうことか分からない程馬鹿に生きていない。全てを悟り、優しく指を剥がす。
「はぁぁ…ようやくかあ…」
やっと、この日が来たぜ相棒。この時をずっと待っていたんだ。
腰に光る生涯の愛剣を摩り彼女に別れの手を挙げる。
「お前さん…死ぬ気なのかい?」
背中に掛けられた言葉に足を止める。振り返ると彼女は泣きそうで、どうやら俺が死ぬのを悲しんでくれているらしい。
「違うさ。この五年間が死んでいたんだ。最後の一瞬を俺は生きて終わりたい。」
強く願った最後の場所。古い友と誓った俺たちが生き、死ぬのは戦場だけ。
俺は戦いから逃げて復讐を過ごしてしまったから、これは最後の救いなんだろう。
「じゃあな婆さん…」
古い木の扉が音を立てて閉められた。またな、とは言わなかった。
路地を抜けて明るい陽の照る大通りに出る。眩しくてつい目を覆った。
頭を上げて見つめた喧騒は活気があって、笑顔の人波が流れていく。ずっと雨が降っていた心が、ようやく晴れて心地よい。景色を楽しみながらゆっくりと歩み、気づけば陽の傾き始めた街の外。
凪ぐ風に夕焼けの気配。夜の匂いが近づいた。
「はは…懐かしい顔だ。」
そうか、お前がいたのか。全てを失った俺にはまだ、お前という友が。
フードを下げて彼を見る。哀しそうな顔、握りしめた拳が震えている。
「ロドム…っ!」
ああ、お前はまた名前を呼んでくれるのか。ロドム、そうだ俺はロドムだ。見ないでくれ、俺を…
心を何かが塗り潰していく。灰色に濁った汚いそれは、下手くそな笑顔を歪ませた。
ああ、目を反らさないでくれ。俺を、俺を見てくれ。お前にまで見捨てられたら俺は。
「錆びた騎士か。」
友の隣に立った男がそう言った。その言葉につい笑ってしまう。【銀騎士】なんて呼ばれていたな、過去の栄光ももう消えてしまっただろう。だから今は騎士なんて呼ばれる筋合いは無い。
「…そんな粋なもんじゃあないさ、」
俺は憐れでしょうか、可哀そうでしょうか、醜く稚拙でしょうか。
「ただ。」
聞き手のいない祈りを捧げ、瞑る瞼に彼女の姿。
溢れてしまいそうな感情を噛み殺し、剥き出した歯が小刻みに震える。流星が尾を引くように、銀の弧を描いた刃。
「ただ、穢れているだけさ。」
見ているか、アイリス。お前を想い輝く星が今、散るぞ。
愛した思い出は消えない、では無く消せないんですね。
番外編。彼の五年間の復讐劇を書くことは出来ましたが、やっぱりこれが一番良くまとまりました。短いですが、楽しんで頂けたなら幸せです。応援これからもよろしくお願い致します。
ありがとうございます。




