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混沌に染まる  作者: 式 神楽
第三章 オークション
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第五十八話 アリアンナ

第五十八話です。皆様、本当にありがとうございます。おかげ様で総合評価が100を数えました!!!ほんとうにありがとうございます!大好きです。

 キリキリキリ

 薄暗やみの廊下に響く車輪の音。中の彼女は疲れてしまったのか眠りについてしまった。聞こえずとも肌で感じたのだろう、あの耐え難い空気に長くいたのだから仕方ない。


 何度目かの角を曲がり、迷路のような道を進む。急いた気持ちを抑えつつも足取りは軽く、目的位置まではそう時間はかからなかった。固く閉ざされた扉は分厚い防音仕様。ノックは必要ない、ここは彼だけが知る秘密の部屋。


 翳した掌に光る文字、それに呼応して静かに扉が開かれた。一歩先も見えない程の闇が通路まで広がる。光を、音を奪って閉じ込めたのは大切な【君】。


 「ご機嫌麗しゅう、姫?」

 踏み入れて灯した蝋燭の淡い炎。照らした二つのケースに二人の顔。眠り姫に、そして不機嫌姫。無い口で溜息を吐いた彼女は、ムカつく笑いを浮かべる男を睨みつけた。


 「機嫌が良いのね。…彼女を連れて来るなんてどういう風の吹き回し?」

 こめかみを抑えて首を振った彼女、おそらく辟易を露わにしているのだろうが表情は分からない。初めての顔合わせだが彼女は既に知っている。男の後ろ、椅子に座って夢を見る少女がどんな存在であるのかも当然。


 「さあ。君なら分かるだろう、私が何をしに此処へ来たのか。」

 思わず漏れてしまう笑いを嚙みながら、目の前の男ゼドは珍しく手袋を外した手を擦り合わせる。熱い溜息を吐きながら、これからの楽しみを妄想し愉悦に浸る彼の眼は虚ろ。


 クツクツと、抑えきれなくなった不敵な笑い声。いつもこうだ、彼は決まって退屈を噛み殺す度に幸福の血液が逆流し血管を浮き上がらせる。回した首の下でボコボコと膨らむ鎖のような管、天井を見上げて大きく開いた口から這い出る黒い刻印が、うねり蠢く。

 それは頬を伝い、服の下腕から掌へ移る。刻まれていた爆裂刻印を上塗りし、新たに刻まれたのは触れた悉くを切り刻む、断裂刻印。指の腹から付け根まで、触れれば全てを切り裂く凶器の出来上がりだ。


 「……」

 黙り込んだ顔の無い少女は近づいてくる男を見上げた。思えば彼とは長い付き合いだ。出会いは数年前、生れ落ちた私の前に現れた彼はとても退屈そうな顔。あの時を鮮明に覚えている。

 言葉を操るのが上手だった、文字を支配する彼は私を導いて利用した。それは思いのほか心地よくて、騙されるのも良いかななんて、そう感じていたんだ。

 そんなにも楽しそうに笑うのは初めてだね、私の前ではいつも退屈そうなのに。


 「私の未来は、明るいか?」

 決まって問う彼の顔、どこか寂しいのは彼が笑顔だから。

 見えた未来は?…なんてどうでも良い。だってそこに、私は居ない。

 

 壊れないように、傷がつかないように。大切という檻に囚われた私を覆う障壁が壊された。破片が落ちて、自由に触れた。

 「未来を知るには。世界を壊さねば。足枷は脆く殻のように、君の飛び立ちの邪魔をする。」

 おいで、その声に導かれるままに。再び生れ落ちた私は、死に触れた。



 天を仰ぐのは咎人の権利だと。ならきっと、仰がれた僕は天上だ。

 

 「後悔は済んだかい?君に待つのは虫けらの様。そのちっぽけな尊厳も、誇りも命も全てっ!()に逆らった罪を償うにはそう…蹂躙だ。」

 作り物、仮物の顔で気色の悪い笑みを見せた【フェイス】。大きく広げた翼は幻のように揺らいで、羽が一枚一枚微振動を始める。


 「ずいぶんと大きくでたなあ、借り顔の羽虫が。」

 唾を吐き捨てたゼアリスが好戦的な笑みで睨みつける。腕の痛みなど些細な事、彼女に敗北は通り過ぎない。自らの頭上に在るのはお飾りの冠だけで十分だと、親指を喉前で横に切る。上からなぞり交差させるように振り下ろして、空に描いた逆さ十字は神への反逆の意思だ。


 「っふ、ふはは…虚勢を。その棒切れで何ができるっ!!」

 はためかせた翼は礫混じりの銀風を起こす。空を切り高い音を立てながら、鋭い羽がゼアリスに迫る。最早手加減は無し、顔目掛けて吹き放たれた崩壊の羽礫を彼女は難なく弾き落とした。

 地面に突き刺した黒杖はぬらぬらと鋼鉄の棘を輝かせる。持ち手を掴んだゼアリスは可動式の柄を更に捻る。にやりと悪い笑顔、狂気を剥き出した彼女は音の鳴るまで回転させた。


 「その棒切れがお前を地に堕とすんだ。良く見ていろ、これが…人間の業というやつさ。」

 カキンッカキンッキリキリキリキリ

 支柱部分に飛び出た棘が音を立てて伸び落ちる。中から聞こえてくるの妙な稼働音は静寂の中で鳴り続ける。あまりの不気味さからか、疑問符を浮かべて杖に目を奪われたまま。


 「人体錬成器官武器・弐型骨鞭。」

 勢い良く引き抜いた杖は多節鞭へと姿を変えた。小さな黒い骨が節で繋がれ、カラカラと小気味良い音を奏でている。骨の鞭はゼアリスの周りで蛇が如くうねり、空中で呆けている天使を締めあげようと迫る。


 驚愕の顔で見ていた【フェイス】は視界を埋め尽くす異形の長物から咄嗟に逃げる。生きているように追いかけて来るそれをまるで自分の指のように操るは彼女の手元、片手に翻弄されているという事実が彼を苛立たせる。


 「舐めるな…っ!」

 高く飛翔し急降下、さすがに追いつけまいとゼアリスに一直線で迫る。しかし得体の知れない武器を前に、侮るべきでは無かった。

 鼻で笑ったゼアリスはクイッと手首を返す。コツコツと音を立てながら空を舞う骨の鞭は一瞬で【フェイス】の身体の周りを覆うと、彼女が手を引き上げたのに連動して彼の身体を締めあげる。抜け出そうにも尋常では無い力、そのまま空で遊ばされてついには地面へと叩き落とされた。


 羽礫を放とうにも折れた翼はピクリとも動かないほどに締め付けられ、節の骨が身体に食い込んで激痛を走らせている。引きずられて壁に何度も何度も叩きつけられた【フェイス】は、なんとか意識は保っているが既に満身創痍。抵抗敵わず高笑いをしたゼアリスの手が止んだのは壁に新しい穴が開いた頃、そして彼の意識が完全に途切れた時だった。


 「あっけない。お前は所詮、仮初だ。」

 コツコツコツコツッ

 杖に姿を戻していく鞭。骨は連結し、異形の見る影もない。

 黒杖を肩にかけ、戦闘の終わりにホッと息を吐いたゼアリスはビンに振り返る。


 「こいつを頼む、色々と……っしまった、まだ縛り付けておくんだったな。」

 ほんの僅か目を離した隙、動ける状態とは思わなかった【フェイス】の姿は消えていた。影すら残っていないそこには好青年の、ルカッドだと思い込んでいた彼の顔だけが捨てられていた。



 獣を斬り捨てながら進む道には無数に転がる参加者の身体。逃げ惑う彼等を逃がしはしないと放たれた人造兵は、体温あるいは呼吸を感知して動いている様子。隠れようと無駄、見つかって肉を食い散らかされるか頭を潰される。

 

 「しつこいなあ。」

 たった今六体の人型を斬り伏せた龍馬は呟いて血を振り払う。何を悩んでいたのだったか、そうだ彼女は無事だろうか。逃げられただろうか、生きているだろうか。あの様子じゃあもう死んでいるかも知れないな。振り返った通路は真赤に染まり、生の気配は一切ない。


 悩みが塗り潰されてしまった、感じたことの無い衝動。もう会うことは無いだろう彼女を忘れ、龍馬は先を急ぐ。握る彼女の声は変わらず聞こえなくなってしまったがしかし、再び誰かの声がする。


 龍馬


 名を呼ぶ声は一度だけ聞いたあの声だ。聞き覚えの無い声は大きくなったり小さくなったり、何処から聞こえているのか分からないが龍馬は声が大きくなる方へと進み出す。


 こっちだよ


 【灰屍】とは違う女の声。煩わしい、これで三人だ。俺の頭から出ていけと正体の分からない声に苛立ちが募る。

 段々と影が濃くなっていく廊下、今船の何処にいるのかも分からない。光が薄くなるにつれて頭で響く声は大きく、そして明瞭になっていく。


 行き止まり、目の前に大扉。導きn声は途絶えてしまったが最早必要ない。ここなんだろう、頭の中そう問いかけて触れた扉は冷たく空気を閉ざしていた。

 ノックするのもどうかと思いつつ、取っ手の無いそれの前に立ちすくんだ龍馬。分厚く固い鉄扉は指を入れる隙間も無く、どうしたものか逡巡も僅か柄に手を掛け彼女を引き抜いた。


 「しゃあない…っ。」

 物事はいつも着くべき場所に運ばれるのだ。なんて冗談、綺麗な理由は何もない。ただ呼ばれた、それ以上に何も要らないのだ。


 キンッ

 菱形の斬り口は鮮やかに、中身を細かく刻むは一瞬。豆腐のように崩れ落ちる金属片がガラガラと大きな音を立てた。闇の中灯る淡い炎が薄闇に延びて足元を照らす。


 「派手な登場だ、が。君では無い…」

 ポタッ ポタッ

 指先から滴る赤いインクは闇の中揺らめく炎に反射する。心底残念そうに肩を落とした彼は背中越し、振り返らずにそう呟いた。透明なケースが二つ、間に立った黒紳士は懐の手巾で血を拭った。


 「呼んだのはお前か?」

 しかし男のことなど最早視界には映っていなかった。飛沫は新しく、下に線を引いている。崩れた障壁、踏みしめた破片が音を立てる。

 「何を…っ?」

 呆然と男は龍馬を見詰めていた。あまりにも自然で、それにあまりにも自分を無視した行動に疑問の声をかけるだけ。止めようという考えは出てこなかった。


 「お前が、呼んだんだな。」

 声をかける、返事は。


 目が無い、花が無い、口がない。そんな事どうでも良かった。どうして自分の名前を読んでいたのか、導いてここまで来させたのか。囚われの姫は助けに来る騎士を待っていたというのに、のこのこと現れたのは遅れたヒーローだった。


 「この子の名前は?」

 振り返ってゼドの顔を見た。彼からは影の差した龍馬の表情は見えない。蝋燭の炎はゼドの背に当たって影を大きくしていた。彼は虚空を見上げて考える、思えば名前など聞いたことも無かったと。


 「【君】、とだけ。それ以上でも以下でもない。私の大切だ。」

 満足かな、と首を傾げたゼドは嘲るように笑う。どうでも良いだろうと肩を竦めた彼は退屈を露わに溜息を吐き出した。


 見れば見るほど可愛らしい。赤が散って咲いた肌色の花はとても美しく可憐だった。

 君は、【肌色の君】と。最初で最後、俺だけがお前の名を呼ぶ。

 「始めよう、お前にはやられたまんまだ。」

 「来なさい、楽しみが待っているので手短にね。」


 断裂刻印が壁を切り裂いた。狭い部屋、避ける場所も限られている。指が五本、両手で十の鋭い凶器は柔らかく掴もうと迫る。触れられただけで終わり、とまでは言わないが少し厄介だ。

 「来るのは分かっていたからね、卑怯とは言うまいな?」

 彼が指を横に振ると壁からは見覚えのある文字の縄。しかし既に見切っている龍馬は【灰屍】で巻き取り斬り捨てる。


 「卑怯汚いは敗者の戯言だ、全て斬り伏せてこその屈服だろう?」

 「くはは、なんだ君も案外楽しめそうだ。」

 右手の刻印を剥がしたゼドは新たに文字を刻む。爆裂の衝撃を使い懐まで一瞬で飛び込んだ彼は斬撃の手で掌底を放った。


 ガギィィイインッッ

 およそ手が衝突したとは思えない金属音。ギリギリと刃と指が拮抗する。龍馬が弾くのに合わせて飛び退いたゼド。不敵な笑みでもう一度飛び込んだ。

 流れるように納刀した龍馬も駆けるゼドを待つ。既に間合い、腰を切って放つ神速の抜刀は彼の腰から肩を両断する。そう思われた。


 彼は右手を差し出している。切り刻もうとしていると、しかし一瞬視界の端に映った刻印は先ほどのものとは全く違う。ただの勘、しかし嫌な予感だった。

 急いで身体を捻り、右手の軌道から外れる。直後右わき腹に激しい熱と痛み。


 「かはっ…」

 吐血した彼はにやりと笑って煙の上がる手を握った。掌には熱線刻印、鋼鉄の壁は焦げていてドロドロと溶けだしていた。

 「ごふっ、ごはっ…」

 ビシャッと地面にこぼした血は大量で、彼の顎に伝うものとは比べ物にならない。抉られた脇腹は血さえ出てないが黒々と焼け爛れ、痛みも分からないほどの衝撃が身体に走っている。

 しかし龍馬は立ち上がった。肉も骨も焼かれる重傷、それでも負けられない。


 侮っていた。加減するのも危険だと悟ったゼド。

 「言葉が足りない…」

 先ほどの一撃。屠ることを確信して放ったというのに掠めて終わるとは。あまつさえ反撃を喰らって、見た目には分からないが身体の奥に走った衝撃には驚いた。罠を張り、からめ手を使ってもこの程度。最早なりふり構ってはいられない。


 掌を向けたのはもう一つの透明なケース。中にはすやすやと寝息を立てた少女が一人。放った爆裂を止めようと龍馬が回り込むが目的は彼女では無い。

 バリンッッ

 龍馬の身体が障壁の破片と共に吹き飛んだ。爆風は凄いが威力の抑えられていて、龍馬の身体には傷一つ無い。横を見た、それは美しく寝息を立てている。


 「彼女を傷つけるつもりは無いさ、ただ返してもらおうと思ってね。」

 「なに?」

 聞き返す、返すとは何か。破片を落としながら龍馬は彼を睨みつける。不敵に笑っているのに目は死んでいて、悍ましい闇が渦巻いていた。


 「聞くがリョウマ、神とは何だい?」

 突然の問い、意味の分からないそれは答えを求めたものではない。

 「景色を見る、音を聞く、においを嗅ぐ、熱に触れる、食を味わう…人は皆、五感という美しく素晴らしいものを与えられて生を受ける。それを奪った私は愚か者だろうか?」

 何を、言っているのか分からない。奪った?見えてこない話しに困惑する龍馬に見せつけた掌、指の間から飛び出た何かが蠢いて這う。


 黒く小さい、細長いあれは虫だろうか。異常なのはその小さな身体、形作るのは黒い文字の集合。

 「素敵だろう?文字を支配する私に唯一許された、結晶だ…」

 ザワザワと袖から這い出る文字の虫はゼドの掌で遊んでいる。

 「体内に忍び込んだこいつらは脳で囁くんだ。君は目が見えないと、君は耳が聞こえないと。」

 血の気が引くとはこのことを言うのだろう。全身が冷たく、恐ろしい感情に浸っていく。考える事を止めないと、その最悪の結末が現実になってしまう。


 「やめろ…」

 「名を、」

 「やめろっっ!!」

 龍馬の叫び声も彼にとっては声援のようで、恍惚といやらしい笑みを浮かべている。


 「名を、【虚言虫】。さあ帰っておいで、私の可愛い子供達…」

 ウゾッ モシャモシャッ

 彼女の耳から、口から鼻から這い出る黒を直視出来ない。目を開けた彼女が苦しそうに吐き出して椅子から崩れ落ちた。地面を蠢いた虫がゼドの足を這い上がり、彼の掌に集まっていく。


 「神に与えられた美を汚した私は愚者か…いや違う。踏みにじる、私は超越者だ。」

 握った手から長い手足がモゾモゾと飛び出ている。手からこぼれ落ちそうな黒い塊を彼は無理矢理口へと押し込んだ。言葉の塊を喉奥に詰め、苦しそうに嚥下した彼は満足そうに息を吐く。


 ゾワッと首元に走る文字が顔に全身に、指の先までも黒い線で埋めていく。

 「支配とは、刻むことだ。恐怖と絶望を知り、死を刻んであげよう。」

 両手を大きく広げたゼドは文字を顕現させて何かを形作る。両手に持った槍は言葉の羅列。蠢く文字が激しくぶれた。


 訳も分からず刀を振るった。心が壊れてしまうのを必死に繋ごうと、しかし簡単に避けられて腹を貫く文字の槍。ゼドの身体に刻まれた反射刻印は全てを自動で避ける最強の防御だ。

 「どうした、鈍いなあ。」

 実際龍馬の動きは感情に乗って速さを増していた。しかしそれを上回る刻印の力。ゼドの身体は左右に激しくぶれていて、気が付いた時には懐目の前。


 パァアアンッ

 左肩に走る衝撃、骨が砕かれて力が入らない。腹を蹴り飛ばされてごみのように舞う身体が壁を叩く。

 絶望に堕ちていく。首を上げた目線の先苦しそうに呻く彼女の姿。もう聞こえているのだろうか、彼女が初めて見る景色がこんな…

 

 何故そこまでする?

 

 知らない声だ。いや、これはずっと聞こえなかったあの声。何故。ゼアリスに命令されたから、そんなつまらない理由では無い。ここで見捨てれば俺は廃れてしまう。自分の中の矜持が、もっと奥底燃える心臓が鼓動を止めてしまう。


 湧き上がり煮えたぎる、度が過ぎる激情に壊されていく。怒りも憎しみも塗り潰して残った純粋で美しい闇は、龍馬の身体を動かした。

 「まだ、立ち上がるか。」

 笑顔でゼドがそう言った。炎が一つ、暗い部屋で濃い影の差した龍馬の顔。激情に殺された波は暗く揺蕩って、穏やかにそして静かだった。


 龍馬に向けられた掌、刻印が光る。

 動けるはずがない龍馬は立ちすくんだまま、右手に携えた彼女を鞘に戻す。

 

 音は無かった。暗闇に銀が奔って色付く。伸ばした掌、刻印が空に回って落ちた。

 「ぐぅあ…っ!」

 初めて苦痛の声を聞いた。止血するために脇に手を挟んだゼドは味わったことの無い絶望に、そしてアディラの時でさえも理解の出来なかった感情の名前を知った。地面に落とした視線に少し先に見える右手首は汚物のように捨てられている。息切れをしながら這いつくばった彼は慌ててそれを拾って傷口に抑え付ける。


 「は、はぁはぁ…」

 刻印で縫い付けた手は痺れるが問題なく動いた。動かないのは足、震えてしまって前に出るどころか後ろに引くことも出来ない。

 退屈?暇?そんな事とうに忘れている。頭と心を埋め尽くす恐怖という感情が目の前に霞んで呼吸を阻害した。


 「あんたのおかげだ。そうだ、感情は要らないんだな。」

 冷たくて凍えてしまいそうな目が見下ろした。息を飲むことも出来なくて口から垂れる涎の感覚も無い。ふらふらと立ち上がった彼は壁に転ぶようにもたれかかった。

 そこには別人が立っていた。光を失って闇に埋もれた目はゼドを見ているようで見詰めていない。宿る重蔑の炎は一色の黒。


 「灰屍。宿れ、灰骨鬼焔(きえん)。」

 鞘を走った黒焔の彼女。鬼の焔が闇に燃えた。

皆様これからもどうか応援よろしくお願い致します。頑張って書き続けますので見て下さると幸せです。

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