第九十九話 ボクハリリー
大変長らく、一か月近く皆様をお待たせしてしまい申し訳ありません。これから普段通りの投稿頻度に戻ると思いますので良ければ読んで頂けると嬉しいです。
初めは、哀しみだった。
物心がついた頃告げられた、自分は血の繋がった子供ではないと。涙ながらに語るその二人の姿を、幼い自分は忘れることが出来なかった。
リリー
愛する二人が付けてくれた名前が大好きだった。
どうして僕の髪の毛は黄色いのか不思議で、二人と違うことが嫌だった。けれど庭に咲くユリの花を見せて微笑んだ二人。僕と出会った夜、まだ赤ん坊の僕があの花のように清楚で美しく見えたと言う。僕は自分と同じ名前の風に揺れて首振るそれに、その儚げな姿に次第魅入られていった。
愛されていた。愛していた。
僕の名前を呼ぶ楽しそうな声を、僕の手を握り歩くその幸せそうな横顔を。
「おかあさん、おとうさん。」
そう呼ぶと涙をこらえて嬉しそうに笑う二人の顔が、僕は大好きだった。毎日が、天にも昇る心地だった。
あの日までは。
愛していた、深く。愛されていた、醜く。
あの日、僕の手を掴んで笑う父の笑顔が怖かった。離さないと力の込められた手、痛いと言って見上げても影の差した表情は変わらなかった。
その日僕の声が届くことは無く、泣いても叫んでもあの人は止めてはくれなかった。
痛かった、苦しかった。重くのしかかる体を押しのけることも出来ず、抵抗すれば強い力で殴られた。耳に掛かる声も見下ろす顔も吐き気がした。肌と肌が触れ合っているというのに、体は心は凍てつくほどに寒かった。
噎せ返る、愛欲の臭い。
哀しみは、怒りへと変わっていった。
幾度となく肌を重ねてもただただ憎く、醜い愛に組み伏せられる。来る日も来る日も、泣いて吐いて。
凍るほど冷たい悲しみを侵食していく怒りは、僕に哀しみを与える全てを壊したいと膨らんでいった。激しい嫌悪を突き付けるように、鋭く尖った棘のような怒りを。
あなたを貫かんと向けた怒り。針のように、棘のように。心臓の内側の心の奥の、僕の中を張り裂いて飛び出した。
塞がれた口で籠る嫌だという叫びも、振りほどこうにも組み伏せられた小さな体も、恐怖と嫌悪で震える華奢な背中も、終わりを願って歪んだ表情も、全て、あなたを欲情させるだけ。
おかあさんが帰るまで、陽が昇って沈むまで、あなたに抱きしめられる僕が嫌いだった。背中を見詰める視線が怖くて、優しい微笑みが嫌いで、降りかかる諭すような声が汚らわしかった。
でも、それでも僕は愛されていると信じていたんだ。僕を見て嬉しそうに切なそうに笑うあなたを愛していたから。
嬌声を上げて喜びを知った。
汗が滴って床を濡らすほど暑い、庭のユリが咲き誇る季節。暗くて風の入らない蒸した小屋の中、玉のように肌で踊る水滴を弾く。
床が軋む音に隠れた喘ぎ、あなたの上で楽しそうに跳ねる僕が居た。
荒い息が重なっている。声を上げることも、手足の自由も許されている。抵抗も逃避も自由だ。なのに、ああ僕の張り裂けた心を繋ぎ留めようと癒着した喜びという感情が深く中まで抉れた傷口の上辺を覆うから、僕が僕を偽って僕を演じて僕を隠す。
嫌悪に堕ちるよりも穢れに身を任せるよりも、朱に染まった快感を興じる方が心に優しかった。首を絞められる苦しみも、叩かれた痣の痛みも全部喜びに変換して慰めた。
喜びは増殖する。
枝分かれに広がっていく、まるで木の根が張り巡るような速さで心の穴を埋めていった。棘針が複雑に傷つけた肉壁を愛撫する感情が何より心地よくて、ただの気休めすぐに消えてしまう泡沫だと知っていながらもその一時を幸せだと自分に勘違いさせた。
嬉しい、楽しい、満たされている、愛されている。これが喜びだって自分に言い聞かせていないと、だってそうしていないと胸の内で怖ろしい何かが這っているのに気が付いてしまうから。
僕の体に触れて。あなたの体温を感じて。嬌声を飲み込んで。熱く蕩けた息を吐く。
悦楽に浸って重なる肌が汗で滑る。距離が無くなってくっついて、まるで一つになったように溶けていく。それが幸せだって思っていた。いや、本当の幸せでは無いと知っていたからそう思い込んでいた。
あなたがくれたから。
おとうさん、そう呼んで泣きそうになる嬉しさも。
夜一人、鼻を啜って無く背中に小さく描いた哀しみも
手を取って歩き笑う、僕の小さな手を壊さないように優しく包む温かさも。
僕の方を向いて、しゃがんで微笑む喜びも。
知らなかった。些細なものが全て幸せだって。
あなたの幸せが僕の幸せだった。だから僕の下で笑うあなたの汚い喜びも僕の喜びだった。
だからこれもあなたのおかげ。あなたと同じ。あなたがくれた。あなたのせい。
あなたは知っていた?
喜びからも生まれるんだよ。
僕はリリー、欲を孕んで堕胎する。
生まれた君は、
絶望の子。
小さな体。細い手足。可憐な笑顔に、空虚な瞳。
「僕ネぇ?ぼク、あそびタぁァいの!」
満面の笑みが演出する狂気に龍馬もアクノマキアも飲まれていた。
「アリス、下がれ…。」
額の汗が垂れて顎を伝う。目の前で楽しそうに笑う、とても可憐で儚げな少年。顔も声も体も、表面的情報全てが彼をリリーと告げている。
だが他の、五感を除いた龍馬の全てがそれを違うと否定する。リリーの生皮を被って中身を奪った、目の前にいるのは怪物だ。
下げていた刃を一度鞘に戻し、息を吐いて目に力を入れる。幼い顔、小さく細い手足、目を閉じて睨みつけても変わらない。そこにいる、邪悪を着た存在がそこにいる。
「アリスッッ!!」
声を荒げる必要など無いように見えた。そこに居たアクノマキアもアリスも、そして龍馬にだって目の前の怪物に攻撃の意思が無いことを理解していた。だが知っていた、龍馬の脳はこの状況を見たことがあった。丁度今、思い出したんだ。
龍馬は知っていた。だから咄嗟に体を動かすことが出来たのだ。アリスの襟首をつかみ小さな体を引き上げて後方へと投げた。多少雑に投げて氷の上で二・三回転したのはこの際気にならないだろう、彼女が居た場所に振り下ろされた大きな灰色の塊を見てしまえば。
轟音と共に氷を砕く灰色は五本の触手を伸ばし、潰したはずと血糊を探す。伸びた腕を支えるようにまた這い伸びた無数の腕は小さな体を最後に連れて来た。
それがなんなのか。引っ張られるように地面を擦る体は歪に未完成、潰れた芋虫よりも醜悪なその姿。あるべきが欠けて蠢いた、泣き声をミイィと細吐きに。穢れているのは、彼が流され墜ちたから。
喜びの子。
「グ婉ッ!!あはハっ、僕のコだあ!」
頬に爪立てて皮膚を引き裂きながら叫ぶ。見てくれと、自慢する我が子は醜怪だ。これが想像の中の創造物だというのなら、何故そこに美しさの微塵を散らすことは出来なかったのだろうか。
母の下へと戻った子供は、健気にそれを守ろうと前に立つ。増殖して実った肉房が木の葉のように揺れる。太い指を五本、腕だと主張するには数が多い灰色の群れ。
「シドが、君の騎士が、どうやらしくじったみたいだね。」
「俺の、では無えよ。だが、そうか…チィッ、アディラは何やってやがる。」
血管が浮き立って指の骨が音を鳴らす。空気を切るように吐いたアクノマキアが姿勢を低く、爪と牙を剥き出した。
「シド…シドは。」
ミィィィ
苦しそうな泣き声が響いた。母に甘えるように寄り添う巨体に、子供のようだと微笑ましくはいられない。濃密で噎せ返るほどの血の臭いに言葉を吐く余裕も無かった。
親子ごっこがアクノマキアの神経を逆撫でする。それは彼女が知らないものだから、望んだものだから。馬鹿にされたようで腹が立つ。
激しい喪失感に飲まれそうだった。初めての感覚に心が温度を下げていき、目の淵からこぼれそうになる水滴を拭う。スン、と鼻を擽って抜けていく懐かしい臭いに指が震えて目の焦点が合わない。
まだシドの気配を感じるというのに、目の前の怪物から彼の血の臭いがする。か細くて消えそうな生の気配より、怪物の手に張り付いた死の気配の方が大きくて。噛み締めた牙から荒い呼吸と憤りが漏れだすのを自制出来ない。
雫よどうか止めないで
「殺す。」
叫ぶ殺意を止めないで
「ころす。」
たった一人の家族を想う
「コロスッッ!!」
柄にもない、この仇討ちを
四足に地面を噛んだ彼女が姿を消した。破裂したような音がして氷が砕けて宙を舞う。
ブツンッと硬いものを無理矢理に引き千切る音がした。瞬きの途中、振り返った先で灰色の腕を咥え唸る四足の獣。白目を剥いて怒り震えるのはこれから獲物を捕食する肉食獣。
親を知らず、家も知らず。闘争の中で生きて来た。
路地裏の奥、ごみ捨て場。知っている景色は黒と赤、灰色混じりのガラクタ。冷たい残飯を漁るのが普通のことで、温もりの残った残飯を最高の御馳走だと思っていた。
拾われたのは五つの時、湯気の出る食べ物を差し出した老人は言った。
「牙を隠し、爪を潜め、羽を望むは愚か者よ。じゃがお主。お主には牙も爪も、まあ羽は無いが貪るほどの欲もある。だと言うのにお主は、本能を感じぬ恥者よ。」
その老人は両親の事を知っていると言った。雨の下だというのに老人の体は濡れておらず、後に彼が持つ黒い蝙蝠のような物が傘と呼ばれる道具だと知った。
「儂と来なさい。」
捨てられたとは言え汚れでは隠しきれない、幼いながらに美しさを宿した容姿。これまでにも何度か誘拐されそうになったことはあった。しかしその老人に手を引かれた時は抵抗する気が起きなかった。伸ばされた手は雨に濡れても温かかった。皺を撫でると擽ったそうに顔を顰めるのが面白可笑しくて、彼女は初めて微笑んだ。
地獄だった。あのごみ置き場が楽園だったと思う程、毎日が苦痛の日々だった。
初めて満たされるということを教えてもらった。そして初めて真の餓えと渇きを知った。
闘いを知り、生と死を知り。命を奪う、罪と業を知った。
「本能を貪れ。」
闘争に生きた。恥者から愚か者へ。
まだ獣へと至らない、あなたの道を歩くだけ。
背中を目指して生きて来たのに、これからどうやって生きればいいの。
「まだ、教えてもらって無いのに。まだ、何も返せてないのに。許さない、殺してあげる。殺してあげるから、もう一度…もう一度あたしの手を取って…っ。」
牙を震わせて嗚咽する。彼女が加えた腕の先、べっとり着いた血糊に白髪。あなたの臭いがこびり付く。
「リョーマ!!こいつはあたしが食い殺す!!」
そう言って答えも聞かず風に乗ったアクノマキアは次々に腕を食い散らかし始めた。猟豹と猟犬の混血、生まれながらのハンターである彼女は最早止まらない。
「俺らは蚊帳の外らしいな、リリー。」
退屈そうに足元の氷を弄る少年に声をかける。名前が呼ばれたからと顔を上げた彼の、幼い表情が憎らしい。横たわり憔悴した子の偽物だというのに、見分けがつかない彼の可憐な顔。
相手は混沌だ。躊躇いなど無いはずだ。と言い聞かせてもまだ足りないほどに、寄生虫の姿は少年のそれ。罅の入った心の表面を棘で撫でられているような、そんな気色悪い恐ろしい感覚が拭えない。
「おにいいぃイいさんが?遊んでクレルの?」
ケタケタと歯を打ち鳴らして笑う、黄色と赤の混じった橙。皮膚を掻き毟って血を流した彼は満面狂気に溺れている。
「可哀そうにな、お前は。【橙色の君】、お前は生まれちゃいけなかった。」
綺麗な黄色と汚い赤色、醜く混ざって鏡に映る。
あなたはだぁれ?
反転する僕にそう聞いた。
苦しくて悲しくて、鏡の前で笑うしかなかった僕を嘲笑う。君はいつだって幸せそうに笑うから、君になりたくて。
鏡に映った僕が笑う。
罅割れた硝子に乱反射して。
最後までお読みいただきありがとうございます。次回で百話を踏むことになりました、これも皆様が応援して下さるおかげでありますので本当に感謝感謝の一言です。これからもどうか応援していただけると幸いです。




