第九十八話 君と僕と、あなたはダぁレ?
第九十八話です。皆様いつもお読みいただきありがとうございます。最近寒暖差が激しく体調管理が難しいとは思いますが、このお話を呼んで少しでも元気になっていただければ嬉しいです。これからもどうぞよろしくお願いいたします。
星が降って出来た山頂の窪み、磔刑湖はお椀の底に出来た水溜まりと言うが妙だろう。
縁には十分の幅が在り、何人の人間が立とうが座ろうが崩れる事の無いしっかりとした地面が在る。
そう丁度こんな感じで人が二人、寝っ転がっていようが何ら影響は無いくらいの。
「一人銀髪のガキが居なくなったがぁ、何処だぁ?だってよぉ俺は今少しだって目を離さなかったぁ、なのによぉほら何処にも…っておい聞いてるかぁ?」
あまり知性のあるとは言えない話し方、ぶっきらぼうな口調の男は身体を地面に伏せて遠く前方を照準器から覗いている。ジッと見つめる先での異変、おかしいと先ほどから言っているのにいつまでも返事の無い相方の方へ視線を外した。
「ええ聞いているわ。そしてその銀髪の子、私の目の前にいる。でも心配しないで【トキシック】あなたはそのまま湖の方を覗いていなさい。」
立ち上がり後ろを向いてそう言った、ピンクのスカートは可愛らしくフリフリと揺れている。地面に伏せていたせいで着いた砂埃を手で払う、汚れたままでは失礼だと彼女はそう思っているから。
「えぇ?お、おう…早めになぁ?」
「ええそう、あなたはそれで良い。さてお待たせを、失礼いたしました。ご機嫌麗しゅうマドモアゼル?」
綺麗な身なりの少女だ。彼女はスカートの裾を両手で持ち上げて屈膝、片足を斜め後ろの内側へ引いて頭を下げた。姿勢よく、頭だけを下に目線を落とす。人形のような顔は頭の先から見てもまるで作り物のように整っている。所作にも気品がある彼女が何故、土の上に伏せていたのか。
「アディラ・セントグレンとお見受けします、あなた此処へ何をしに?いやそれよりも何故ここが?」
「…へえ、ぼくの名前知ってるんだ。何者?」
ゾワッと一瞬で背筋の汗が凍り付いたように冷たくなった。氷の粒が背中を滑り落ちていくような感覚、たじろいで後ろに一歩引くのさえ躊躇ってしまうそんな恐怖による凍てつき。
【トキシック】と呼ばれた、伏せたまま湖の方を以前を向いている男もそれを感じているのだろう。今後ろに何が居て何が起こっているのか、振り向くなとは言われたが自分は何も知らずに死ぬのではないか。そんな得体の知れない恐怖を。
(ふふ、ふ。聞いていた通り、いえそれ以上の凶暴性。この高み、あの方が目を掛ける理由もわかる。しかしっ。)
「ダンマリなんて寂しいなぁ…あははっ、こーんな近くに居るのに。」
瞬きすらしなかった、動いた気配すら。目の前から存在を消した彼女を再び確認したのは首を撫でる細い指の感触で。
爪を立てられた皮膚がぐにゃりと沈みこんでいく。
「このまま肉を抉り取って喉を潰せば、その可愛い声も二度と聞けなくなっちゃうのかなぁ。ねえ、その前に教えてよ。君達は何者なのかな?」
くすくすと楽しそうに笑う目が蛇のように細く歪んだ。罠にかかった獲物をこれからゆっくりと、そしていたぶりながら食してゆこうとする顔だ。だがしかし。
「しかしアディラ・セントグレン。私じゃあ無いの。」
あと少し力を込められたら喉元を握り潰されてしまうというのに、彼女は抵抗する素振りを見せるでもなくすました顔でそう言った。
「んー?何が…あれ…。なんでかな、君の首を絞められない。」
様子がおかしい。ギリギリと力を込めて首を潰しているはずの手が、何故か指一つ動かすことが出来ないのだ。アディラの尋常じゃない力をもってもピタリ寸分と動かない。
「私じゃあない、罠にかけられたのはあなた。」
「なに…?」
すぐさま喉元から手を引いたアディラ、そのまま反動をつけて少女の腹を突き破った。はずだった。
綺麗な服を歪ませてその下、見えないが隠されているだろう腹部の肌を少し押し込んで止まったアディラの拳。おかしい、彼女へ触れることは出来るのに彼女への一切の攻撃が出来ない。
「改めてアディラ・セントグレン、私の名前は【カーテシー】。あなたは先ほど私の挨拶に答えることは無く、失礼なことに無視をした。あなたにお教えいたします。礼儀を欠く、それがどれだけ愚かな事か。今からあなたは私に、一切の危害を加えることは出来ない。そう、あなたの攻撃は全て私に通用しないのです。」
アディラの細腕を掴んだ少女、【カーテシー】は今言ったことを示すかのように長い爪を皮膚へと立てた。キリキリと滑りそして傷をつけていく。プツプツ湧き出る血の雫が腕を流れて地面に落ちた。それが証明するのは一方的に彼女を攻撃することが出来るということ。
離せと言わんばかりに身体を捻じ込んだアディラの上段蹴りが頭へ、しかしそれも衝撃さえ伝わることなく彼女の美しい長髪を揺らして止まる。
「言ったでしょう。傷一つ、あなたは私を害することが出来ない。たとえあなたがどれほど…っ!」
完全な優位に立った、それはただの確信では無く事実。だというのに言葉と唾を飲みこんで冷や汗が噴き出したのは目の前で歪んだ景色のせい。
背中に走る寒気に飛び退いた【カーテシー】は歯がカチカチと音を立てている事に気が付いて口を手で抑えた。今自分は最高最強と言われる殺し屋の上に立っている、この場で勝利を手にすることが出来るのは自分だ。なのに。震えが止まらない。
「あはは。」
その笑い声だけで感じる、これが本物。初めて知るこれが、本当の死。
(だ、大丈夫。私は今彼女に対して完全なる無敵状態。大丈夫、大、丈夫…なはず。)
「じゃあさ君はいいよ。その後ろの子に聞くとする。そうだね、君は…その辺で待ってなよ。後で遊んであげるから。」
「待ちなさい。それを許すとお思いで?」
悠然と隣を通り過ぎようとするアディラの前に立ち塞がる【カーテシー】。額に汗は浮かばせているがその眼は優位の主張を崩していない。
「私達には課せられた任務がある。【トキシック】の任務遂行を護衛するのが私の任務。狙撃手と観測者、二人で一つ。彼は私の守護を信じている。」
仁王立ちした彼女に歯先ほどの清楚が消えていた。しかし気品のある佇まいはそのままに、鋭い目つきでアディラを睨んだ。
「あっははは!面白いねえ。後でって言ったのは君が厄介だから後回しに、なんてつまらない理由だと思う?遊ぶの、君と。だってぼくの攻撃では死なないんでしょう?壊れないんでしょう?そんなの…最高の玩具じゃん。」
高笑い、上を見上げて顔を下ろす。自分よりも小さい彼女を優劣から見ても上から見下ろしているというのに、遥か高みを見上げている錯覚。
「お座りだよ。かわいこちゃん。」
「ッッ!!」
自分の隣を通り過ぎる風に手を伸ばした。細腕を掴んだがしかし、離すわけにはいかないと踏ん張る身体が簡単に持ち上げられる。引き摺りながらも彼女は【トキシック】を殺しに行くだろう。
「なっんの!!」
足を思い切り踏み込んだ【カーテシー】は足首から下を地面へ突き刺した。固定される体、やっと振り返ったアディラが煩わしそうにこちらを見る。
「あなたは行かせるわけには、いかないっ…あなたはここで眠ってもらいます!!!」
彼女の体を引っ張り放り投げた。空中で舞う彼女が驚いた顔をする。
これは意地だ。今が【トキシック】を逃がす絶好の機会、しかし逃げろと決して言わないのは意地だ。最強の殺し屋が後ろから迫っているのに彼が何も反応を示さず湖から目を離さないのは自分を信じているから。この【カーテシー】が無敵で負けないと知っているから、自分の任務に集中している。なのにここで彼女を行かせてしまえば彼の信用を裏切ることになる。それだけは許せない。
私は【カーテシー】、礼を欠く人間に私が負ける道理は無い。
「あっはぁ!いいねえ、分かった少しだけ。先に君と遊んであげる。」
「遊ばれるのはあなたです…っ!」
二人は衝突した。少女だと侮るは愚か。観測者として【カーテシー】は自らの体を鍛えに鍛えた。彼女の能力は礼を欠いた者への絶対的有利を得ること。戦闘における特殊な能力は一切ない。故無敵間における戦闘力増強のためにこれまで二百年と力を溜め込んで来た。相手がどんなに強い殺しの達人だとして、一方的に攻撃出来るとなって負けるわけが無いのだ。
だが現実とは常に惨酷で、真実だけを無慈悲に叩きつける。
血も傷も一切ない。なのに倒れている、息を荒く地面に倒れているのは【カーテシー】だった。
「いい運動になったよ。」
言葉を発する気力も無い。地面から起き上がろうと腕を立てるが力が入らず崩れ落ちる。
肉体へのダメージは一切ない。無敵な彼女は文字通り一切の攻撃を受けることは無かった。溜まるのは疲労だけ。それも鍛えた彼女には一日戦い続けても平気なほどの体力が在った。
だが全て無駄に終わる。疲労の一切は無い。
何故なら【カーテシー】に攻撃する余地が無かったから。無かった?いや、与えられなかった。
最初の一撃を交わされて、そこからが地獄だった。腕を掴まれた彼女は尋常じゃない腕力で全身を空中に振り上げられると、一切の反撃を許されず何度も何度もまるで金槌で木版を打ち付けるようにガンガン叩きつけられた。最初は何を無駄なことをと思っていた。でもいつになっても反撃の隙間が僅かさえ見えず、ただ終わらない一方的な攻撃を傍観することしか出来なかった。
彼女が疲れた言って手を離した隙に反撃を試みた。だが次の瞬間には天を見上げて寝そべっていることに気付く。そして今度は無防備な顔面に拳が減り込んでいくのを何回も見せつけられた。当然ダメージは一切無かった。痛みも無かった。あるのはただ屈辱だけ。
生き地獄。形容するには最も正しい言葉だろう。
解放された時、体は痙攣していた。全身が拒否反応を示すかのように、ここから逃げ出したいと渇望していた。もう任務なんてどうでも良いと、心に刻み込まれた絶望に抗うことが出来なかった。
「どうだった?」
にこにことしゃがみ込んでこちら見下ろすアディラに震えながら目線を合わせる。
「あ、うあ…。」
「うんっ、楽しかったね。」
それだけ言って【トキシック】の方へと歩き出したアディラ。楽しかった、その言葉は決して皮肉では無いのだろう。彼女は本当に心の底からそう思っているのだ。それが彼女、最強の殺し屋セントグレン。
こぼれる涙を拭うことさえできず、彼に逃げろと叫ぶことも出来なかった。足取り軽く歩く彼女の背中を地面の上で見つめていた。
「なぁに見てるの?」
「今な、あそこで気持ち悪い怪物との戦いを見てるんだ。見ろよ手が何本もあるぜ。」
地面に伏せ石弓のつけた照準器を覗く男。その隣へ同じように寝転んだアディラが興味津々で聞いた。
「……【カーテシー】は?」
垂れる汗。相棒の声が聞こえず、敵がすぐ隣に居る。死が近いと確信していた。だが決して目を離すことは無く彼女へ問い返した、自分の任務を全うするまでこの場所から逃げ出さないと。
「向こうで寝てるよ。」
「そうか…。」
指が震え始めた。相棒が、【カーテシー】が倒された。その事実を脳が受け入れて、濃密な死を思い描き始めた。
「君達が何をしに来たのかは知らないけどさ、ぼくには今許せないことが一つあるんだ。ぼくの前に立ちはだかろうと構わない、ぼくを本気で殺そうとするのだってむしろ嬉しいよ。でもねぼくのモノ、リョウマの邪魔をすることだけは絶対に絶対に絶対に許してあげないの。」
見なくても分かる、その笑顔を見てはいけないと。ここまで届くはずは無い、湖とは関係ない凍てつくような恐怖。
「そんな事されたらぼくね、ぼくねなんだってする。リョウマ一人の為ならば何千人、何万に残らず鏖にする。分かるよね。分かったら今すぐここから立ち去るのがおススメだよ?」
ブワッと汗が噴き出した。脅しでは無い、これは未来の宣言。
照準器から目を外した。任務の失敗を自ら手にし、石弓を片付ける。
「ああそう、君達のボスに伝えておいてね。次は無い、って。」
倒れる相棒を背負い上げた【トキシック】にアディラが声をかける。穏やかな笑顔で物騒なことを言う、と苦笑した男は首だけで振り返った。
「自分で伝えなぁ。ボスはあんたらに目をつけてる。すぐ会うことになるだろうぜ…。」
言い残した【トキシック】は足取り重くその場を去った。一人アディラはかけられた言葉を飲みこんで息を吐く。
「あんた、ら。ねぇ。」
邪魔者は居なくなった。山頂に一人、湖を見下ろす。残された不穏にアディラは小さく舌を打った。
振り下ろされた刀が幼い顔の寸前で止まる。
「リョウマくん、今更臆したなんて言わないよね。」
少しの怒りを込めたアクノマキアの苦言。しかし当の本人はその言葉も聞こえていないよう。
「躊躇いは刃を鈍らせる。分からないはずは無い、痛み無く彼を葬ることが出来ないなら代わりなよ。あたしが…。」
「待て。」
顔を上げた龍馬がアクノマキアを手で制した。何かを気にするように左右を探る龍馬を彼女が疑問顔で見る。今が一番の正念場だというのに、何を他に気にすることがあるのだと。
黙り込んだ龍馬、何かがおかしいと考えを巡らせる。
「ねえ。」
痺れを切らして肩を叩いたアクノマキアが無視されたことに不満を見せた。そしてもう待てないとリリーの方へ歩きだし、一撃の内に伏せようと手を振り上げた。
「…っ!アリス!」
「何?」
突然の大声に二人が龍馬の顔を見た。アクノマキアも振り上げた手を誤魔化すように背中へ隠す。龍馬が呼んだのはあろうことか静かに後ろを付いて来たアリスのこと。
「どしたのリョウマく…、」
「アリス、お前山頂に到着した時なんて言った?」
「もーあたしのこと無視すんなっ。」
頬を膨らませて怒るアクノマキアを蚊帳の外に、龍馬はアリスへ問い詰める。両目を閉じた彼女の元へ詰め寄り肩に手を置いた龍馬は切羽詰まった真剣な顔で少女へ目を合わせる。
「ここへ着いた時、アリスお前は『いない』そう言った。あれはなんだ、何がいないって言ったんだ?」
「?混沌が、龍馬達の探している子はいないって言ったの。」
そう、彼女はあの時いないとはっきり言った。山頂に到着して最初に、混沌が見えないと。
ハッとしたのは龍馬だけでは無かった。
そうだ、リリーは浮島にいた。到着してすぐには浮島の上に誰が居るかなど分からないほど遠く、龍馬もアクノマキアも近づいてようやく気が付いたのだ。遠すぎた。目視出来ない場所にいたのだから。
でも、彼女は。
「そう。アリスは…っ。」
反対側のテレスを常に感じ取れていた。つまり彼女は山頂の範囲程なら混沌がどこにいるかなど分かるはずなのだ。いない、それが意味する。混沌はこの場に、リリーの体に混沌はいない。
ならば今、どこにいる?
「は、あはは…まさか、ね。あれだよいっぱい生んで力が無くなったんだよ、そうだよ…。」
言いながら信じられないと沈黙するアクノマキア。周りを気にし始めた彼女の額には汗が垂れ落ちる。
龍馬とアクノマキアは何か言うでもなく背中を合わせて警戒を強めた。目視できる場所には何もいない。全神経を集中させて物音や気配を逃さないよう目を閉じて、山頂全体に網を張る。
「あ。」
地面の揺れが収まって、沈黙が続くこと数分。アリスの声に二人が全速で振り向いた。
「来た。」
彼女が向いた方向を見た二人は目を見開いた。その姿その気配、感じ取る全てが告げている。リリーだ。二人目のリリーが現れたと。だが目に映るそれが全力で否定している。
歩くたび氷床に垂れる赤の雫。それが手に持つなにかから点々と垂れて、美しい氷の平野を汚していく。
「リリー…。」
その声が聞こえたのか、それは柔らかい笑顔を浮かべた。手に提げるモノが無ければまだそれをリリー呼んでいただろう。
「あなたはダぁレ?」
浮島に寝かされたリリーを見てそれが言った。ああ、声さえも全く同じだ。
「僕ハ、リリーぃ。」
違う。
「あナたは、僕、あなタ。ぼクはだァレえ?」
齢十二の幼い少年。名前はリリー。黄色い髪に血がさして、橙色のユリが咲いた。
【橙色の君】が持つ、覚えに新しい女性の頭。恐怖に歪んだその顔は、虚ろ。
「もうイらナぁい。」
べしゃり絵具をまき散らされた地面が真赤に染まる。両手を頬に、恍惚に染まる顔。
「僕とアそんでクレるのぉ?」
一歩近づいた【橙色の君】に二人が臨戦態勢をとる。たった今頭だけになった彼女を、リリーの母親を殺してきたのだろう。返り血を浴びて嬉しそうに笑う彼は、まさに狂気。
「嬉シイなぁアア。僕ッてアイサレテル!」
叫んで揺れる。彼は、混沌。
心の闇から生まれた混沌は宿主の不安や恐れを餌に大きく育っていく。闇を喰らい、果てには肉を骨を命を。侵食した混沌は宿主の体を我が物に、自らの入れ物として生きていく。【浸蝕型】、それをそう呼ぶとするならば。
体を食い尽くし這い出してきた彼を。
【寄生型】、なんておぞましく呼べば美しいだろうか。
最後までお読みいただきありがとうございます。いつも応援して下さる方々には本当に感謝をしております、本当にありがとうございます。これから応援頂ければ幸いです。




