第九十七話 記憶にあった君の温もりは僕の頬に触れて消えていく
第九十七話です。またまた一話が長くなってしまいましたが最後まで読んで頂けると幸いです。
いつも応援していただきありがとうございます。なるべく早く、といつも言っていますが頑張っていきますのでこれからもよろしくお願い致します。
別に断りを入れる必要はないだろうと文句を垂れながら、連れて来られた再びの宮殿。迎えのメイド達に頭を下げられながら通された王の間は、二人の喧嘩の跡など影にも見ないほど綺麗に整えられていた。
「ひっさしっぶり~!」
大扉が開かれるや否やこちらの姿を確認する前であるにもかかわらず陽気な声が飛んで来る。呼びつけの主は玉座の上、胡坐に欠伸に両手に花束。陽の差す大空間、たった一人へ従える自らに負けず劣らずの美女達を侍らすは強者の証か。
「えらそーに…。」
「実際偉いからな。」
軽い恨み言を吐いたアディラを適当に流した龍馬。偉そうも何も対面するはここハデルフロウ大陸の王、本来軽口など叩いて良い相手では決してない。
前を歩く二人に続いて後ろにはアリアンナにヴェルデだけでなく、桜・レティシア・ベルフィーナの(宮殿組とでも呼称しようか)三人組と加えてアリスとテレスまでも勢ぞろいしている。
負傷した龍貴とガラーシュの二人は当然のこと留守番組だ。比べてまだ傷の浅い方であったガラーシュは目を覚ましついていこうと騒いだが、意外なことに引き留めたのはまだ光に不慣れなセシリアだった。
「わ、私にお任せ下さいっ!えっとガラーシュさん、まだ体を起こしてはだめです!」
ガラーシュもか弱い少女に立ちはだかられては強引さを見せることも出来ず、渋々といった様子で留守番することを受け入れた。まあ彼も足手纏いになるということは薄々分かっていたのだろう。自ら退くなど戦士にあるまじきこと、引き留める存在がいたのは救いだ。
「私が責任持ってお屋敷をお守り致しますっ!」
ここで都合が良いのはむしろ龍馬達の方だった。というのも怪我をした二人より心配だったのは一人残すことになってしまうセシリアの安否、病み上がりとはいえ非力な彼女を守る存在がいるのは大きい。
何せ相手は混沌、他の心配などしている余裕はない。ということでダメージの深い龍貴の心配も少しの間は彼女に任せ、他の者は皆宮殿に集まったというわけだった。
「聞こえておるぞセントグレン。全く礼儀を知らぬ…その方ら下がって良いぞ。」
玉座のすぐ傍に控えるは木杖を突いて腰を曲げた老獣。一国の主に向かって敬意を払う素振りの無い二人に肩を竦めたシドは、いつもの通り人払いを済ませて王の間を封じた。
「さて。混沌を排す為の作戦会議といこうかぁ?」
鋭い牙を見せて笑ったアクノマキアが口火を切った。数体の混沌と対峙してきた龍馬も話を聞く限りこれまでとは別格の相手だと理解している。入念な下準備無しに此度の戦いを無事に終えることが出来ないであろうことを、大湖が凍り付いたという事実だけで全員察している。
「まず共有情報として此度の相手【鏡面】がまだ十二歳の少年だということを忘れてくれるな。知らない知りたくないではこの先躊躇というぶれが生じる可能性がある、良いか儂らの相手は子供の見た目をしておるが人知を超越した力を持つ怪と知れ。」
迷いはここで断ち切っておかねばいざという瞬間喉元に突き付けた切先を震わせる。鈍った刃が命に届くほど混沌は甘くない。
ゴクリと唾を飲んだのは宮殿組の二人、とりわけ戦闘に疎い桜とレティシアの顔には憂いが。
「ふむ…やはり、お前さん達二人は後方支援が主とするべきか。此度の作戦は三つの班に分かれての実行とさせてもらう。儂の独断で決めたことじゃ、異議はすぐに申せ。」
そう言ってシドはあらかじめ決めておいた班分けを行った。広い王の間に三つへ別れた班の内訳はこう。
第一の班、龍馬・アクノマキア・アリス
第二の班、アディラ・シド・ベルフィーナ・テレス
第三の班、桜・レティシア・ヴェルデ
班分けは速やかに終わった。皆が納得を示したのには班分けを行ったシド自身が一番驚いていた。当然【賢獣】の考えという前提を皆持ってはいたが、特別我の強いアディラでさえ龍馬と離れたことに文句の一つも無い。
「異論が無いなら話は早い、続けるぞ。まず簡単に第三の班は後方支援、負傷者の救護を担当してもらう。うぬらは非戦闘員、決して戦いの場には近づかないのが命だ。他二つよりは気楽じゃがヴェルデ、お前さんは戦場を傍観するに終わるな。」
「は、はいっ!」
もちろん、混沌を唯一滅することの出来る桜は戦いが終わったあとに大事な役割が待っている。【銀色の君】との戦いから戦闘能力はある彼女だが、前線に配置するにはリスクが大きいと考えてのこと。
「そして第二の班、儂もいるこの班は【鏡面】の能力によって生み出された赤子の討伐を目的に据える。なるべく混沌本体から遠ざかり戦闘を行うこと、これが一番重要じゃ。」
混沌の赤子、これがとても厄介だ。本体よりむしろ強力な可能性がある分今回の作戦では要の班と言えるだろう。ではなぜアディラだけが、新たな赤子が磔刑湖を凍らせるよりも強力であった場合戦力を集中させるべきでは。その問いの答えは第一の班が本体を愛てにする事にある。
「第一の班は【鏡面】本体の制圧じゃ。我々が考える混沌の能力はあくまで仮定のもの、常に最悪を想定した場合で行き着くのは混沌自身が力を有していること。決して気を抜くで無いぞ。」
何も持たない少年一人に龍馬とアクノマキアをあてがうなら過剰だろう。相手が混沌なら、そうなればこその編成だ。
「龍馬クン、ね。別にあたしの後ろで見てていーよ?隣に立たれるとやりづらいんだ。」
「適応力が乏しいんだな。土壇場、足を引っ張られるのだけは御免だが…頼むぜ。」
鼻で笑った龍馬を青筋立てて睨むアクノマキア。無視されるのが余計彼女の癇に障るらしい。一時の共同戦線、仲良くなれそうにはない二人。
アクノマキアにとって複雑なのだろう、自分が好敵手と認めたアディラが、何故この彼女より劣るであろう龍馬という男に付き従っているのか分かっていないのだから。だがそれは表面上に過ぎない。一番の理由は彼女自身でさえ実感していない心の奥底で感じた、龍馬への得体の知れない恐怖が本能的に嫌悪を示していることにあった。
「班分けは終わりじゃ。細かい作戦は各班で擦り合わせを行ってくれ。して大きな流れを決した後、混沌討滅へ向かうとしよう。」
「待て、混沌の居場所を把握しているのか?」
「今朝報せがあってな。場所はやはりか、磔刑湖。凍てついた湖に戻って来たそうだ。」
犯人は現場に戻るでは無いが、混沌の居場所は星降りの聖地。戦場にするには広さも十分、邪魔も入らない。幸い邪魔になりそうな水場も今は綺麗な氷塊。足を滑らせるのだけが心配か。
大まかな決定として混沌本体を叩く為の第一の班は他二つと別れての行動となった。望ましいのは赤子に出会わず【鏡面】に接すること。三人ならばそれも可能だ。
第二と第三の班は共に最短で山道を、報せではもう既に三体目となる赤子が確認されたとのこと。最速でアディラ達が接敵することで龍馬達も動きやすくなるというわけだ。
「これにて会議は終了じゃ。王、何か一言お声かけ下され。」
「んええ~無茶ぶり過ぎない?」
「何でも良い。死闘の前じゃ、鼓舞するは将の務めよ。」
苦い顔で考えること数秒。いきなりのご指名に文句を垂れつつ、流石王と言うべきか息を吐いて整える。そこには獣、覇気纏う獣王が君臨していた。
「諸君、なんて格好つけるのも良いけどね。固い事は言えないから一言だけ。相手が混沌だろうと、何体湧き出てこようと、人知を超えた力を持っていようと関係無い。あたしが出るんだ、」
剥いた牙が鋭く輝いて、立てた爪が空気を撫で裂く。神宿す肉体の鼓動が空気を震わせた。
「喰らい尽くせ。」
とても凶暴な野生が香る。それは興奮剤のように,
全員を奮い立たせた。
山道から外れたけもの道を通る第一の班。予想より遥かに入り組んだ道が進行を遅らせる。
「今どの辺りだ?」
「八合目辺り。私達は七合目の少し下だから…若干遅いくらい。」
的確に答えたのは同じく第一の班に編成されたアリスだ。
二手に分かれた三つの班は霊峰アルネカイナを北と南の間反対の位置から攻めることとなった。この作戦では混沌と赤子を二分することが特に重要、接敵の機会は慎重に図らねばならない。アリスとテレスはこの山の範囲であればギリギリお互いの位置を知ることが出来る(これは混沌故の能力で、シドはこの事に気付いているわけだがあえてヴェルデには明かしていない。)為この編成となったのだ。
「望ましいのはすぐ後ろを行くことだ、が急ぐ必要は無い。」
「まぁね。走ればすぐだし。」
後方支援組に合わせた進行の為アクノマキアにとっては遅すぎるのか、小枝を振って退屈を凌いでいる。
だが気は引き締まったまま。山頂で待つは超上物、いつでも戦闘態勢に移行する準備は常に出来ていた。
「着いたね。」
山道を歩いていたアディラ達が山頂に到着した。近くなってから肌を撫でる冷気の正体が現れた。凍る磔刑湖、それはとても綺麗な景色だった。だが同時に異物も一つ、目に入る。
「第三の赤子か。第三の班とテレスは後方待機、ベルフィーナと儂はセントグレンの補助だ。」
「はい…っ!」
作戦通り、近くに本体は居ないようだ。湖畔にはこちらへと背中を向け、膝を抱えて座る灰色の異形。立ち上がって振り返った赤子は体だけを見れば普通の人間と同じ中肉の裸体、灰色に生殖器が無い点は異なるが。
さて問題は視点を上げた頭部。顎先の丸い灰色大根頭、なんて可笑しな形容だろうか。太く長い形状の頭部は人間の体で支えるには重いのだろうかユラユラと定まらない。それだけでは無く気色の悪さを増殖させるのは縦に並んだ六つの口だろう、目も鼻も無く頭部の中心で縦に並ぶ大口からは綺麗に生え揃った黒い歯が見えていた。
カチカチと音を立てて空を噛む赤子は頬の位置を両手で抑えて首を傾げた。可愛さを見せたいのか、逆効果であるのを知らず大きな六口で六つの笑顔を見せた。限界まで吊り上げた口端から赤い血が垂れて太長い顔に線模様を描く。
「どうしたセントグレン。」
赤子は初めて見るモノを前に立ち止まったまま、攻撃するには絶好の機会。だというのに動く気配が無いアディラを不審がるシド。背負う武器を抜く素振りも見せない彼女は、あろうことか目線を外して戦闘を放棄している。
「んーここは任せてもいいかな。」
「な…っっ!ふざけている場合では無いぞ!!」
「大丈夫大丈夫、二人で十分倒せるから。なんならその子だけでも戦えるよ?」
そう言って背中越しに手を振ったアディラは湖畔とは反対に歩き始めた。大真面目だと言うアディラの考えがさっぱり分からず混乱する。シドが慌てて腕を掴み引き留めたその時、再び動きを見せた赤子はバッと音が聞こえるほど急速に顔をアディラの方へと向けた。背中を向けた彼女を獲物と認識したらしい。
赤子は何も知らない、生まれたばかりの存在だった。それ故感じる全てが初めてのモノ。赤子はただ知りたかった、目の前でこちらへ大きな感情をぶつける存在がなんなのか。そして自分が何者か、生れ落ちた世界で自分という存在が捕食者であるか被捕食者であるか、何番目に強者であるのかということを。
「止めておきなよ。」
自分を前にして逃げる存在は恰好の獲物だと思った。だから一歩踏み出してみた。だが赤子は生まれて最初に知る事になる、自分が一番では無いということを。
「あんまり機嫌が、良くないんだ。」
微かに見えたそれが殺意だと、教えられずに理解した。
カチカチと六つの口に生え揃った黒い歯を鳴らして怯える赤子。自分より小さな背中、しかしそれが圧倒的強者の後姿だと理解できないほど欠陥品では無かったよう。
「―――。」
シドの腕を解いたアディラは彼の耳元に顔を寄せると何かを囁いた。真意を訪ねる為に振り向くと彼女はフッと微笑んで去って行った。
「老公っ!」
ベルフィーナの呼びかけで我に返ったシドは戦闘態勢を整える。クルッと二人に向き直った赤子は今度こそ、と大きな頭を抱えて歩き出した。
「くっ、良いかベルフィーナ切り替えるのじゃ。主体はお主、最大限の補助はしよう。出来るな!」
「すぅぅぅ…行きます、!」
大きく息を吸いこんだベルフィーナは全身を赤いオーラで包み始めた。出し惜しみは無し、全開全力を発揮する。
「狂化ッッ!」
青髪が燃えるようなオーラをたなびいて風に揺れる。狂化魔法、それは魔力を脳へと流し自らのリミッターを無理矢理外すことで運動能力を爆発的に向上させる力。行使中痛みや苦痛など一切を遮断することで暴に特化した狂戦士へと成るが、その代償は軽くない。
「お主それは命を…いや、今は野暮というものか。しかしついていくのが大変だわいッ!!」
同時、弾けるように左右へ跳んだ二人。苦言を飲み込んだシドも負けじと全速で駆けた。右にベルフィーナ左にシド、赤子を挟んで姿勢を低く力を溜めて期を伺った。
数秒。パキッと割れる氷の音、赤子の意識が一瞬湖の方へと向いたその時。
待っていたと赤の暴流が灰色の躰へと切迫、低い体勢から天へ昇る拳がその大きい頭を狙って放たれた。
空気を割る音と衝撃波が辺りに響く。天を抉るようなアッパーカットが大きな頭に直撃して赤子の躰を空中に浮き上げる。肥大した頭と六つの口があろうと木偶の棒、無防備に打ち上がった赤子に迫る追撃。一瞬置いて踏み込んだシドが跳び上がり木杖を振り被る。
まるで旧知の戦友か、ぴたり息の合った連携はそう思わせるほど練達したものだった。地面に叩きつけられ減り込んだ赤子は六口を大きく開いて低く呻き声を上げる。
決まった、油断的確信をしてしまうほどの完璧な強撃。だがそれは傍から見ている者の視点、地面に伏せる赤子を見下ろした二人には息を吐く僅かな余裕も無かった。
グリンッと回転して起き上がった赤子がすぐ近くの二人に噛みつこうと巨頭を捻る。ガチガチと噛み合わせの良い黒い歯は見えているところを数えるだけでも人間の何倍も数がある。そしてその大きな音は赤子の咬合力が相当であることを明らかに示していた。
まるでこん棒のように頭を振り回し始めた赤子は二対一だという不利を跳ねのける破壊力を見せつける。芯で喰らえばひとたまりもない打撃に加えて、掠れば肉骨など簡単に砕く六口が余計二人に大げさな回避を強制させた。
「ダメージがまるで見えません!!」
細い灰色の躰には確かに二撃強烈なモノをぶつけたはず、しかし傷は無く砂で汚れている程度。動きを止められたのはほんの一瞬、しかも赤子はスイッチを切り替えたように怒涛の攻撃を繰り出してくる。
「足を止めるなっ!良いか、必ずここで仕留める。もう一度ゆくぞベルフィーナ!!」
赤子を挟んで体格に構えたベルフィーナの赤に呼応してシドが白いオーラを纏う。これは彼女の狂化魔法と似てはいるが別の代物、獣人にのみ伝えられる秘技。全身に巡り流れる獣の血を魔力により高速に循環させ、五感・身体能力を数段高い領域へと連れて行く。これは純粋な獣の御業、太古野生に生きた暴獣を身に下ろす術だ。
猛攻止んで静けさの中、赤と白が左右で揺れる。狂と暴に挟まれた赤子、はキョロキョロと頭を振って立ち尽くすばかりだった。
赤子には言葉が分からなかった。二人はそれを知らずにいたが自ずと口に出さないで、目と目が合ったその瞬間合わせた呼吸が空気を弾く。
爆発したようなボッッという重い音が重なった。全く同時に跳び迫る二人は寸分違わず赤子の懐に、そして地面に突き刺した片足を軸に大きな頭を蹴り挟んだ。
グシャァリィィ
鈍く芋虫を踏んづけたような感触とぐちゃり足に生々しく伝わる肉の柔らかさ。百戦と共に命を預けて来たかのように息の合った二人、勿論シドによる導きが大きいがとは言えそれについていくのは簡単ではない。減り込んだ二つの足が大きな頭を潰そうと、まるで万力のように圧力をかけていく。
「吹き飛べ、赤ん坊。」
蹴りの衝撃に耐えきれなくなった躰が回転しながら飛んでいく。空中で二・三回った赤ん坊は地面を跳ねて転がった。六口から噴き出す血は相当、負ったダメージもかなり深い。というのに油断どころか一息と汗を拭えないのはあの大口が口角を上げているからだ。
吐いて、嗚咽。
頭に死が過ったのはなんの不思議も疑問も無かった。苦しそう、まさか。その呻き声がとても、それはとてもとても嬉しそうに聞こえたから。
「は、ははッ、八ッハッ八ッッハッッハッッ!」
吸うことを忘れ断続的に息を吐く。目と鼻、いや目と睫毛の先なんて距離も無い瞬きに触れるほどの地下さ。眼前に広がる灰色から逃れるように腰が抜けて地面に落ちる。顔面に貼り付けた恐怖を認識したのは頬に垂れる噴き出した汗を唇から舌先で味わったその時。
制止した世界の中でただ独り、誰に邪魔されるわけも無いというのに。自由な彼女は動かない怪物に支配されていた。
「ハァッ、ハァッ…はぁはぁ…っ。」
咄嗟に開いた髪に隠れた目、両目で見る世界には音も動きも存在を許されない。時を止める魔眼によって作り出された光景は酷く醜悪なものだった。
やっと呼吸が落ち行いて来たベルフィーナ。ゆっくりと慎重に立ち上がった彼女は改めてそれの全貌を目に映す。
そこには大根頭に並んだ六つの口から黒い歯を割って湧き出す腕、腕、腕。まるでもう一人、いや何十人と無理矢理這い出てこようとするかのように腕だけが生えていた。
腕の集合は六つの口から束になって絡みつき、作り出したのは極太の腕。そしてその木の幹のように逞しい六本の腕はベルフィーナとシドを握り潰そうとしていたのだ。あと数秒、数瞬時を止めるのが遅れていたら二人の躰は鼻をかんだ紙屑のように小さく丸められていただろう。
奇妙なんてもんじゃあ無い。大きな頭を乗せていようと体は中肉中背の青年のそれ。そんな器のどこにこれほどまでの腕を詰め込んでいたのだろう。いやそんなこと考えている暇は無い。この痛みが知らせてくれる時間はもう、僅か。
地面を揺らす轟音と振動が響いて湖の氷に罅を走らせた。転がる小石を砂を跳ねさせて太鼓のように打ち鳴らす、駄々だ。癇癪だ、赤子が自分の思い通りにならない事や気に食わないことがあると訴えるように叩き鳴らす地団駄が辺り入り面を揺らしていた。
「だいじょう、ぶですか…老公っ。」
「ああ、すまんの、足手纏いになるつもりはっ…しかしお主。」
場所は木の下、影になっているというのに元いた場所より気温が高いのは凍てついた湖と距離が離れているから。時の止まった世界でベルフィーナは、大きな手に握りつぶされそうになっていたシドを抱え出来るだけ遠くへと走った。一方的に攻撃する絶好の機会を見逃して。しかしそれは大正解だったと言えるだろう、今目の前で起きている光景は最早天変地異の域。
「っ!!」
シドが責める余地は爪先の垢ほども無かった。揺れる地面の上で這いつくばりながら耐える二人はただ見つめていることしか出来なかった、それは怪物の技。
手あたり次第滅茶苦茶に大きな六本腕を振り下ろしているだけなのに、そこには深く大きな穴が掘り下げられていた。そして音の止んだ頃には磔刑湖にまで広がった穴は水を中へと落とし、まるで雪だるまの頭のように小さな湖を作り上げてしまったのだ。
握りつぶされていたならば。二人を掴んだままの腕は地面に叩きつけられて、潰れてしまう?まさか。
「滅茶苦茶なことしよるわい…っ。」
唾を飲むのが苦しい程に追い詰められていた。滝のように流れている水に濡れて穴から這い出してきた六口の怪物の姿を見て、こいつはヤバイと直感する。
歴戦の経験が身体を動かしていた。木杖を捨て放って跳び込んだシドは怪物が動き出す前にと、引き弾かれたパチンコ玉のように。
「むんッッッ!!!」
回転した身体で地面を跳び上がり、大きな手を掻い潜り駆けて宙返りしながら放つ蹴りが顎先を掠める。弱くて軽い一撃だ。しかしその蹴りは確実に顎を跳ね上げて脳を揺らす。自分では仕留めることは叶わないと踏んだシドは確実な、まるで微毒のような鋭い一発を怪物の躰へと打ち込んだ。
パァァァァアアアンンンッッッ
風船を針で刺し割ったような破裂音。地面から離れた大きな平手は砂土を引いてゆっくりと挙げられる。減り込んだシドは腕を重ね身を守っていたといえダメージは相当、すぐに逃げなければいけないというのに衝撃に麻痺した身体が動かない。無慈悲か、上からは力強く握られた拳が振り下ろされる。
ハッ、と。押し開いた瞼、首だけを動かして見詰めた先は木陰のベルフィーナ。今自分は、なんとこの【賢獣】と恐れられたこの獣は今何をしたのだ。
「儂も、老いたのぅ。」
助けを渇望するなんて生まれて初めてのことだった。地面と拳の間から見える少女はこちらに手を伸ばして叫んでいた。ただ声の代わりに吐き出したのは大量の赤、両目からも垂れるそれは重い代償だ。
あの時確実に握りつぶされていたはずだった。そのまま地面を染める汚い絵の具になるはずだった。しかし気付いたときには離れた場所で安全に膝をついているではないか。あれは特殊も特殊、長年生きていた身でさえその名前しか知らない【時止の魔眼】という代物だ。
魔眼はとても簡単に扱えるような軽いモノでは無く、それ故に対価を払って使用しなくてはならない。それは疲労だとか痛みだとか。果ては彼女のように最悪な、寿命だとか。
ぼたぼたと口から吹きこぼれる赤の液体は蛇口をひねり過ぎた時のようにもの凄い勢いでとめどなく、削り取った彼女の命を奪いながら地面へと落ちていった。助けはには来れない、だがもうそんなことは望んでいない。
つんのめった彼女は頭を打ち付けて倒れ込む、立ち上がれないだろういやもう立ち上がらなくていい。そしてその隠した目を開くことなく、顔もこちらへ向けくていい。みっともない、誰にも見せたくない。
今の心残りはそうさなぁ。
暴れん坊のあの子の手を、もう一度引いて上げられないことか。
強がって笑う老獣の顔が影に堕ちていく。地面と拳の隙間がゼロになって、大地が深く重く揺れた。
「また大きく揺れたね。あっちはもう交戦中みたい。」
山頂、北側から斜面を登っていた三人がついに視界へ磔刑湖を映す。龍馬とアリスにとっては初めての光景だ、なんとも美しい一面の氷床。だが見惚れている暇は無い、反対側で赤子と戦っているだろう三人の行動を無駄にしない為にもこちらは早く混沌本体を見つけ出さないといけないのだ。
「いない。」
アリスの呟きに龍馬が頷いた。まあ流石に都合よく本体が離れてこちら側へいるとは思えないが、この湖にいないということはないだろう。
「あ、ううん。いたいたみーっけ!ほら浮島、目を凝らせば…ねっ?」
嬉しそうに振り返ったアクノマキアが望遠鏡のように手を翳しながら浮島の方を指さして言った。だが指の先をみても浮島が小さく見えるだけ、流石にそこに何がいるかまでは分からない。
「もぉ目え悪いな~。いこっ、ちゃあんと居たよ小さい子。」
逆なのだ、彼女の目が良すぎるのだという言葉を飲みこんで彼女へと二人は着いて行く。くだらない嘘は吐かないだろう…いや彼女なら吐くかもしれないが今はそんな場合では無いことぐらい分かっているはず。
分厚い氷は三人が乗ったぐらいではびくともしないで安定感があった。やはりそこまで凍り付いているのだろう。縦に並んで進む三人は先頭にアクノマキア、少し離れて龍馬、ピタリと袴を摘まんでアリス。
滑らないよう気をつけながら目指す浮島が大きくなってきた。なんと質素な陸地なのだろうか、それだけの為に存在すると主張するかのごとく立つ鉄の十字磔が武骨に存在感を発していた。
「ほら。」
「…ああ。あれが、リリーか。」
近づいてはっきりと姿が分かった。少年が膝を抱えて座っている。十字架に寄り掛かって背中を見せる彼は話に聞いた通り、とても小さかった。十二歳、幼い彼は足音になんの反応も見せない。黄色い髪がヒュゥっと吹いた風に揺れた。
「リリー。」
アリスをアクノマキアに預けて近づいた龍馬が声をかけた。少しずつゆっくりと驚かせないよう、背中に優しい声をかける。返事が無いことに唾を飲んだ。寝ているだけだと、思うことが出来なかった。
肩を揺するとあまりにも抵抗と重みが無かったから、小さい身体がより軽く懐へと倒れ込んでくる。力の入ってない首がぐるりと重い頭を傾けさせた。顔は青白い、半開きの瞼からは色の無い瞳が見える。ダメか、そう思い二人の方を向いて首を横に振った龍馬が目を閉じてあげようと手を翳した。すると触れた肌がまだ少し温かいことに気付く。彼はまだ、とても弱くほんの少し手荒に扱えば消えてしまうほどの小さい火を灯していたのだ。
「は、はやくこれっ!」
慌てたアクノマキアが取り出した治癒薬をリリーの口に押し込んだ。無理矢理が過ぎる、と龍馬は止めようとするが小さな喉が波打つのを見て手を引く。治癒薬を飲み込んだリリーは、この子はまだ生きる事を諦めていない。
丸一本、ゆっくりゆっくり飲み干した彼は瞬きを始めて瞳に色を戻していく。だが大分衰弱をしているのだろう当分話すことも動くこともできそうにない。当然か、今向こう側で戦っていると思われる赤子は彼が出産したモノ。体力をとても使ったのだろう。
「そっかじゃあ今が…絶好の機会ってわけなんだ。」
その一言が気付いていたことを明確に目の前へと貼り付けた。それが最善だと、しかし最低だと。龍馬の腕の中には出産をして衰弱した混沌の本体、【鏡面】が無防備に横たわっている。しかし、あまりに酷い。
「なにか?俺はこれから、治癒薬を飲ませて生きる事を強いたこの子を殺さないといけないのか?分かっていた、俺達は混沌を、リリーを殺しに此処へ来た。だから何をすべきか、何をしなくてはいけないのか分かっているはずなんだ。だがしかしあまりに、はっ…。」
「そう、酷いんだ。惨いんだ。でもやらなくちゃあならない、ほら見てよこの湖、綺麗なんて言えるのは正体を知らないから言える無知の特権だ。あたし達は知っている、知っているからにはやらなくちゃあならない。大陸が惨酷を受け入れて壊れてしまう前に。」
死んだような目で短く息を吐いた龍馬に無慈悲だが正しい言葉を浴びせるアクノマキア、彼女は奔放だが一国の王としてここはこの場は選択を誤るわけにはいかないのだ。
地面が揺れて小石が転がった。そうだ、今も向こうではリリーが生み堕とした赤子とベルフィーナ達が戦っているのだ。任された、それを忘れてはいけない。
小さな彼を浮島の地面へと寝かせて立ち上がった。もう躊躇は無い。
先程までの揺れも静かになった。少しだけ寒い、口から洩れる温かい息を逃さないように飲み込んで手を掛けた灰屍の柄がこれから行うことを咎めるかのように冷たい。
「リリー。さよならだ。」
抜いた彼女は顔を映し出す。龍馬は苦しめないようにと、眉間に皺を寄せた苦しそうな顔をしていた。
最後までお読みいただきありがとうございます。第五章も順調に進んでいます、これからもどうかお読みいただけると嬉しいです。




