51.意思を継ぐ者
「――俺は、お前の過去の一部を追体験した。ゆえに、ある事実を知った」
心を決め、ゼルマンに向かって切り出すと、奴はおもむろに足を止めた。
「お前の母、そしてお前は、聖人フラタルに討たれた逆臣、“アルマギア・ツヴァール”の末裔だった。そうなのだろう?」
続けて問う傍ら、幼少期のゼルマンが口にした次の言葉が、不意に脳裏を過ぎる。
『……僕のことを、“ツヴァール”とか、“穢れた血”と呼んで、石を投げつけてくる連中が、学校にいるんです。お父様、お母様、教えてください。“ツヴァール”とは、一体何なのですかッ!?』
無言のまま佇立するゼルマンを見据えながら、俺は総主教より伝え聞いた、アルマギア・ツヴァールの生涯について思い返していた。
――時を遡ること、約二百年前。このレヴァニア王国は、南方の一大帝国“ジャーガンディア”の侵攻という未曽有の危機に直面し、フラタル以下、全十三名の“奇跡の兵”の使い手が戦線に投入された。
その中でも、フラタルに匹敵する獅子奮迅の働きを見せたのが、元宮廷魔術師団長にして、国家の忠臣と謳われた傑物アルマギアだった――が、王国軍の勝利が決定的となったその矢先、彼は“奇跡の兵”を率いて祖国に牙を剥き、フラタルの手によって討たれるという最期を迎えた。
先王ロランバルデ四世の養嗣子だったアルマギアには、王の実子に王位継承権を譲った過去があり、一説によれば、それが予期せぬ謀反に繋がったと伝えられているが、今となっては、真実は神のみぞ知る、だ――。
「……アルマギアの犯した罪は、あくまでも当の本人だけが背負うべきもの。それが子々孫々にまで継がれるなどということは、断じてあり得ぬ。にもかかわらず、その至極当然の事実を、人々は受け入れなかったばかりか、お前とその母を“穢れた血”と罵りさえした」
そう続けると、ほんのわずか、ゼルマンは片眉を動かした。
「お前の母が死に追いやられたのは、人々の救い難い愚かしさと、他者を断罪したいと願う歪んだ欲求が結びついた結果にほかならぬ。さらにお前は、母の葬儀の当日、筆舌に尽くし難い、あまりに不幸な事故によって、父までも失った。
世に蔓延る不条理こそ、唯一にして最大の敵である――お前はそう思わざるを得なかったはずだ。あるいは運命が、不条理に挑むことを己に求めているとさえ感じたのかもしれぬ。ゆえにお前は、若くして反政府組織の指導者となった。人々を痛めつける圧政こそ、世の不条理の最たるものだと考えたのだろう。
そして、ノルドーなる領民の訴えを聞き、かつてない義憤に駆られたお前は、死者の軍勢を率いて戦う覚悟を決め、己の名を“ゼルマンド”と改めた。“ゼルマン”という元々の名を、新たな名に引き継いだのも、己の戦う理由、さらには己の背負った過去を、いつ何時も忘れぬためだったに違いない」
「……仮にそれが事実だとして、お前は何が言いたいのかね?」
一切の感情を宿さぬ声で、ゼルマンが問うた。
「お前は戦役の最初期、単なる侵略者などでは断じてなかった――これこそが、俺の主張にほかならぬ。事実俺は、圧政地の人々から歓待を受けるお前の姿を、お前の記憶を通して、この目で確かめた。
王国政府は開戦当初より、お前を国家の敵と位置付け、単なる侵略者のごとく触れて回ったが、それは事実ではなかった。王国政府の狙いは、お前に一種のスケープゴートの役割を負わせ、国民の政治的批判の矛先を逸らすことにあったのだろう。お前はそれを承知の上で、汚名を着せられることを厭わず、人々を圧政から解放するために戦い続けた」
ゼルマンの過去を知った今、己の心境に大きな変化が生じていることを、俺は強く自覚していた。
そして、言葉を選んで話を続けた。
「……実に不思議なものだ。かつて俺は、お前を我が手で討つことのみを願い、日々飽くことなく剣を振るい続けた。しかし今は、お前を憎む気持ちにはなれぬ。得も言われぬ因果の巡り合わせが、“死者の王”ゼルマンドを世に生み落としたのだと、ただひたすらに痛感するばかりだ。
俺もお前も、自らの生い立ちと、己を取り巻く環境に翻弄され、やがて禁忌の力を頼った。“暗黒魔術”との邂逅を、俺は不可避な運命のごとく感じたが、お前とて、それは同じだったのであろう。
そして俺たちは、数多の戦場を渡り歩く過程で、互いに手放してはならぬものを手放した。それが俺にとっては過去であり、お前にとっては人としての表情だった。お前と俺は、互いに刃を交える間柄でありながら、どこか生き写しのようでもあった」
「――お前の共感なぞ、私は望んでおらぬ。露ほどもな」
嘲るように口元を歪めつつ、ゼルマンは突きつけるように言った。
「……だが、その共感ゆえに、お前が翻意して私の側につき、共にこの国を創り変えることを望むならば、無論歓迎はするつもりだ」
「――勘違いするなよ、ゼルマン。俺はお前の背負った哀しみにこそ共感するが、人を人とも思わぬお前のやり口だけは、断じて認めぬ」
ゼルマンの顔を直視しながら、俺はハッキリと告げた。
「いつしか人としての表情を失ったお前は、代わりに冷酷無比な鉄面を被り、本物の侵略者に身を堕とした。戦線を維持するために、町や村々を襲撃し、罪なき人々を屍兵に変え、己の兵として用いる――かような暴虐非道を是とするなど、本来のお前は決して望んでいなかったはずだ。俺はそう信じている」
「……ほう。要するにお前は、“奇跡の兵”の詠唱を思い留まれと、私を説得しているのか?」
そのつもりだ、と返すと、ゼルマンは乾いた笑い声を漏らしたが、俺は構わず話を続けた。
「二十五年にも渡って戦い続けてきたお前ならば、肌身に沁みて理解しているはずだ。争いはさらなる争いを生む。血と暴力は永久に連鎖し続ける。これが真理だ。是が非でも、血と暴力の連鎖は断ち切らねばならぬ。終わらせねばならぬのだ、戦だらけの古き時代は」
「――下らぬ御託を並べるのは、そろそろ止めにしてもらおう」
静かなる激情を宿した声で、ゼルマンは決然と言い放った。
「勝てば官軍、負ければ逆賊――歴史が証明するこの事実を、私は何よりも重く受け止めてきた。この国を在るべき高みに導くには、いかなる犠牲を払おうと、勝利という結果一点のみを、ただ偏に追い求めねばならぬとな。
ゆえに私は、築いた骸の山を、己の信ずる覇道の礎とした。死者の再利用こそ、最も合理的な戦略的選択にほかならぬと考えた。お前は何やら勘違いしているようだが、勝利のために手段を選ばぬ姿勢は、戦い始めたその日から今日に至るまで、私が徹頭徹尾貫いてきたもの。戦役の初期段階に圧政地を解放したのも、支持者を増やすためのプロパガンダとして、最も好都合だったからに過ぎぬ。
お前の言う“冷酷無比な鉄面”を被る現実主義者であり続けたからこそ、地方の一領主に過ぎなかった私は、決して歩みを止めず、覇道を突き進むことが出来た。仮に私が、一滴の流血も望まぬ、お前のように愚かな夢想家だったならば、同様のことが可能だったであろうか? 答えは、“否”ッ!!」
覇気に満ちた声で告げるなり、ゼルマンが高く右手を掲げると、そこに漆黒の大杖が宿った。
上端部に蛇の頭があしらわれたそれは、ゼルマンの過去の記憶を通して目にした、奴の少年時代からの愛杖にほかならなかった。
「……もう十二分に理解したであろう、イーシャルよ。これ以上の談義は栓なきこと。互いの道が交わることも、互いにあとに退くこともない以上、我々に残された方法は一つだけだ」
言いながら、ゼルマンは杖の先端を、こちらへ真っ直ぐ向けた。
「――相分かった、ゼルマン。大死一番、己の全てを賭して、俺はお前の覇道を阻む壁となろう」
そう返す傍ら、右手に力を込めると、不意に懐かしい感触が蘇った。
(――己の運命を切り拓く最初の一歩を踏み出せたのは、ほかでもない、こいつのお陰だった)
この目で確かめずとも、俺にはハッキリと分かった。
己の右手に宿ったのが、かつて娼館を抜け出すために、毎日欠かさず何百何千と振り続けた、あの手製の木剣であることを。
掌によく馴染む、その柄の感触は、未来永劫、忘れ得ぬものと言えた。
(――俺はもう一度、こいつで己の運命を切り拓く)
覚悟を定め、両手に木剣を構えると、ゼルマンは眩しげに目を細めた。
刹那、乾いた大地を、一陣の風が駆け抜ける――。
「――行くぞ、イーシャルッ!!」
言いながら、ゼルマンが足元に大杖を突き立てると、目の前の地面のあちこちに、大小の裂け目が生じた――と同時に、そこから無数の植物の蔓が飛び出し、得物を見定めた大蛇のごとく、一斉に俺目がけて這い寄ってきた。
「――参るぞ、ゼルマンッ!!」
駆け出すや否や、こちらの剣の間合いに到達した蔓の大群が、息を合わせたように鎌首をもたげる。
直後、槍のごとく鋭い蔓の先端が、全方位から攻めかかってきた――。
「――はああああッ!!!!」
小さく跳んだ俺は、身を翻しつつ、水平方向に木剣を旋回し、襲い来る蔓を悉く一刀のもとに断ち切った――が、着地したそのとき既に、螺旋状に前へ前へと突き進む漆黒の炎が、眼前まで迫っていた。
もはや回避は不可能だと見て取った俺は、我知らず、己に言い聞かせていた。
(――恐れは無用。この地はほかでもない、俺の精神世界なのだ。そして、俺が今手にしているのは、己の心に宿る、決して折れることのない剣そのものなのだ)
力を込め、柄を握り直すと、木剣が眩き白光を帯び始めた。
「――うおおおおおおおおッ!!」
吼えながらに、頭上高く掲げた木剣を振り下ろすと、閃光をまとった剣圧が地を滑り、真っ向から炎を両断した。
業火の狭間に、一直線に拓かれた道を、俺は狂ったように駆ける。
視界の先に捉えるは、大杖を振り上げたゼルマンの姿。
間を置かず、差し向けられた杖の先端から、放電光を帯びた漆黒の球体が矢継ぎ早に射出されたが、俺は構わず駆け続け、迫り来る球体を片っ端から斬って捨てた。
そして、最後の一つに斬撃を見舞った刹那、左右真っ二つに分かれた球体のそれぞれから、霧のごとき瘴気が一挙に噴出した――と、次の瞬間、渦を巻くように捩れ出した瘴気が、狼のごとき二匹の黒犬に姿を変えた。
「……ッ!?」
反撃の暇はなかった。
右方から、電光石火の速さで飛びかかってきた黒犬の牙に、右肩がものの見事に貫かれていた。
さらに左の脇腹にも、もう一匹の黒犬の牙が、深々と喰い込んでいる。
途端に膝の力が抜け、その場に頽れそうになるのを堪えながら、俺は黒犬たちに――延いては、その使役者たるゼルマンを意識して――問いかけた。
「――お前たちは、母犬を失い、ゼルマンに助けを求めた、あの仔犬たちなのだろう?」
刹那、犬たちの噛む力が弱まった。俺は話を続けた。
「……俺は親を持たぬゆえ、親を失った苦しみは、正確には分からぬ。だが、かけがえのない者を失ったときに感じる痛みがどれほどのものか、察することはできる。俺にも、身に覚えがあるのだ。さぞ辛かったろう」
語り終えたとき既に、禍々しき二匹の黒犬の姿は見えなくなっていた。
代わりに、俺の足元には、可愛らしい仔犬が二匹佇んでいる。
思わず笑みを零すと、彼らは揃って優しく吼えるなり、スッと姿を消した。
「――ゼルマン、お前にはどうやら、この犬たちに対する格別な思い入れがあるらしい。となればつまり、お前は人の心を失ってはいないということだ。まだ引き返せるッ!!」
そう語りかけ、再び駆け出す傍ら、俺は確信を深めていた。
(――ゼルマンの冷酷無比な鉄面は、断じて完璧ではない。奴の言動の端々には、言い知れぬ心の機微が見え隠れしている。事実、先刻ゼルマンは、俺と影の対峙を黙って見守り続けた。俺の影に加担することもできたはずだが、奴はそれをしなかった)
ゼルマンとの距離が縮まり、いよいよ剣の間合いに踏み込まんとした、そのときだった。
唐突に、奴がけたたましく笑い出したのである。
何かただならぬ気配を、本能的に感じ取った俺は、思わず足を止めた。
「……引き返す? 一体、どこへ引き返すというのだね? 私は今しがた、現世にて、“奇跡の兵”の詠唱を終えたのだよ、イーシャル」
芝居がかった口調で言うなり、ゼルマンは再び笑い声を立てた。
「死者たちには既に、王都を蹂躙し、王城を壊滅せよと命を下してある。後顧の憂いが断たれた今、私は漸く、お前との戦いに全身全霊を傾けることができるッ!!」
底知れぬ絶望が、直ちに全身を貫く――と同時に、ゼルマンが漆黒の瘴気を帯びた大杖を、咄嗟に頭上高く掲げた。
「――嗚呼、聞こえるぞ、イーシャルッ!! 絶望に打ちひしがれた、お前の真なる魂の叫びがッ!!」
ゼルマンが素早く大杖を振り下ろし、地に突き立てたその刹那、激甚なる衝撃波が拡散し、俺は身動きがとれなくなった。
同時に、見渡す限りの大地に、蜘蛛の巣状の亀裂が走る。
次いで、地の裂け目から、マグマを彷彿とさせる紅色の閃光が、一挙に吹き上がり、足元がぐらりと揺れた。
「……!?」
気がついたとき既に、落下は始まっていた。
足場としていた地面、それ自体が消失していたのである。
硝子のごとく砕け散った、無数の大地の破片が、眼前を覆い尽くさんばかりに舞っていた。
「……最期の瞬間とは、存外呆気ないものでね。かつて、お前に首を落とされたときに、私もそれを知った」
宙に浮かぶ、孤島のごとき大地に立つゼルマンが、こちらを見下ろしながら不敵に言い放った。
ぎょっとして、視線を下に向けると、果てのない、闇夜のごとき漆黒の深淵が映り込む。
それは否応なしに、“あの日”の惨劇の直後、俺が押し込められた懲罰房――蟲たちが蠢く、あのじめついた穴倉である――の内部を思わせた。
「――イーシャルよ、己の心に巣食う絶望の奈落に、未来永劫、堕ち続けるが良いッ!!」
奇妙に誇張されたゼルマンの声が、遥か上方から響き渡る。
かつて俺を“血の報復者”とならしめた、憤怒、悲哀、憎悪、絶望――ありとあらゆる負の感情が、目下の深淵に渦巻いていることを、俺は直観的に悟っていた。
(――このまま深淵に呑まれれば、俺は再び我を失い、もう二度と、己の肉体を取り戻すことは叶わなくなる)
ゼルマンは、束の間、俺の抱いた絶望を、具現化してみせたのに違いなかった。
精神世界の戦いにおいては、心の強さを保てるか否かが全てを決めるのだと、改めて痛感せざるを得なかった。
「……だが、まだだッ!! まだ終わりではないッ!!」
落下の勢いで、木剣を手放さぬよう、その柄を固く握り締めながら、俺は独りでに叫んでいた。
「“必ず道はある”――餓鬼の頃から、馬鹿の一つ覚えのように、俺はそう信じた。それがたった一つの生きるよすがだった。今日に至るまで、絶望は何度となく俺を打ち負かしたが、それでも俺は、必ず這い上がってきた。“必ず道はある”――そう信じ続けたからだッ!!」
俺はわけもなく、背中越しに、少年兵たちの存在を感じ取っていた。
彼らは今もなお、俺の背中を見てくれているのだ――ただただ、それが分かったのである。
同時に、イクシアーナが聞かせてくれた“にんじん”の言葉が、不意に脳裏に蘇った。
『俺たちみたいに、世間から爪弾きにされてきた、寄る辺のない人間でも、己の力で道を切り拓くことができる――兄貴は剣の稽古を通して、あるいは、戦場で自分の背中を示すことによって、そう語ってくれている気がするんだ』
そうとも、“にんじん”、お前の言う通りだ。俺は証明したかったのだ。“必ず道はある”と――俺は心の中で相槌を打った。
「――見せてやろうじゃないかッ!! 兄貴の背中って奴をッ!!」
叫んだ刹那、木剣の帯びた白い光が、一層強く輝く。
この精神世界において、絶望を具現化できるならば、その逆もまた然りであると、俺は固く信じた。
「――いかなる道も、いかなる運命も、己の手で切り拓くッ!! それが俺という男だッ!!」
全身全霊の力で横一線を振るうと、剣尖から伸びた鮮烈なる光の奔流が、目の前の暗闇を分断した。
一拍の間を置いて、空間の裂け目から、おびただしい数の光の粒子が舞い上がる。
俺は身を翻し、迷わず裂け目の中に飛び込んだ――。
* * *
視界を覆い尽くしていた、光の粒子の霧が晴れたとき、眼下にゼルマンの姿が見えた。
奴は孤島のごとき大地に立ち尽くしたまま、こちらをじっと睨み据えている。
「……イーシャルッ!! 何故だッ!? 何故そうまでして、お前は我が覇道を阻もうとするッ!!」
激昂した声で叫びながら、ゼルマンが杖から漆黒の稲妻を放った。
俺は落下しながら、光の奔流をまとった木剣でそれを薙ぎ払い、地面に降り立つ。
そして、間髪入れず地面を蹴り飛び、大きく振りかぶった光の束を、ゼルマンの頭上から浴びせかかった――が、奴は杖の先端から、半透明状の漆黒の障壁を瞬時に展開させ、渾身の一撃を受け止めた。
「――聞いてくれ、ゼルマン。お前には、どうしても言っておかねばならぬことがある」
眼前に捉えたゼルマンを、真っ直ぐ見据えながら、俺はそう切り出した。
「俺もお前も、人生の過程で大きく損なわれた者同士だ。俺がより早くに生まれ、お前と出会うことがあったならば、俺たちは互いに理解し合い、今とは全く別の道を、共に歩むこともできたかもしれぬ。……だが、俺たちは出会うのが遅過ぎた。ゆえに、今の俺に出来ることと言えば、お前にこれ以上道を誤らせぬこと。この一点に尽きる」
言いながら、俺は不意に思った。
今こうして刃を交える互いの立場が、全く逆だった可能性も、十分あり得たのではないか、と。
何と言っても、この俺自身、一度は道を踏み外しかけた身である。
あのまま己を、軌道修正が不可能な方向へ追いやったとしても、決しておかしくはなかった。ならば、ゼルマンもまた、何らかのきっかけさえ掴めれば、“破壊による新世界の創造”以外の道を見出すことも、断じて不可能ではなかっただろう。
(――だが、現実はそうならなかった)
得も言われぬ想いに捉われながらも、俺は話を続けた。
「――俺はお前と決別せねばならぬ。だが、その前に一つだけ誓わせてもらおう。お前は世が公正であることを望んだ。お前なりに、より良い未来を求めて戦い続けた。その志は、この俺が受け継ぐ」
俺の言葉を聞いて、ゼルマンが何を感じているのか、その表情から読み取ることは出来なかった。
なおもぶつかり合う、光の刃と漆黒の障壁から散る火花の音が、静かに響き渡る――。
「だが無論、俺の信ずる道は、お前の信ずる道とは根本的に違う。人々の命や、生活の営みを踏みにじって築かれる未来など、塵ほどの価値も持たぬ――俺のこの考えが揺らぐことは、断じてないのだ。よって、“奇跡の兵”の進軍だけは、是が非でも止めさせてもらう。
そして俺は、誰の血も流すことなく、より良い未来を、この国に築いてみせよう。愚かな夢想家にしか、思い描けぬ未来――それはきっと、お前が本当に見たかった未来でもあるはずだッ!! ゼルマンッ!!」
「……いいや、愚かな夢想家には、一国を変えることはできぬ」
ゼルマンが、確信めいた声で言った。
同時に、風になびく長い白髪の間から覗いた奴の眼光が、冷ややかに光った。
「何より、今のお前では、私を超えることは不可能ッ!! 我々の間には、如何ともし難い力量の差があるッ!!」
ゼルマンが言い放った刹那、俺はハッと気がついた。
いつの間にか、対峙する俺たちを取り囲むように、漆黒の瘴気が漂い始めていたことに、である。
次の瞬間、瘴気を掻き分けて姿を現したのは、幾人ものゼルマンだった。
“鏡像”の術によって創り出されたがごとき奴の写し身たちは、一様に高く掲げた右手に、ゆらめく漆黒の炎を宿していた――。
「――散れ、イーシャルッ!! お前の魂の死をもって、我が覇道の最後の礎を築こうッ!!」
ゼルマンが叫ぶと同時に、奴の写し身たちが放った漆黒の火線が、一斉に俺の体中を貫いていた。
視界が霞み、全身の感覚が失われてゆくのを感じながら、俺は手にした木剣を地に放った。
そして、ほとんど透明と化した右の拳に、ありったけの力を込めて吼えた。
「――うおおおおおおおおッ!!」
倒れ込みながら、無我夢中のまま繰り出した正拳は、ゼルマンの杖が展開させた障壁を、確かに突き破っていた。
その障壁は、俺の瞳にはどういうわけか、奴の心の壁そのもののごとく、映っていたのである。
なればこそ、破らねばならぬと、俺は己に命じていたのだった。
「……人の未来も、この国の未来も、過去、そして現在の上に積み上げるものでなくてはならぬ」
膝から頽れながら、俺は声を振り絞って言った。
「絶対に、壊してはならぬのだ。俺自身がそうだったように、歩んできた道のりを否定しては、未来への正しい一歩を踏み出すことは出来ぬ。それはこの国とて、全く同じだとは思わないか?」
問いかけつつ、もはや目に映らなくなった右手を精一杯伸ばし、ゼルマンの心臓にそっと触れると、そこに小さな光が灯った。
「……精神的共鳴だとッ!? まさか、この私に、“精神寄生”し返すつもりかッ!?」
ゼルマンが、俄かに顔を歪ませながら、愕然たる声を上げた。
「力でぶつかり合う以外にも、道を拓く術はある。争い合うことばかりが、人間の能ではないのだ。現に俺とお前は、こうして幾ばくかでも、互いに分かり合うことが出来た。そうだろう、ゼルマン?」
想いを込めて返すなり、霞んでいた視界に、とうとう何一つ映らなくなったが、俺は信じて疑わなかった。
遂に己の肉体を、取り戻すことが出来るのだと――。